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「とんだはた迷惑な神様もいたものね」


 とは、目の前で同じように本を読む友人の言である。言葉を紡ぐことを生業とする彼女にとっては、確かにこの状況はあまりに迷惑すぎるのだろう。

 「神は存在するのか」。そんな、数年前までならこの国の多くが否定したはずのその問いは、今や全員一致で「是」を模範解答とするただの事実確認になり果ててしまった。全く、楽しい議題をひとつ潰されたということについては、私にとってもそれなりに痛手だけれど。

 閑話休題。ある日、我々の前に「神様」は現れた。曰く。


「言葉は力である。知らしめよ。そして従え。」


 いやはや全く持って意味がわからない。こともあろうにあの「神様」は、それだけ言うとふいっと消えてしまったのだ。本当に不意っと現れ不意に消えた。何が起こったかわからない哀れな人は、その超常現象を無かったことにした。正しい判断だ。まあ、無理だったのだけれど。

 言葉は、言霊になっていた。

 口にしたことが、ある程度現実化されるようになったのだ。目が飛び出るかと思った、と口にすれば本当に眼玉が飛び出た。骨が折れた、と言えば音を立ててどこかしらの骨が折れた。何という笑えない冗談か。


「言葉を大切にしないから罰があたったのよ。その結果がこんなくだらないことって言うのもばかばかしいけれどね」


 ぱたん、と手に持っていた本を閉じて、友人が言った。シロップたっぷりのアイスティーをストローで啜りながら、彼女は目を眇める。


「どうしたんです、急に」

「いやね。この本、この現象について書かれた本で普通に評価が良かったから読んでみたのよ。でも、あの『神様』への恨み事しか書かれていなかったから。思わずね」


 とん、とん、と。指先に叩かれた本が鳴く。本への思い入れが並大抵でない彼女にしては珍しい行為だと思う。伏せられた黒色の瞳が憂いと苛立ちを帯びて深い色に。余程気にいらなかったのだろう。


「言葉は言霊なんてずっと言われていたことでしょう。聖書にもあるじゃない。『はじめに言葉があった』って」


 だから、ぞんざいに扱った罰があたったのよ。と、彼女は繰り返した。彼女にとって、言葉とはそれほど神聖なものだったのだ。神聖なものが、今更力をもったところで彼女のスタンスは変わらない。迷惑は、しているようだけれど。


「言葉は神であったんですって。まあ、あなたのことだから知ってるでしょうけど。そんな神を不躾に不用意に扱うんですもの。それは、お怒りにもなるわ」


 優雅に紅茶を啜る彼女に、私は微かに苦笑する。ストローなんて子供じみたものを使っているのに、それでも上品に見えるのは彼女の彼女たる所以だろう。

 はあ、と軽く息をつくと、彼女は視線を外に向ける。叫び声が絶え間なく続く大通り。彼女はもう一度、深く息をついた。


「まさかこんな阿鼻叫喚に満ちた世界になるなんて思わなかったけれど。というか、いい加減慣れない凡愚の気がしれないわ。ほんと、『目が飛び出る』思いよ」


 ぽろり。目玉が落ちた。何もない暗い眼窩は様々なものを嘲笑うようで。それでも、混ざりのないその黒は彼女の在り方を示しているようで。目は口ほどに物を言うとは言うけれど、眼窩すらもその範疇だったとはと、少し笑む。

 同時に、自分の目を思った。軽い色の目。空っぽ色の目。それが示すように、私の中も空っぽなのだろうか。


「落としましたよ」

「ええ、知ってるわ。全く不便極まりないのね」


 差し出した眼球は不満そうにきょろりと動き、もう一度虚ろの中に収まる。なじませるように数度瞬きを繰り返した彼女は、私を見るとにやりと笑った。


「それで? 私は言葉を声で紡ぐのが仕事だけれど、文字を紡ぐあなたはこの状況をどう思うのかしら」


 頬杖をついてからかうように笑う相手に、私は眉尻を下げて笑った。どう、と言われても困るのが本音である。なんせ、私には彼女ほど明確な意見なんて、生憎持ち合わせていないのだから。

 それに、私の言葉は口に出す必要がない。字面の中に、美しさを埋め込めばいいのだから、彼女のように商売あがったり、なんてこともない。


「そうですねぇ……。すてき、だと思いますよ」


 本心を口にすれば、彼女は笑みを深める。想定した通りの回答だったのだろう。付き合いが長いとはいえ、恐れ入る。

 黒い瞳は吸い込まれそうなほどの漆黒で、凛として。その視線にさらされていることが、なぜか唐突に恥ずかしくなった。軽く目を伏せる。この安っぽい青色の瞳は、あまりに彼女に不釣り合いのように思えた。


「ふうん。で? その心は?」

「ええ、と。たいしたことでは、ないんですけれど」


 ちらりと目線を上げてみれば、彼女は首を傾けてこちらに笑んでいた。少しだけ視線を彷徨わせる。それでも彼女の瞳を見つめたくて、苦笑を返した。


「私、別に『目が飛び出そう』なんて言って目が飛び出したり、『ほっぺが溶けそう』って呟いて頬が溶けたって、なんともないんです。むしろ、何というか、うれしい、というか」


 ぽろり、と眼球を取り落とし、ぬるり、と頬が溶けていく。そんなこと、どうだっていいのだ。


「みなさん、そっちにばかり気を取られてるようですけれど、別に、本当はそれだけじゃないんですよ」

「と、いうと?」


 挑発的な微笑み。掌で弄ぶ眼球で、それを眺める。気持ちの悪い青色が、彼女の美しい黒を見つめた。


「たとえば、そう。私は思うのです。貴女の微笑みは、まるで『花が咲くよう』ですね」


 落ちた目玉をはめ込みながら、残る片方の手を差し出す。その掌の上に、咲く一輪の花。凛と咲く、彼女そのもののようだと目を細めた。


「ほらね。こんな素敵なこともある。まあ、こんなこと口に出す人の方が少ないけれど。それでも、素敵なのには変わりないでしょう?」


 花を持ち直し、彼女に差し出す。友人はそれを嬉しそうに受け取った。くるり、くるり、と指の間で踊る。


「私、この状況が罰だなんて、思えないんです。だって、本当に罰なら、こんなことまで具現化する必要なんてないでしょう?」

「なるほどね。罰に美しいものは必要ない。ならば、その美しいものがあるのならば、それは罰ではない、と?」


 頬杖をつき、手慰みに花を弄びながら彼女は問う。楽しげに細められた瞳をまっすぐに見返して、唇は自然と弧を描いた。


「原初の罰は、楽園を失うことだったのでしょう? それは美しいものを失うことだったと、私は思うのです。けれど、私達は失うどころか、得ているでしょう? この言霊と、それに付随する美しさを」


 それなら、と私は目を閉じた。これは罰ではない、と私は思う。あの神は、決して、罰を与えたかったのではない。きっと、きっと、そう。


「気付いてほしかっただけなんだと思うんです。言葉はこんなに美しいのだと。こんなに優しいのだと。言葉は確かにナイフになり得るけれど、ナイフだけなんじゃないって」


 目をあけて、にこりと笑んで見せる。思うすべての言葉を吐きだして、相手を見やる。彼女は相変わらずいやらしく微笑んだまま、歪めた唇を開いた。


「変わらず、馬鹿みたいに能天気な人」


 ゆるりと伸びてくる手が、優しく目元を撫でる。柔らかく暖かいその指の、硬質な爪先が少し冷たくて、軽く目を細めた。


「美しい目。優しい目。私、貴方の空色の瞳が大好きよ。大好きで、大好きで、奪ってしまいたいくらい」


 歌うように、彼女は言う。意味がわからなくて、私はただ彼女の声に耳をすませるしかない。なめらかな指先が瞼を撫でて、片目を閉じる。


「美しい瞳は美しいものを見るものよ。優しい瞳は、優しい世界を見るものよ。あなたのこの青い瞳に映る世界は、それはそれは綺麗で、穏やかなものなのでしょうね」


 愛おしそうに細められる黒色が、深く、暗い緑を帯びる。焦がれるように、思わず私も手を伸ばす。触れた目元が一瞬大きく見開かれ、そして、笑んだ。


「あなたの世界が見てみたいから、何度もその目を奪ってやろうかと思ったの。難しいことじゃないわ。口が滑れば、目だって滑るご時世だもの。それでも、無駄だって、分ってるから」


 とん、と。額と額が合わさって、目と目さえも混じってしまいそうな距離。凛とした黒曜を切なさに歪ませて、彼女は歪んだ笑みを浮かべた。


「その青色の世界は、きっと美しいわ。けれど、奪ったところで、きっとその海原の色は、腐って腐臭を放つのでしょう。そしてこの泥のような黒色は、あなたの眼窩で夜空の黒にかわるのだわ。美しいものへと、変わるのだわ」


 するり、とまつ毛が交差した。私は、ひっそりと口を開いた。震える喉を叱咤して、か細い声を絞り出す。

 私も。


「……なぁに?」

「私も、貴女の世界が見てみたいのです。凛とした瞳はきっと、価値のある世界を見るのでしょう。この空っぽな、行けばいくほどなにもない空の色が映す世界より、もっとずっと素敵なものがうつるだろう、貴女の瞳が欲しいのです」


 溶け合いそうな距離で、彼女の目元に添えた指でなでる。黒色はしばし硬直して、そしておかしそうに和んだ。


「無い物ねだりのあるもの拒みね、私達」


 くすくすと喉を鳴らして笑声を漏らす彼女に、私もつられて肩を揺らす。

 つい、と。彼女は目を細めた。黒色は艶を帯びて狂おしく、私を見つめた。穏やかな、それでいて熱っぽい声で、彼女は言う。


「ねえ、交換しましょうか。私達」


 視線が絡まり、何処から自分で何処から彼女かもわからない。それでも、魘されるような彼女の瞳と、声だけは確かに届いて。


「交換、しましょ?」


 私はただ受け入れるように、瞳を閉じた。

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