野花に咲く頃には

碧木 愁

第1話手すりの向こう側

 裕福な生まれの子供は、性格があまり良くないとされている。これは私が思っているとかではなく、今の世間体がそうなのだ。

 私は裕福な家で育った。門を潜ってから家の玄関に行くまで、徒歩だと3分もかかる程の大豪邸。

 きらきらと輝いた外壁に馴染むよう、私の外見もそれなりになった。

 ハーフの母から受け継いだ金髪に、父から貰った黒目。両親共に顔が良かった為、私もその通りになった。母は探偵稼業、父は弁護士だったのが幸いして、勉強面では不思議といっていいぐらい苦労をしなかった。

 やがて成長すると胸は大きく突起して、プロポーションにも恵まれた。

 会う人はみな親切にしてくれたし、私も自分のことを誇りに思っていた。ああ、大切にして貰える私はさぞかし立派な存在なんだな、といった具合に。だけど、ある日気付いてしまった。

 それらはただの妄想であると。

 気付けたのは、ただただ私が成長し、思考が成熟したからに他ならなかった。そして、今まで気付かなかったのは、私の頭がお花畑だったからだ。

 今思えば、何故この目に気付かなかったのだろう。欲望の混ざった、貪欲の目。

 みな、私を見ていたのではなく、私の容姿を見ていた。

 私はいつからか、周りの賞賛が鬱陶しく感じるようになっていた。

 他人の評価を自分自身の評価としていた私にとっては、他人が私を正当に評価していない事実は、衝撃的なものだった。苦痛だった。

 自分自身の今までが、非常に馬鹿らしく感じた。私は所詮、両親から授かったもので今の地位についたのだ。そこに、自分の努力なんてものは微塵もなかった。

 そしてそんな曲がった感情が態度に出るようになっていたのか、私は以降誰とも関わらなくなった。

 丁度その頃から、私に対する嫌がらせが始まった。

 私にどうやっても届かない愚図ほど、私に痛い目を合わせようと必死になってバケツに水を溜めた。上履きの中に画鋲なんて、日常茶飯事だ。あらかた、人間の尊厳に泥を塗られるようなことは全て受けた。

 その中でも一番辛かったのは、変な噂を流されたことだ。真っ黒な感情を持った女子達がこぞって嘘の噂をばら撒き、ある日から校内で、私は売女という風に見られるようになった。

 両親には自分から語る気にはならなかった。彼らは良い人だ。だが、私がこうなる原因をつくった人物でもあったのだ。

 私の中は常に負の感情が巡回していて、それが時々内蔵を圧迫して吐きそうになることが何度もあった。


 今、私は風を感じている。

 新学期。桜の匂いを一心に感じ、学校の屋上の手すりの一歩前を陣取って、私は心の中で叫んでいる。私をいじめていた奴ら、私をいやらしい目で見てきた獣ども。お前らにこれと同じ真似が出来るのか、と。

 人生初めての手すりの外側は、不思議な開放感があった。勿論、余計なものが目に入らなくて風が心地いいのもあるが、全てを見下し、そこに映る人々が経験したことのない場所に足を置いていることに、優越感を感じていたからだと思う。


 風を吹き抜ける快感。


 私は声を漏らす。


 私は特別な存在じゃない。傷つけられれば傷つく。ただ誰にも縛られたくない変わり者で、他よりちょっと優れて生まれてきただけの人間なのだ。誰か私に気付いてくれ。


 私は。私は。私は。


 冷静になる。

 私は何をやっているのだろう、と思う。


 生まれ変わるなら、綺麗な花じゃなくてそこら辺に生えている、普通の野花になりたい。


 頬には涙が数滴つたっていた。だが、何故今更自分が泣いているのか分からない。後悔はなかったはずだ。微塵も。

 それなのに、最後の局面だって時に人は都合よく人生を美化しようとする。

 私を、ここに留めようとする。


「大丈夫かい?」


 背後から声がかかった。私は急いで袖で涙を拭き取って、後ろを振り返る。

 目の前には、同じ制服を着た平凡な男。

 確か名前は。

「佐藤くん」

「良かった、名前覚えててくれたんだね」

 名前といっても苗字だけ。同じクラスの子ということは知っているが、それ以外は何も知らない。

 だから私は、彼を激しく警戒した。そのあほ面を睨みつけ、髪を逆立てた。知らないということがここまで怖いことだとは、その時初めて知った。今まで、知らないことと恐怖という感情は別のものだと思っていたから、意表を突かれた気分だ。

 彼は微動だにしなかった。まるで彼と私の間には、透明な一方通行のバリアが貼ってあるかのようだ。それぐらい、異様に彼は冷静だった。

 しばらく見つめ合って、一陣の風が私の背を彼の方へ押すと、そこでようやく彼は再度口を開いた。

「いや〜、前から伏見さんは変わってる人だと思ってたけど、流石にそこに立つのは危ないと思うよ。こっち戻っておいで」

 この男は何を言っているんだ、というのが率直な感想だった。私にとっての普通とは、手すりの向こう側にいる=自殺を図っている、だ。よく映画で見るだろう。ヒステリックになった少女が、経験豊富そうな刑事に説得させられて、屋上に引き戻されるシーン。私はそうした認識を、一般的な教養だと思っていた。別に教科書で習うようなことではないが、社会に溢れかえった意識は、自然と常識に移り変わるものだ。だから、彼の常識に私は困惑した。こんな人間あり得るのか、と。

「あのね、私は、」私は口を開いた。だが、長く冷える場所に居座っていた為か、口が凍ってしまったかのように上手く動かない。

 そんな私に、彼は手を差し伸べて言った。

「ほら、早く」

 え、と困惑していると、私の細腕は呆気なく捕まれ、そして現実へと引き戻される。数分前に立っていた屋上の床に足を再びつけると、私は力なくその場に膝をついた。

 足に力が入らなくなっていた。足の筋肉が一気に抜かれて、骨だけにされてしまったかのような感覚。これほどまでに自分の体は恐怖を感じていたのかと、私は驚愕する。

 私は自分の体を両腕で抱いた。


 あなたがいなければ、私は楽になれたのに。


 独り言のように呟く。そして、自分の体と心の主張が噛み合わなくなって、その場でわんわんと泣いた。思えば、こんなに泣いたのは久し振りだ。幼い頃から私は、周囲の目があったから強かな女性を演じ続けていた。そして演じ続けたら、それがいつのまにか定着していた。

 年相応に泣いてこなかった私の涙は、一向に止む気配がなかった。だが、授業が始まるチャイムが鳴っても、泣き喚く私の側から、彼は離れようとはしなかった。

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