オタクな社畜のストレス発散法
佐倉 杏
第1話
プツっ。
あたしの頭の中で、何かが切れる音がした。
あ、これダメなやつだ。
数年間通った、ブラック研究室での経験で磨き上げられたあたしの本能が、狂ったように警鐘を鳴らす。意図してではなく、本当に、ふらっと身体が揺らいだ。
「おい、大丈夫か?」
たまたま側を通ったあたしの上司が、心配そうに声をかけてくれた。
セクハラが過剰なほど騒がれる現代では、部下の女の子に手を差し伸べるだけでも、かなり勇気がいる行動のようで、上司の手は、私に触れない、けれど倒れた場合は支えられるくらいの、絶妙な距離に固定されている。
「すみません、チーフ」
ほんの少しの間、あたしの脳みそがいつになくフル回転し、締め切り間近の書類と、それを完成させるのにかかる時間を計算する。よし、間に合う。
あたしはできるだけか弱そうな声で、申し訳なさそうに、こう言った。
「あの……急なんですけど……。
今日、午後休もらえます?」
「ただいま」
疲れ切った声とともに、薄暗い家に明かりが差し込む。それが家の扉が開いたせいで差し込んだ、マンションの廊下の明かりだと気付いて、家の中にいたあたしは、いつの間にそんなに時間が経ったのか、と本気で驚いた。
「おかえりなさい、旦那ちゃん」
あたしは大きなテレビ画面に映った戦闘画面から目を逸らし、膝の上に抱え込んでいた、スライム型の人をダメにするソファから身体を起こす。もちろんバトルはポーズ画面だ。いくら旦那ちゃんのためとはいえ、あたしの可愛いアバターが死ぬのは許せない。
旦那ちゃんが部屋の電気をつけた。うわ、眩しい。
「電気くらいつけたらいいのに」
「ゲーム始めた時は、まだ明るかったんだもん」
「えっ? 何時に帰ってきたの?」
「んっと、会社出たのが二時くらいだから、三時すぎには帰ってたかな」
それからすぐにお風呂に入って夕飯の下ごしらえをしたから、ゲームを始めたのは四時半くらいだ。今はまだ秋の初めなので、そのくらいの時間なら十分明るい。
「フレックス……じゃないよね」
「うん。午後休」
惜しむらくは、一時間ほど無駄に働いてしまったことだ。
「休んだの? どうして?」
旦那ちゃんがスーツの上着を脱いで、あたしの隣に腰掛けた。あたしの膝の上で潰れたスライムに手をついて、あたしの額に手を当てる。スライムが杜撰な扱いに抗議して顔を歪めた。
「熱は、ないよね?」
「ないよ」
「じゃあ、仮病?」
失礼な。
「働きたくないって思う心の動きは、立派な病気だよ」
あたしは唇を尖らせ、戦闘画面のポーズを解除する。途端に魔物がアバターに襲いかかり、瞬く間に返り討ちにされた。
「相変わらず、すごいステータスだね。魔物がかわいそうだ」
「そういうゲームだもん。あたしまだまだ中堅どころだし。やばい人は、比べ物にならないくらい、もっとやばいよ」
それは嘘ではなかったが、中堅程度の実力でも、コントローラーを見る必要がないくらいにはやり込んでいる。あたしの手は勝手に動いて、そこらの魔物を殲滅し始めた。
アバターの大魔法が炸裂し、凄まじい威力の高画質エフェクトが画面いっぱいに映り込む。完全にオーバーキルだ。圧倒的火力による雑魚狩り。もはや殺戮だった。
「……何かあったの?」
旦那ちゃんが優しく聞いてくる。よくぞ聞いてくれました。
「これ見てわからない?」
あたしはまたしても戦闘画面をポーズにして、両手を広げて見せた。旦那ちゃんはあたしの格好をジロジロと見た後、「ドラゴン?」と聞いた。
「違う。恐竜。ドラゴンと恐竜は全然違うものだよ、気をつけて」
片やファンタジー世界の覇者、もう片方は古代地球の覇者。旦那ちゃんにはわからないかもしれないけど、異世界産か地球産かという違いは、あたしたちみたいな人種には、とても重要なことなのだ。
あたしは緑色の恐竜の着ぐるみを着ていた。頭から背中、尻尾にかけて、ファンキーなステゴサウルスみたいに、赤いトサカが生えている。トンキで買った安物だが、結構可愛いのでパジャマにしている。ちなみに寝ると、尻尾が邪魔だ。
「あたしの怒りを体現しているのだ」
あたしは歯を見せ、がおーと唸る動作をしてみせた。やってみてから、小柄なあたしがやっても、あまり迫力が出ないことに気付いた。
「残業の件?」
「それもある」
旦那ちゃんは怒れる恐竜の頭をぽん、と撫でると、おもむろに立ち上がった。シャツの袖を捲りながら、キッチンに向かう。あたしは慌てて腰を浮かせた。
「あ、いいよ、あたしやるよ」
「恐竜を怒らせると怖いからね。明日は休みだし、俺がやるよ。下ごしらえは任せちゃったしさ。君はレベル上げでもしてなさい」
「本当? いいの? やった! じゃあもっと敵が強いとこ行こ」
そう言われれば、あたしは遠慮などしない。膝上に載せたスライム(型のソファ)の形を整え、その後思い切り崩してもたれかかった。この体勢なら何時間でもゲームしていられる。目指せカンスト。
少しの間、あたしの戦闘音と調理の音だけが流れた。あたしは全神経を画面の向こうに集中させる。うわ、この敵めっちゃ固い。
「残業じゃないってことは、例の先輩かな?」
唾液を誘発する良い匂いとともに、旦那ちゃんがぽつりと呟いた。あたしはそれを聞くと、我が意を得たりと頷いて、立ち上がる。哀れなスライムが膝小僧に蹴飛ばされ、壁にぶつかった。ごめん。
「そう! もうっ、酷いと思わない? ただでさえも残業続きでイライラしてるのに!」
スライムを拾いながら、旦那ちゃんに向かって叫ぶ。
あたしにとって、旦那ちゃん以外で、人生で最も大事なものは、物語だ。
それはゲームでも、小説でも、漫画でも、ラノベでも、アニメでも、音楽でも構わない。どんなツールであれ、あたしに物語を与えてくれるものが、大好きで、大好きで、大好きだった。
あたしの毎日の楽しみは、仕事上がりに読む小説であり、家に帰ってから見るアニメであり、まあとにかく、物語に触れないなんて、一日だって耐えきれない。
物語のない毎日に、一体何の価値があるというのか。
そんな価値観を持つあたしだというのに、最近仕事が忙しく、本当に誰のせいなのかもよくわからないけれど、(正確に言うと、運が悪かっただけで誰のせいでもないんだけどさ)残業が多かった。
帰れないストレス。いつ終わるかわからない緊急案件にかかるプレッシャー。あたしがそれでも潰れなかったのは、電車の行き帰りで読む物語の存在が大きかった。
ところがそれにも限界が来た。疲れ切ったあたしの体は、心の安寧さえ拒絶し始め、行き帰りの電車は大事な物語の時間ではなく、首が痛くなる睡眠の時間となってしまった。
肩は凝るわコンタクトはごろごろするわ、良いことなど何もないのに、あたしの体は休息を求め、本を開いても眠ってしまう。大事な本に涎を垂らさないためにも、あたしは諦めて体の命令に従い、惰眠を貪った。
そんな生活が三ヶ月ほど続くと、あたしの耳には、心から発せられるSOSがはっきりと聞こえるようになった。時折唐突に、前触れなく泣きたくなるのだ。
旦那ちゃんの稼ぎに任せて、仕事なんかやめてしまおうかとも思う。しかしそれで課金できなくなるのも嫌だ。(家計は折半しているけど、課金については、旦那ちゃんのお金は使わないと決めている。やっぱりちょっと、申し訳ないと思うもの)
そんな折、直属の先輩がなんか知らないけど、すごく感じの悪い絡み方をしてきた。確かに先輩は、もともとそういう人ではあった。だから嫌な絡みにも、慣れているはずだった。
けれどこれまでのストレスもあってか、この日、あたしの何かがぷっつりと切れてしまったのだ。
「今度は、誰の悪口?」
旦那ちゃんがやんわりと聞く。そう、その先輩は、あたしにひたすら、職場の誰かの悪口を聞かせ続けるのだ。
チーフに始まり、先輩の同期、チームを組んでる他部署の先輩、その範囲は多岐にわたる。言っておくけれど、あたしはチーフのことが好きだ。先輩が悪口を言うほとんどの人に対して、あたしは好意を持っている。
なのに先輩はそんなあたしに、ひたすら他の誰かの悪口を言いつづけ、ひどい時には同意を求める。
やめてよ、あたしはそんなこと思ってない。そう言い返したいけれど、直属の先輩だから、人間関係が悪くなるのも困る。それで結局、曖昧に笑って誤魔化すんだけど、もし誰かがこの会話を聞いていたら、きっとあたしも先輩と同罪にされてしまうんだろうな。そう思うと、周囲の様子がひたすら気になった。
それにそもそも、世話を焼いてくれるチーフの悪口を聞いているのは、あたしが辛い。そんな言葉聞きたくない。黙ってよ。あたしに同意を求めないで。耳を塞いでしまいたかった。
「……今日はね、あたしの同期」
「誰?」
「飲兵衛」
「あちゃあ」
旦那ちゃんが小さく頭を抱えた。
旦那ちゃんはお酒が飲めない。だからお酒好きなあたしは、家ではほとんど飲まず、飲みたくなったら同期を誘う。今回の標的となった彼女は、あたしと同じ飲兵衛で、お互い結婚してから頻度は減ったけれど、それでも月に一度は一緒にお酒を飲む相手だ。
仕事仲間でもあるけれど、部署の違う彼女とは、どちらかというと友達に近い。
いつも先輩の話は聞いていて不愉快だけれど、この日は違った。明確な怒りを感じたのだ。
ふざけるな、あたしの友達を悪く言うな! 怒鳴ってしまいたいのをぐっとこらえた。適当な相槌さえ打ちたくなくて、聞こえていないふりをして無視した。気付かれているかもしれないが、構うものか。これは、あたしにできる精一杯の意思表示だった。
「先輩、あたしと飲兵衛が仲いいの知らないのかな? それとも実はあたしのことが大嫌いで、嫌がらせしてるだけ?」
「うーん、なんとも」
旦那ちゃんが湯気の立つご飯を抱え、戻ってくる。あたしは手際よくゲームを端に寄せて、食卓にスペースを確保する。
「美味しそう!」
あたしが心からそう言うと、旦那ちゃんは少し照れたように頬を掻いて「召し上がれ」と言った。
あたしと旦那ちゃんは横並びになって、テレビのバラエティー番組を見ながら食事をとる。
「先輩なんかスタンピードに巻き込まれちゃえばいいのに」
フォークを咥えながら、あたしが呟く。妄想がヒートアップし、気づけばあたしの喉からは、すらすら言葉が溢れ出した。
「都市を飲み込むほどの巨大な土煙。数多の魔物達が立てる足音に怯える群衆、もとい先輩。勇者達が立ち上がり魔物を退治する頃には、都市の半分が魔物に踏み潰された後だった……」
どう、良くない? そう言ってパッと顔を輝かせるあたしに、旦那ちゃんは首をかしげた。
「スタンピードって……何?」
「えっ、嘘、知らないの? 一般用語だよ? ウィキにも載ってるよ?」
「ええ……君がそう言う内容は、ぜったい一般用語じゃないよ」
「魔物の大暴走だよ。本来の意味は家畜とかだけど、異世界的には魔物のことだね」
「ここは地球なんだけどなあ」
旦那ちゃんがぼやく。
そう、残念なことに、ここは地球なのだ。
「……ここじゃないどこかに行きたい」
あたしの言葉に、旦那ちゃんは「今度の休み、出かけようか」とは言わなかった。いや、それはそれで出かけたいんだけど、付き合いの長い旦那ちゃんは、この流れであたしが言った「どこか」が容易に行ける場所ではないことを理解している。
「異世界?」
「うん。準備万端。いつでも転移できるよ」
あたしは自信満々に言い切った。
幼い頃から、あたしは物語が好きだった。そして物語の主人公が皆美男美女で、何かしらの才能があって、まっすぐひたむきな人間であることを理解した。
幼いあたしは主人公になるために、体を鍛え、大いに学び、武器となり得るものを蓄えた。美しくないと主人公にはなれないらしいから、スタイルの維持にも心を砕いた。
それが絵空事であると気づいた頃には、あたしの努力はすっかり習慣になっており、やめたくてもやめられなくなっていた。ある程度役には立ってるから、特にやめたいとも思わないけれど。
不服そうに、そう呟くあたし。しかし旦那ちゃんは笑っていた。
「そうだね、とっても役に立ってるね」
「そんなに?」
首をかしげるあたしを見て、旦那ちゃんはニコニコと笑みを深める。
「俺は俺の奥さんが、努力家で美人さんで、とっても幸せだよ」
旦那ちゃんがあたしの赤いトサカを撫でた。いやいや旦那ちゃん、そこは髪でしょ。フードの上から撫でられても。
「でもどうしても君が辛いなら、お仕事やめてもいいよ。パートくらいはしてほしいけど」
どうする? 旦那ちゃんはトサカをぐりぐりしながら、悪戯っぽく聞いた。
あたしは小さくうつむいて、
「……もうちょっとだけ、やってみるから、頑張ってって言って」
「そっか、うん。頑張って」
「ありがと。頑張る」
ほんの少しだけ、元気が出た気がするの。スタンピードのおかげかな。
あたしがそう言うと、旦那ちゃんはややムッとした様子で、あたしの自慢の竜鱗を突っついた。
それがどうにもくすぐったくて、あたしはけらけらと声をあげて笑った。
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