第2話
オタクな社畜のストレス発散法 2
Quest Result
スマホ画面に映し出された文字を満足げに見る。赤色宝箱からのドロップ品の中には、イベント限定SSR武器が一つ。まずまずの結果だ。
イベント武器を多用しなくてはならないほど、あたしのデッキは貧相なわけではなかったが、そこは腐ってもSSR。売却ボーナスが大きいから、もらっておいて損のあるものではない。
ふと意識を現実に戻し顔を上げると、ちょうど電車が最寄駅に着いたところだった。
「すみません、降ります」
すでに帰宅ラッシュ時を過ぎた電車の中には、しかしまっすぐ歩くのが困難な程度には人が居る。その上、乗っている人間の疲労度は総じて高い。一声かけておくだけで彼らの疲労ゲージの上昇を防げるのなら、声を張り上げるくらい何てことはない。
駅のエスカレーターを降りる間に、SSR武器を重ねて進化させ、それでも余ってしまった武器の処理を行う。欠伸を噛み殺しながら改札をくぐり抜けると、南口へと向かった。
さて。
ここからあたしの家までは、少し距離がある。南口を出る前に、ぼんやりと今日のテーマを決めた。海。そう、海底ダンジョンにしましょう。
一歩、足を踏み出す。現実にはもちろん何もない。けれど疲れ切ってハイになったあたしの優秀な脳みそは、とてもおもしろい幻想を見せてくれる。妄想とも言う。
見慣れた駅前は、海底神殿へ続くダンジョンの入り口になっていた。波打つ冷たい海水が、あたしの足首を濡らした。
あ。今引いたでしょ。違うわよ。あたしがイメージしてるの。能動的にね。変な薬やってるわけでも、疲れ切ってヤバイものが見えてるわけでもないわよ。意識すれば簡単に現実に戻ってこれるから、日常生活に支障なんかないんだから。
空の雲を見て、ソフトクリームの形! とはしゃいだ幼少期くらい誰にでもあるでしょう? あたしのこれは、その延長みたいなものなの。だから引かないでってば!
あたしの眼の前には、なんだかよくわからないモニュメント。これは、あれね。たぶん海神ネプチューンの像よ。ちょっとポップなデザインだけれどね。
とうとう海水はあたしの肩まで来た。少し大きく息を吸い、全身を水に浸す。一瞬目をつむり、目を開くと(まあ当然なのだけれど)全く濁らない視界に海底に沈んだ町が見える。空を見上げる。月明かりが眩しい。まっすぐ降りてくるはずの月光は、あたしの妄想というフィルターによって、波に阻まれたようにゆらゆら揺れていた。
水の抵抗を感じない、快適な海底散歩が始まった。
まず見えたのはジムだった。あたしの位置からだと、ランニングマシーンが窓の向こうにあるのがわかった。そして誰かが走っている。ああ、あそこにはきっと宝箱があるのね。走っている魚人はおおかた宝箱の番人といったところかしら。
宝箱をスルーするのはあたしの仁義に反するのだけれど、あたしには常識と良識があったから、ジムには向かわずに左折した。
がたんごとん。音の方を見る。あたしが乗ってきた電車が次の駅へ向かって走り去るところだった。線路は建物のおよそ三階あたりの高さを突き進んでいく。それはさながら海上列車。ダンジョンと都市を結ぶライフライン。あっという間に見えなくなった列車を見送って、今度は道を右折する。あたしの長い髪が、水の抵抗のせいでワンテンポ遅れて動く。右折した先には、とっても長い橋がかかっていた。
海底に橋があるなんて、不思議よね。きっとここは昔、陸地だったんだわ。地殻変動とか火山の噴火とかで、気が遠くなるほど長い年月をかけて水底に沈んだの。そこにはどんなドラマがあったのかしら。アトランティス然り、ポンペイ然り、歴史には人の激情が隠れ住んでいる。あたしは歴史の成績は悪かったけれど(年号とか覚えるの苦手で……)、歴史の授業は好きだった。
橋を渡るのはあたしだけではなかった。大型の怪魚たちが目を輝かせ、尻尾からは赤い光を時折発しながら、綺麗に列をなして進んでいく。もう少し小型の魚が、立ち並ぶ怪魚たちの間をすり抜け、猛スピードで駆け抜けた。他にも、音楽を聴きながら走るマーマンともすれ違う。
怪魚たちは、あたしと同じ方向に行き来するだけではない。橋の欄干に手をかけ下を覗くと、そこには橋と垂直に流れる海流が見えた。海流は他の水域よりも暗い色の水を湛えていた。しかし代わりに、天の川のようにキラキラ光る、光の粒をたくさん抱えている。手を伸ばせば触れられそうにも、どう足掻いても触れることなどできなさそうにも見える。海流の脇には、緑の海藻が波に揺られていた。
「ふふっ」
あたしは長い長い橋を渡る。この橋を渡ったら……そうね、そこはきっと、ポセイドンの領海。あたしはそこの、小さなマンションの、小さな寝ぐらに向かうの。そこにはきっと、素敵な海竜人が住んでいて、あたしはその海竜人に会いに行くの。
海竜人は、艶やかな短い青い髪。優しげな紺色の瞳。宝石のような耳に、鍛え抜かれた細身の体躯。センスの良い服を着て、ポセイドンの護衛隊の重役に就いているんだわ。
我ながらバカバカしい妄想。でもいいじゃない。誰に迷惑をかけるわけでもないんだもの。楽しまなくちゃ。
だからあたしは、あたしの設定も変えることにした。ただのサラリーマンから、魔法戦士にジョブチェンジ。髪の色は茶から金に。目の色は黒から緑に。味気ないスーツは煌びやかな鎧とマントに。腰には宝石のついた長剣を携えましょう。
「あははっ」
誰もいないことを確認してから、あたしは笑い声をこぼした。なにこれ。バカバカしすぎて笑っちゃう。
踊り出したいような気分だった。ほんの少し、足がステップを踏む。橋を渡りきると、見える景色が少し変わった。これまでは廃墟みたいなボロボロの建物が中心だったのに、ここには生き物の気配がする。
中年の海竜人が足早に家に帰ろうとするのが見えた。きっと家で奥さんと子供が待っているのね。それとも子供はもう寝ちゃってるかな。
小さな音が響いて空を見上げると、頭上を大王イカが通り過ぎるところだった。その脇にはイワシの群れがゆっくりと流れていく。ストリートミュージシャンが、控えめに海藻のギターをかき鳴らした。上手なんだけど、ちょっと時間遅いかな。
ワカメの端にしがみついた発光するウミウシが、噂話をして明滅していた。ウミウシたちは等間隔に立ち並び、道に柔らかな光を落とす。サボり気味の明滅するウミウシの近くだけは、ちょっと薄暗かったけどね。仕事に集中している他のウミウシたちは、しっかり光ってるというのに。まったく。
角を左折。右手に螺鈿の高級住宅が並ぶ。いいなあ、いつかあたしも、あんな立派なマンションに住みたい。
そのとき、「あれ?」正面からやってきた海竜人が声を上げた。それはさっきあたしが妄想した海竜人とは似ても似つかない男。その男が、あたしを見て顔を綻ばせた。
「おかえり」
その一言で、あたしは一気に現実に帰還した。目の前の旦那ちゃんは黒目黒髪。中肉中背。間違っても耳は宝石でできてなどいないし、軍人でもない。
同時にあたしも、もとの冴えないサラリーマンに戻った。
夢から醒めたあたしは、しかしがっかりなんかしなかった。目の前にいるのは、妄想でもなんでもない、リアルなあたしの旦那ちゃん。
旦那ちゃんがスーパーのビニール袋を掲げた。今日の買い物当番は旦那ちゃんだったのだ。
「同じ時間に帰るのは、珍しいね。ご飯まだでしょ、おなかすいたなあ」
旦那ちゃんがお腹をさする。あたしは旦那ちゃんの腕をとった。
「ただいまっ。今日のご飯はステーキがいいな」
「ええ、今から? もうスーパーも閉まっちゃったよ……」
あたしたちは高級マンションに背を向けて、隣の小さなアパートの、ロックのないエントランスドアに手をかける。
隣にいるのは、癖の強い短い黒い髪。糸のような黒色の瞳。平べったい耳に、中肉中背の体躯。つまらないスーツを着た、ごく普通の公務員の旦那ちゃん。
小さなアパートの一室は、あたしと旦那ちゃんを中に迎え入れた。それからガチャと音を立てて、家のドアが閉まった。
オタクな社畜のストレス発散法 佐倉 杏 @an_s
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