9:独身OLの残業

 イガワ・ミノリ。女性。二十四歳。独身。システムエンジニア。

 公立四方津大学を卒業後、IT企業に就職。

 現在は四方津よもつ市内のアパートで一人暮らし。


「入った会社がスーパーブラックで毎日終電帰宅、ヒドい時には3日帰宅できず、生活はズタボロ。上司はパワハラ・セクハラ何でもありの外道、周囲からもいじめを受け、病気がちの親は頼れず、唯一の癒やしと言えば絶賛重課金中のソシャゲだけ……」


 俺はスクルドが置いていったタブレット――ヴァルハラ流に言うと『ハンディ・ウルザブルン』に浮かんだテキストを読み終えてると、思わず夜空を仰いだ。


「これは……むしろ転生させてあげた方がいいだろ」

「まあまあ、そう言わず。ほら、清実ちゃんも見てみなよ」


 あくまでお気楽な態度で、ブリュンヒルデが望遠鏡を渡してくる。


 俺達は、ちょうどオフィスの中が覗ける、お向かいのビルの屋上に陣取っていた。

 春先の夜風はそこそこ冷たいが、仮の身体ウイルドは病気もしないそうなので、まあ大した問題じゃない。


 時刻は午後十一時過ぎ。

 イガワ・ミノリさんは上司と同僚に押し付けられたあれやこれやをこなすため、一人薄暗いオフィスに残って仕事中。


 分厚い眼鏡の下には隈が浮かんでいるし、髪もなんかペッタリしてる。キーボード叩きながらブツブツいってるし。

 多分、二、三日は徹夜してるんじゃないか。


「……見てるこっちまでツラい」


 望遠鏡を覗きながら、俺は呟いた。

 仕事の辛さも彼女の苦しみも、全然知らないけど、それでもやっぱりいたたまれない。


「ホントに阻止しなきゃダメなのか、この転生」

「あー、まあねえ。でもほら、生きてればいいこともあると思うんだよね」


 そりゃそうかもしれないが。

 でも異世界でお気楽に過ごせるなら、そっちの方がイガワさんにとってはいい事なんじゃないか?


 イガワさんは何度目かの溜息を吐いて、それから、デスクの下に押し込んであったカバンに目を向けた。


「なあ、ブリュンヒルデ。あのカバン。何が入ってると思う?」

「そりゃ……ええと、十二時には死ぬなら、多分、遺書とかロープとか睡眠薬が入ってるんじゃない?」

「だよなあ……」


 会社で死体が見つかった、なんてなったら、かなり騒ぎになるだろう。

 過労死やら時間外労働が話題になってる世の中だし、会社にも悪い注目が集まって。


「お前らも道連れじゃい! みたいな感じなのか、イガワさん」

「やれやれ。会社なんかと刺し違えたって、いいことないと思うな、お姉さんは」


 一人頷くブリュンヒルデ。

 悟った顔してるけど、お前、さっき定時がどうとか言ってたろ。


「とにかく、自殺グッズを処分しちゃえば、クエストクリアだねー。よし、こなしちゃってよ清実ちゃん」

「いや。というか、そこまで覚悟決めてるなら、道具取り上げたって、その内なんかやらかすんじゃね」


 極端な話、窓から飛び降りたっていいんだし。


「え、じゃあ説得でもする? 君が」

「……無理だな」


 自慢じゃないが、俺みたいな何の苦労も知らない高校生の説得なんて、多分イガワさんにはコピー用紙一枚分の価値もないだろう。


「じゃどうすんのさ」

「とりあえず時間を稼ぐ。まずは十二時の『運命』ってのを食い止める。その後で他の方法を探す。とにかく、あと一時間じゃ何も出来ない」


 ふと望遠鏡から目を離すと。

 ブリュンヒルデが阿呆のような顔で、こちらを見ていた。


「なんだよ」

「いや……うん。ちょっと意外だなって」


 意外? なんで?


「建設的っていうか。結構親身に考えてるんだね、ミノリちゃんのこと」

「そうか?」

「もしかして、ミノリちゃんの顔、結構タイプ?」


 確かに彼女はかわいい。

 目は切れ長系で、唇はぽってりと厚い。

 だいぶやつれてるけれど、それはそれで幸薄そうで魅力的っていうか。


「そうだけど違う」

「どっちよ」


 別にイガワさんがおっさんだったとしても、俺は同じことを考えるだろう。

 なんでって言われても、説明しづらいけれど。


 その時だった。


「……そろそろっぽいぞ」


 望遠鏡のレンズの向こうで、イガワさんが動いた。

 思い詰めた顔で、バッグを開く。


 中から出てきたのは……封筒だ。

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