ニコと山小屋

 曇天の山道を行くふたり連れ。ひとりは青年、ひとりは少年。

 目元まですっぽりとフードが覆う揃いのマントに身を包み、ゴツゴツとした坂道を急ぎ足で駆けていた。湿った空気に埃の匂い。じきに雨も降るだろう。

 少年は先行く青年に追いつこうと少し歩を速める。しかし、ずっと前ばかり見ていたので、ついつい足元が疎かになった。

「アッ――」

 草に隠れていた大きな石に蹴つまづく。転んだ拍子に手を擦りむいたようだ。親指の付け根にじわりと朱が滲む。

「ニコ! 大丈夫ですか!」

 青年が慌てて引き返してくる。風に煽られたフードから覗いたのは、ニコと呼ぶ少年の安否をこころから心配する顔だった。長い黒髪を振り乱し、ただでさえ白い額は血の気が引いて青ざめている。ニコのそばへ駆け寄るや否や、顔や身体についた土汚れを拭いだした。

「ヤァ、これはいけない。血が出てるじゃないですか!」

 目をまん丸にした青年は雄叫びを上げる。

 それを見てニコは苦笑した。

「だ、大丈夫ですよこれくらい……お師さま」

「そうはいきません。弟子の不養生は師匠の恥です。たとえかすり傷でもそこから悪い病でも拾ったらどうしますか。そんなことであなたがもし寝込んでしまったら、心配し過ぎて私まで病気になってしまいます」

 師匠と弟子。それがふたりの関係性。師は弟子をこよなくから愛し、また弟子は師をこころから尊敬していた。

 ふたりの出会いは数年前。シトシトと雨の降る日のことであった。生まれ育った故郷を飛び出し空腹でさまよっていたニコは、旅の途中であったこの青年に助けられたのだ。それからニコは彼を師と仰ぎ、あてのない旅に同行している。

 ニコはこの青年と出会い、初めて他人の優しさに触れた。実の親にすら与えてもらえなかった愛情を教わったのである。

「とはいえ……」

 そんな師匠が天を仰ぎ、視界を覆いつくす黒雲よりもなお暗い表情を見せた。


 ポタ――ポタタタッ――。


 毛羽立ったマントに点々と染みができていく。ついに降り始めてしまったのだ。

 とにかく雨をやり過ごそうと、近くにあった大樹に身を寄せる。ふたりが木陰に入った瞬間だった。待ってましたといわんばかりに、ザァっと降りきたる大瀑布。

 ヤレヤレといった風の師匠とその隣でフードを取りさるニコ、湿った空気に頬を晒す。

 亜麻色の髪に丸い顔。長い睫毛の下には大きなとび色の瞳がくりくりと輝いていた。見た目はまるで女の子だが、彼はれっきとした少年である。その天性の女顔に多少のコンプレックスを感じなくはなかったが、ニコはそれを師匠にからかわれることが存外嫌いではなかった。

「いやはや参りましたね。山道とはいえ単純な一本道です。雨が来る前には峠を越えられると思ったのですが」

 腕を組み、うーむと首をひねる師匠。ニコはそれを見てくすりと笑った。

「何ですか、その意地悪な笑いは。君は綺麗な顔をしていますが、時折お腹の中が真っ黒になりますね。言いたいことは分かってます。どうせまた『人の話を聞かないからだ』とでも思っているのでしょう?」

「だって本当のことじゃないですか」

「むむぅ……」

 この山の麓にはちょっとした宿場町があり、ふたりはそこで宿の主人に雨が来るから一晩様子を見たらどうかと勧められていた。しかしその時の天気は雲一つない快晴。師匠の楽観的な性格も相まってかくして峠越えは敢行された。

 その結果がこれである。いい訳の余地など寸毫も見出せなかった。だが師匠のそんなところがまた、ニコにはたまらなく心地いいのである。

「しかしこの降り方では、ここもいつまで保ちますかねぇ……」

 師匠の言葉にニコが頭上を見上げる。

 するとおでこにポツンと雫が落ちてきた。サワサワと、豪雨のせいでかき消されてしまいそうだが、かすかに葉擦れの音がする。確かに師匠の言うとおり、大樹の傘とて用を為さなくなるのも時間の問題だった。

 ふとニコが森の方へと目を向ける。雨でかすんで見えにくいが、そこから何かを感じていた。その正体がなんなのか。ニコはそれを知っている。師匠もそれを知っている。

「見つけましたか。さすがですねニコ」

 ニコの様子に気付いた師匠もそちらを向く。森の中はすでに夜のように暗いが、よく目を凝らせばぼんやりと輪郭線が浮かんでくる。うっすらと見える三角屋根が。

「走りましょう。見るからに廃屋っぽいですが運がよければ雨くらいは凌げそうです」

 そうしてふたりは駆け出した。

 一向に弱まる気配のない鉄砲雨の中を。


 山道から少し離れた獣道を行くと、森の中に突如拓けた場所があった。

 そこに立つ一軒の山小屋。切り出した丸太を組み合わせたシンプルな構造だ。そんな造りが幸いし、扉には錠もなければ内側から閂も掛かっていない、ふたりは止まない雨に責め立てられるようにして小屋の中へと転がり込んだ。

 暗闇にほんのりと漂うカビ臭さ。

 一足ごとにキィと鳴く床にちょっと驚く。

 雨に濡れたマントの重さに気付き、ニコが若干の不快感を覚える頃。師匠が手にしたランプにようやく明かりが灯った。

「ヤァ、これはありがたい。暖炉があるじゃないですか。どうやら薪もまだ使えるようですね」

 師匠がランプを掲げると、部屋の全容が照らし出された。真ん中に長い木製のテーブルがあり、壁の一部が大きな石造りの暖炉となっていた。師匠は早速、暖炉に火を入れる。しばらく使われてかったのだろう。部屋中に埃の焦げる匂いが充満した。

「さ、服を乾かしましょうニコ。それと食事です」

 そうして師匠は笑顔で荷を解いた。

 夕食のメニューは麓で買ったパンとぶ厚く切ったハム。ニコがそれを串に刺して炙っている横では、師匠が鍋で塩スープを作っている。やはり干し肉も買ってくるべきだったかと渋い顔。薪がパチパチと爆ぜる。吊るしたふたりのマントも徐々に乾いていった。

 暖炉の火のお陰でさらに部屋が明るくなった。

「どうやらここは、木こりさんのお家だったようですね」

 テーブルに料理を並べた後、師匠はスープをすすりながらそう口にした。

 ニコが辺りを見渡すと、確かに大きな斧が壁に立てかけてあった。そして小屋の裏手には木工の作業場があるらしく、そちらへと続く入り口の前は切りくずなどで汚れている。どうやらこの小屋自体、かつての主が建てたものであるらしかった。

 ふと水場の隣にある食器棚に目を移した。用途も様々な食器が几帳面に並んでいる。しかし、いずれもふたり分しかないようだ。

 いまは誰も使っていないことから、ニコは木こり夫婦の終の棲家だったのだろうかと思いをめぐらせる。そうなると勝手に転がり込んでしまってなんだか申し訳ないような気がした。

「お師さまは――」

「はい?」

 師匠はこの小屋のことについてどう思っているのだろうか。

 ニコはただそう訊ねたかっただけなのだが、もしそんなことを聞いてしまったら、まるで自分が師匠を責めているように聞こえないだろうかと不安になり口をつぐんだ。そして何より、別段豪華でもなんでもない携帯食料のディナーをおいしそうに頬張る彼の顔を見ると、それだけで胸がいっぱいになって何も言えなくなるのだった。

「――お師さまはここに山小屋があるのを知っていたのですか?」

 咄嗟に話題を変えたが、これも聞きたかったことに違いはない。確かにこの小屋を見つけたのは自分だが、師匠は山に入る前からそれを知っているような様子だった。無理をして峠越えの強行軍をしいたのもそんな余裕があったからのようにニコには思われる。

 すると師匠はいった。

 ええ。ソラミミがしましたから、と。

「……ボクにも聞こえましたけどそれが山小屋だとは分かりませんでした」

「覚えておくといいですよ。登山の前にソラミミがしたら、山腹にあばら家くらいは見つかるもんです。まあこんなに立派なお家は珍しいですが、下手すると違うものが見つかって、イヤ~な気分になるときもありますからアレですけど」

「イヤ~なもの?」

「死体です」

 ニコは持っていたスプーンをポチャンとスープのなかに落とした。しかし、暖炉の明かりにユラユラと揺れる師匠の顔はいたって涼しいままだった。

「ニコ。覚悟しておきなさい。我々は『忘れられたものたち』の声を聞くことができます。しかしそれは、時として見つけてはならないものだったりもします。そういう時は得てして忘れられたままの方が幸せだったりするものですよ」

 その途端、ニコの顔に影が降りた。 

「……ボクも……ボクもそうなのでしょうか?」

 忘れられたままの方が幸せ――まるで自分のことをいわれているようで胸が痛い。もう二度と帰ることはないだろう故郷への想いが募る。

 すると冷たくなったニコの頬にそっと温かいものが触れた。

「そうではないと私は信じていますよ」

 差し伸べられた手と言葉。ニコはそれだけでも生きていて良かったと思える。師匠の存在こそが、いまを生きる証であるとさえ思うのだ。

「まあそれはそれとして……」

 声の調子を戻し、すこしおどけたように師匠はいう。

「気付いてますか?」

 それはまるでニコを試すかのような口ぶりだった。ニヤリと口の端を持ち上げて悪戯っぽく笑う。

 ニコはおもむろに席を立つ。そして部屋の隅にあるチェストの前まできた。

 手を伸ばすとそこには一体のマリオネット《繰り人形》がある。装飾に凝らないシンプルな造形は、どことなくこの山小屋の意匠に通ずるものがあった。おそらく同じ人間の手によるものであろうと思う。確証はないがソラミミから何かを感じるので自信はあった。

 ソラミミは忘れられたものたちの声。それはいつもニコに語りかけてくるが、人間のいう言葉ではないのだ。そんな声なき声を聞くことができる者たち。それらもまた単にソラミミと呼ばれている。

「これのことですか?」

 ニコがマリオネットを見せると師匠は満足げにうなずいた。

 うれしくて微笑みを返したニコ。すると今度は繰り糸を地面へと垂らしてマリオネットを座らせる。

 何事だろうと師匠が目を瞠ると、薄暗い小屋の中がニコのハミングで包まれた。

 歌にあわせてマリオネットが踊る。ニコの操る一糸が、無機質な木の人形に生命の息吹を与えていくようだった。

 ルンタッタ、ルンタッタ――。

 優しい時間が流れてく。

「お師さま」

「はい?」

「この山を降りたところに人は住んでいますか?」

「はい。これから向かおうとしている街ですが、ここからあと半日も掛かりませんので明日少し遅く出てもお昼までには着くでしょう。それがどうかしましたか?」

「……そこにいるみたいなんです。この人形を忘れた人が」

「オヤ、そうですか」

 目ではマリオネットのダンスを楽しみながら、しかしその口では淡々とした調子で師匠がいう。ニコはまだテストが続いているのだと感じた。

「えっとぉ……そのぉ」

「はい?」

「この人形をその人に、そのぉ……返してあげたい……あげた方がいいかなって。それに、このお家を貸してもらったお礼もできたらいいなって。だから――」

 カチャリ――。

 ダンスが止み、マリオネットはまた無機質な木の人形へと戻っていく。だらしなく床にへたりこむ様子がなんとも物悲しい。

 アイタイ、アイタイ。

 ものの嘆きがそうニコに訴えかける。

 だからニコはいつも全力でその声に応えようとするのだ。だって自分にはこれしかないのだからと。

 師匠は微笑みと共に小さくうなずいた――。

 山登りの疲れと安堵の気持ちが相まって、その夜ぐっすりと眠ったニコ。あくる朝、荷物にマリオネットを加えた師弟は元気に小屋を出る。

 天気もすっかり良くなって、ぬかるんだ地面を踏みしめる脚にも力が蘇っていた。

 今日も先行く師匠の背中。見ているだけで頼りになる。

 だがニコは、ふと視線を山小屋へと戻してみた。

 なんだか誰かに呼ばれたような気がして。

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