第2話手すりの内側

 やがて私が落ち着くと、佐藤が口を開く。

「ごめん」

「なんで?」

「実は、ずっと前から君の後ろ姿を見てた」

「私が手すりの前に乗り出す前から?」

 そう、と佐藤はいう。「僕の父は、自殺したんだ。だから、そういうのに敏感になっててさ。でも、いざ君の後ろに立ってみたら勇気が出なくて。君の後ろでずっと考えていた。君を振り向かせる言葉を」

 自殺。先程まで自分が決行しようとしていた行動。手すりの外側ではあんなに自然な言葉だったのに、今は何故か、今まで通り異質に感じる。今思えば、自分が自殺をしようとしていた決意は、朧げになっていた。人とは、こんなに単純なものなのだろうか。

 私はふと、もしかして、と思う。

「さっきの態度は嘘?あの時の君は、まるで自殺しようとしていることにも気付かない、超鈍感野郎、みたいだった」

 異常な程に能天気で、それが不幸さえも呼び寄せそうな人柄に見えたが、今の佐藤はそういった人柄とは別の、極めて冷静な好青年のように見えた。

 佐藤は笑った。それを見て、ああ、これが本当の佐藤か、とまだ何もいわれていないのに私は思った。

 佐藤はいった。

「結局、ただの自分じゃ駄目だった。だから、自分の好きな小説の主人公を演じてみた。君のいう通り、超鈍感野郎で、周りの女の子をドギマギさせるような性格のね。

 僕、演劇部なんだ。今回のは我ながら卑怯な方法だとは思ったけど、きっと生身の僕じゃ君を連れ戻せなかったと思う。父さんみたいに」

 佐藤の顔に、ひっそりと影が出来た。私はそれを払いのけるようにいう。十分救われたよ、ありがとう、と。

 佐藤はこういっているが、この男の本質は元々鈍感なのではないだろうか、と私は思う。

 演劇部所属といっても、あまりに自然だったからだ。佐藤も私のあらぬ噂を知らない筈がないだろうに。

 そう疑って佐藤を見るが、佐藤のいやに聡明な眼差しに気圧されて、私はすぐに目を逸らす。

 今までの人のような、欲の混ざり合った濁った色じゃない、純粋無垢な黒。それが、荒んだ私をも納得させる程の説得力を放っていた。

 私は、佐藤の瞳と言葉に救われた。

 しかし、と私は思う。

「これから私、どうしたらいいのかな」

 変な話、死ぬことに集中し過ぎていて私の中は空っぽになっていた。何も詰まってない空洞そのもの。

 私の腑抜けた様子に対し、佐藤は真面目な表情で答える。

「とりあえず、一歩進んでみればいいんじゃない?何でもいいと思う。このことをちゃんと誰かに相談するのもいいし、何か熱中出来るものを探すのでもいい」

「私、出来るかな」

「世の中生き方なんて色々あるしさ、最悪転校でもありだ。それに僕より優秀な君の方が、きっとどこでもやっていける」

「そっか」

 決して何かが解決した訳ではなかった。これで何か行動を起こして、少なくとも転校以外で虐めが無くなるビジョンも見えない。

 ただ、心の在りどころが出来たことが本当に嬉しかった。私をちゃんと見てくれそうな人がいたことに、私は満足してしまった。きっと、これが最後の心残りだったのだろう。だが、何故だろう。それが成された今でも、もう一度死のう、という気は全く起きなかった。

 彼に手を引かれた時、少なからず私は自分の力で屋上に戻った。当たり前だ。こんなひょろっこい男の力だけでは、とてもじゃないが人体は持ち上がらない。

 そう考えると、佐藤のポジションが自分にとって重要な位置にあることに気が付いた。

 きっと、人間って脆い生き物なんだと思う。

 自分に無いものを恐れるのもその為だし、映画のワンシーンもあながちフィクションとは断言出来ないかも知れない。現に、私はここにいる。

 私はこれから、柵を越えた向こう側の世界から連れ戻された、謂わば異世界人として第二の人生を歩むことになるだろう。だとしたら、酸素が必要だ。それか酸素をくれる人物。

 私は思いの丈をぶちまけようとした。勿論、最初に抱いていたような攻撃的な気持ちではなく、感謝の言葉。

 人は伝えられなければ気付かない。

 この国の悪い風潮である、察しろ、空気を読め、はとても人間的じゃない。私たちには知識があり、言葉があり、そして文字がある。だから、私は。

 私が薄く唇を開くと、佐藤は急にすくっと立ち上がって喚き始める。

「やべ、授業結構サボっちまった!いくぞ」

 前言撤回。こいつは一度、空気を読む、ということを理解するべきだ。

 私は呆れていた。

 せっかくこの私が感謝を述べようと思っていたところなのに、この男は。

 だが、悪い気はしない。


 私は催促されて、もう一度その差し伸べられた手を握る。

 今後、こうやって佐藤の手を握ることが、何度あるだろうか、とふと思ってしまうが、私はすぐにその考えを改めた。

 この男なら、何度でもこうして手を差し伸べてくれる、安心して大丈夫だ。

 いや、むしろ自分から握ってみるのもいい。そうしたら、佐藤はどんな表情をするのだろうか。楽しみだ。

 私はそう思って微笑んだ。佐藤の手の温もりを頼りに、立ち上がりながら。

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野花に咲く頃には 碧木 愁 @aoki_39

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