パイロット

安良巻祐介

 

「パイロット症候群?」

 そうだよとSは言った。そういう名前の神経症が流行っているらしい。

 自分の体が子ども番組に出てくる巨大ロボットのように感じられ、意識だけが小さくなってそこへ乗り込んで動かしている、と言う感覚に囚われるものだという。

「やっぱり、子どもなんかに多いのかな?」

「いいや、これが、俺たちみたいな壮年期の男ばかりらしいな、実際のところ」

 ストレスが主因ということだからな……とSは言って、普段着にしている皺くちゃの白衣の袖を爪でがりがり掻いた。

 今のところあまり表面化していないが、これにかかると遠近感や平衡感覚が狂ってしまうとのことで、日常生活に支障をきたすのは確かなようだ。

「治療法は?」

「根気強いカウンセリングでも効果があるらしいが、この間特効薬がようやく実用化された。それを飲めば一発だ」

「なんだ」

 余り現実感のない話だったが、それにしても一応不安ではあったので、何となくほっとした。特効薬があるなら安心だ。

 余裕が出てきて、しかしそうしてみると少し体験してみたい気もするな、などと軽口を叩いてSを見ると、今度は白衣の裾をぎりぎり引っ張りながら、

「何でも頭のところがコック・ピットになるらしい。頭の内側に立って、両目の形をした窓から見える景色というのはなかなか大したものだそうだよ……」

 などと呟きつつ、窓の外の夕陽をじっと見つめていた。

 Sがパイロット症候群にかかったという連絡を受けたのは、それから一週間後だった。

 駆け付けた私の前で、椅子に掛けたSはだらりと舌を出し、どろりと濁った眼を天井に泳がせながら、うつろな笑みを浮かべていた。

 こいつ、楽しんでいやがるな……と私は苦笑した。わからないでもないのだ。巨大ロボットのパイロット。いいではないか。男ならだれだって一度くらいは妄想するものだ。神経症の妄想でだって、そういう夢のある感覚に浸れるのなら、身を任せてみたくもなろう。

「薬はいつごろ飲ませたのですか。」

 胸の内に浮かべていたかすかな羨望を表には出さずに、私は青い顔をして後ろに立っているSの細君に尋ねた。六時ごろです、と答える細君の頭の上の掛け時計を見ると、丁度一時間前と言ったところである。はて、特効薬と言っていたが、そんなに効きが遅いものであろうか。

「わたし、そういう病気があるって知らなかったものですから、最初は気が動転してしまって、とにかく押さえつけようとしたら、この人を転ばせてしまって……」

 言い訳じみた口調で細君が言う。ははあ、頭に巻かれている包帯はそういうわけか。そりゃ、搭乗慣れしていなければ機体の平衡コントロールは難しかろう。私は少し笑った。しかしよくよく考えてみれば、この神経症にかかっている間、怪我した場合と言うのはどうなのだろう。設定に忠実に行くならば、コックピットにサイレンでも鳴り響いて「頭部装甲にダメージ。損傷●%」とでも表示が出るのだろうか。しかし痛覚は?考えてみると興味深い。乗組員たる意識がロボットのダメージを感覚するというのも変であるし……。

「もうずっとこのまま動かないんです。どうしたらいいのでしょう。」

 私の不埒な妄想など知らずに、細君はおろおろしている。薬を飲ませたのならば大丈夫だとは思いますが……と私は答えながら、Sの様子を改めて眺めた。椅子にだらしなく座り込んだSは、ロケットパンチを繰り出すでもなく(この症例の人間の最もよくとる行動であるらしい)、ただどんよりと笑みを浮かべている。最初に転ばされたから警戒しているのか?私は顔を寄せて、Sの眼を覗きこんでみた。この私の顔も、さしずめ巨大ロボに襲いかかる宇宙怪獣の如く、大迫力で見えているのだろうか。そう考えるとやはり可笑しい。

「おい、どうしたね。機体を修理中か。それとも乗組員で作戦会議でも開いているのか。」

 私は声をかけてみた。けれども、Sはぴくりとも反応を返さない。流石におとなしすぎるなと首をかしげる私の足元に、その時むくむくと何かが当たった。見れば、この家で飼っている斑の雌猫である。幾度か訪れているので、私にもなついているのだ。

「まあ、ミイコ。ご飯は上げたでしょう。お客様に失礼ですよ。」

 細君が眉をしかめている。

 私はしゃがんで、どうしたんだい、と猫へ声をかけた。満足げなその様子を見るに、なにか獲物を見せに来たらしい。

 「ん?」私は顔を寄せた。

 猫がごろごろと喉を鳴らす。

 その口元から、針の先ほどの大きさの、見慣れたSの皺くちゃな白衣の袖が覗いているのが見えた。

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パイロット 安良巻祐介 @aramaki88

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