女吸血鬼は朗らかに笑う。

神崎赤珊瑚

第1話 女吸血鬼は朗らかに笑う。

 銀の弾丸でしか、永遠を生きる彼らは殺せない。

 人間にとっては致命傷であっても、彼らにとっては修復可能なカリソメの痛痒に過ぎない。


「どのツラ下げて!

 どのツラ下げて、戻ってきた!」

 傲然と。

 学生服姿の少女は、胸の前で腕を組み、顎をそらして叫ぶ。

 ふちなしメガネ越しの蒼白な顔に浮かぶ表情には、怒りの色が濃い。

「この地から立ち去れ! 消え失せろ! 二度と、顔を見せるな!」

 青い夜。大きな満月の周りには赤がにじみ、濃い紫の禍々しい夜だった。

 県庁所在地の中心である駅前であるのに。まだ、それほど遅い時間でもないのに。

 完全な静寂の無人の街に、二人だけが居た。

「久しぶりだな。蓬子ほうこ

 男は少女の攻撃的な言葉にも動じた様子も一切見せず、

「ほぼ十年。

 だいぶ、能力も高まって、使い方も覚えたか」

 男は、背が高く痩身で、よく丈があった黒のスーツを着ていた。

 癖のある長髪。頬には、かつての熱情の残滓とゆるやかな諦念をまとっている。

「帰らない? 帰らないの?」

 蓬子と呼ばれた少女の声が、凶悪に言う。

「わたしの本拠で。時をかけた周到な準備の中で。ただで帰れると思うな」

「ヒトにとって十年は長いかもしれん。

 しかし『我々』にとってはほんの一瞬に過ぎない。

 少しだけ教育してやるよ」

「言ってくれる!」

 少女は両の手にオートマチックの同じ銃を持ち、対向に二丁揃えて前へ向ける。

 男も、禍々しいリボルバーの大口径装飾銃をゆっくりと右手で掲げ向けた。

 蓬子は両の銃を、両の腕をのばしたまま、軽く眼前で打ち合わせる。

 晩秋の涼気に高い音が響き吸い込まれてゆき。

 銃声が弾け、夜の街での闘争が始まった。


 吸血鬼は化物だ。

 見た目は白い面貌をしたヒトでありながら、剛力無双であり、永遠を生きる不老不死で、古今の怪しげな術に通じ、通常の手段では滅ぼすことが出来ず、血を吸われたものは新たな吸血鬼となり、手のつけようのないヒトの天敵のような化物だ。

 世界各地で神話の時代から様々に形を変えながら伝えられてきた伝承上の存在である。

 無論、彼ら彼女らにも弱点はある。そうでなければ、瞬く間にヒトは駆逐されてしまっているだろう。

 陽光を嫌い夜間しか活動できない。流水を渡ることができない。宗教的シンボルを抗い難い強い忌避感を覚える。

 そして、銀に致命的に弱い。銀に触れるだけで熱傷を負う。

 吸血鬼は、たとえ肉体を寸刻みに切り刻まれても、僅かな間で修復して活動を再開する化物であり、それを滅ぼすには銀の弾丸を使うしかない。

 銀での打撃は彼ら彼女らの肉体に不可逆な破壊をもたらす。

 それでも、非常に強力な夜の王、不吉な不死者の王であり、ヒトにとっては悪夢のような脅威であった。


 初撃は双方外れた。

 蓬子の放った二丁の二発も、男の重い一発も、お互いをかすめはしたものの、傷をつけるには至らない。

 二人は、後方へ跳んで距離を取る。ヒトならざる膂力で、空を飛ぶように一瞬で十メートルほど距離は広がった。

 しかし、流れを緩めはしない。

 示し合わせたように、二人は一気に距離を詰めると、腕を目一杯伸ばしお互いのこめかみに銃口を突きつけ合う。

強烈に踏み込んだ足に、二人の足下そっかの歩道の擬石タイルが割れ弾けた。

「思っていたより速い。想像以上に育ったな」

「衰えたんじゃないの、こっちはまだコドモなんだよ!」

 二人が同時に言い、そして同時に引き金を引く。

 瞬間身をそらすが、灼熱の銃撃はそれでもそれぞれの側頭部を強く削る。

 血が弾け、頬を染め、地に飛び散るが、それも一瞬のこと、血はすぐに止まり、傷が目に見えるスピードでふさがっていく。

 二人ともが強大な吸血鬼なのだ。

 セルジュ・フロレスクと名乗る、中欧で発生し流れに流れて極東の地に現れた、歳を経た吸血鬼と、湯瀬蓬子ゆせ ほうこという、不幸にも事件に巻き込まれ、十年前にこの地で吸血鬼に成り果ててしまった少女。

「絶対に、追い払ってやる!」

「固めた思いに殉ずる純粋なところは、十年では変わらんな」

「絶対に、滅ぼしてやる!」

「明確で強い意志は強さだ」

「そういう上からの物言いが! 気に入らない!」

 吸血鬼は、血と、夜に満ちる星気を喰う。

 シンプルに、多くの血を吸い、多くの夜を過ごしたほうが、強く育つのだ。

 だから、齢千歳を超えるセルジュと、たかだか吸血鬼に成り果てて十年の蓬子とでは、文字通り大人と子供以上の力量差がある。本来は、あるはずなのだ。


 生前の蓬子は学校の図書館が好きだった。

 旧制中学から歴史が続く旧い高校であったせいか、校舎の一室としての図書室ではなく、単独の建屋の図書館として敷地内にあった。

 蓬子は、よく図書館にこもって本を読んだ。受験勉強もした。

 しん、とした空気がお気に入りだった。

 蔵書を収める書架の上、天井近くの窓に見上げる、わずかな外の風景が、四季をのぞかせていて好きだった。

 しかし今はすべてが変わってしまった。

 吸血鬼と成り果ててからは、見上げる窓はいつも夜の闇を切り取るばかりで、代わり映えがしないと感じてしまっている。おそらく、感性自体が変わってしまったのだろう。

 昔の自分が知っていた、かつて好きだった鮮やかな季節の移ろいを、次第に忘れてゆくことは、そても寂しいことだった。


 蓬子は、セルジュの顔面めがけて銃弾を打ち込み、最小限の動きでかわされると、身を返して後ろ回し蹴りで、踵で首を狙う。

 首を狙われた吸血鬼は後ろへ上体をそらし、そのまま全身をバネにして後ろへ跳んだ。

 女吸血鬼は、追いかけるように両の銃から銃弾を飛ばし、ついで飛ぶように追いかける。

 二人はもつれ合いながら、駅のバスターミナルへと出た。

 不思議なことに、誰もいない。

 照明はそこかしこで点いているし、エンジンの掛かっているバスすら止まっている。

 しかしそれでも、ヒトは誰もいなかった。

 何気のない生活の一ページから、時間だけを止め、ヒトだけを切り取った光景。

「ヒトを払う結界術か。極東の文脈を踏んだ独自に編んだものだな。とても良く練ってある」

「お褒めにあずかり恐縮ですが。

 あんたが! 無責任に何も教えずに消えるから! いらない苦労を!」

「それについては、本当にすまないとは思っている。

 もっと充分に伝えておくべきだった」

「こ、の!」

 蓬子の二挺拳銃はほぼ独学であったが、それなりに理は持っていた。

 銃撃を点の攻撃とは取らず、弾丸の描く軌跡の無限長の線とし、威嚇と誘導で領域を削りながら、近接で蹴り技を交え標的を追い詰めてゆく。

 並の相手であるならば、十分効果的な戦法であった。

 蓬子の銃を細剣の軌線とすると、セルジュの大口径の銃は、対照的に重く質素な無限長の剛刀であった。一撃が重く厚く、かすめるだけでも肉を削られる。

 ヒトであるならば、反動で片腕で扱えるような代物ではない。吸血鬼の強大な膂力で支えられ、精確にすばやく長大な銃口を向けてくる。

 性質の違う理路をもつ二人の戦いは、競り合いながら、ほぼ互角に推移している。

 お互い打撃は与えるものの、皮一枚を削り合うだけで、届いてはいない。


 十年前に蓬子が死んだのは、不幸な事故だった。

 化物同士の抗争事件にに巻き込まれ、些細な小競り合いに巻き込まれ、胸部をえぐられ、あっさりと片肺と心臓の四分の一を失った。

 ほぼ即死に近く、すべもなく倒れ伏す彼女に、彼は、夢か現かわからないぼんやりとした影のように現れ、宣告する。

「もう死ぬ。お前は死ぬ。不可避のシがやってくる。

 けれども、まだ、」

 そのとき、蓬子は血の泡を口からこぼしながら、指一本動かせない状態ながらも、朦朧とした消えゆく意識の中で、何かを懸命に答えていた。

 彼女自身は、そのとき告げられたことも、答えたことも、内容を全く覚えていない。

 意識が戻り、身を起こした時、蓬子は死亡し新たな吸血鬼と成り果てていた。


 駅近くには十三階建ての雑居ビルがあった。

 二つの吸血鬼は、お互いに威嚇射撃を繰り返しながら、壁面を蹴りビルを駆け上っていく。

 消費者金融の看板がセルジュに蹴られて破損し、灯りが消える。

 ほぼ同時に四十五メートルを駆け上がり、

 セルジュは屋上から更に蹴り上げ、飛び上がった頂点から真下を狙い、

 蓬子は、躊躇なく背中から落ち、天の吸血鬼に向け、二丁で狙い撃ってゆく。

 そのまま、落下し、空中歩廊ペデストリアンデッキに到達するタイミングで、横に飛び、二人共距離をとり、お互いの銃で狙い合って静止する。

 ここまで、ビルを駆け上がり始めてから、わずか数秒の出来事であった。

 さすがに空中では体制が変えられず、互いに数発ずつ被弾するが、重要部位バイタルパートの損傷はなく、活動を一時停止するにも至っていない。

「ローヴァー!」

 セルジュが名を呼ぶと、彼の足元の影溜まりから、ぬるりと、禍々しい黒犬の姿が現れる。

「眷属まで、喚ぶか!」

 蓬子は飛びかかってきた黒犬を、大きく跳んでかわしながら、かつての飼い犬の名を呼んだ。

「パスカル!」

 彼女の召喚に応じ、彼女の足元から立ち上がった影は、精悍なシベリアンハスキーだった。

 パスカルは、主人を襲おうとしている黒犬に、果敢にも立ち向かってゆく。

 吸血鬼の眷属と化した二頭の犬の化物は、生物ではおよそ到達のできないスピードとパワーで削り合っている。

「強いな。よほど君と生前縁が強かった犬なのだな」

「パスカルは、わたしが生まれたときに貰ってきた子だから、同じ歳の姉弟同然だった。

 わたしが死んでいなくなってからも、パスカルはずっと帰りを待っていてくれた」

 吸血鬼は、犬を始めとした様々な動物を、眷属として取り込み、自在に喚び出し使役することができる。

 動物も、吸血鬼本体に準じた強さを持つ。大きな力をもつ吸血鬼には、無数の眷属を持つものもいる。

 蓬子には後悔があった。

 意志を示せない老犬を、不死の永い道のりに巻き込んで良かったのだろうか。

 二十歳まで長生きした、かつての愛犬が老衰で死んだ時、彼女は耐えられず眷属として取り込んでしまったのだ。

 パスカルが意志を示すことが出来たとしたら、喜んで眷属になってくれたと蓬子は思っている。

 それでも。本当に、これで良かったのだろうか、という思いは尽きない。

「眷属も呼べるなら、君はもう大丈夫か」

 先に喚び出したセルジュが、自分の犬を足下に呼び戻す。

 つれて、蓬子もパスカルを呼んだ。

「いい加減その鼻につくものいい、やめてくれないかなッ!」


 吸血鬼に成り果てると、もう人間の世界には戻れない。

 遺体のないまま行われた自分の葬式も遠くから眺めた。

 自分の死に直面して号泣している両親の姿は、友達の姿は、胸が潰れそうに辛かった。

 友達は、結局みんないなくなった。

 吸血鬼になってしまったから会えない、というだけの話ではない。

 すべてはときで変わってしまう。

 都会へ出た。夢を叶えた。結婚した。子供ができた。亡くなった。悪い男に騙された。夢破れて地元に帰ってきた。大病を患った。

 こころもかたちもありようも、生活をおくるうち、どんどん別のものへと転じてゆく。同じくあり続けることなど出来はしない。

 わずか十年で、高校生のころの、かつての友人は、みんな別の存在となっていった。

 蓬子は、一人だけ、いつまでも変わらない、幼い少女のままだった。

 良くも変わる。悪くも変わる。それが、世界の決まりだった。

 ただ、吸血鬼に成り果てた自分だけが例外で、取り残されていた。

 呪われたように、同じままあり続ける。

 永遠を生きるということは、なんのことはない、ときの流れから取り残されることだ。

 哀れな吸血鬼は、不老不死を得て、ついに生き残ったのではない。とうとう生き損なったのだ。

 蓬子がそう悟るのには、それほど長い時間を必要とはしなかった。


 追いつ追われつ、二人の戦場は、駅から少しづつ離れてゆく。

 夜間も外壁の修復工事を行っているのか、工事用投光器で照らされた足場に囲まれた古い教会の前に出た。

 蓬子は、実のところ、十世紀せんねんもの歳を経た吸血鬼に勝てるなどとは思ってなかった。

 ただ、認めてほしかった。

 十年前、置いていかれたのは本当に辛かった。その辛さは、時を経ると減じるどころかどんどん増していく類のものだ。

 時の流れから外れ、一人佇むことのなんと苦痛であることか。

 状況を理解すればするほど、あいつが恋しくなり、あいつが許せなくなる。

 本気で滅ぼしたく思っている。本気で滅ぼそうとは思っていない。

 十年ぶりにセルジュの顔を見た時、泣きたくなるくらい嬉しくも、殺したくなるくらい憎らしくも思った。

 学生服を来ているのも、セルジュと初めてあったときも、次にあったときも、吸血鬼にされたときも、そして彼が姿を消すまでほんの短い時間一緒にいたときも、この服装だったからだ。少しでも、蓬子は、じぶんのことを少しでも確実に視認してほしかった。

「なんで、十年前、わたしを置いて姿を消した?」

 蓬子は、ついに、一番ぶつけたかった質問を口にした。

 ちょっとした高揚もあった。

 セルジュに吸血鬼として一通りのことは出来るようになったことを示せたと思っていた。

 そばにいることが出来るくらいの力を、自ら得たことを認めてほしかった。

 止まったときの中で、ずっと一人でいるのはもう、いやだった。

「そう、だな」

 セルジュは銃口を下ろしかけるが、

「いや、まだだ。

 もう少しだけ、いいだろう」

 歴史ある街の教会の鐘楼カンパニーレが見下ろす空間で、二人は対向する。

 十メートル程度の間を置いて、二人は足を止め、激しく撃ち合う。

 教会の鐘楼に住まう無数の鳩が、一斉に飛び立つ。

 工事用投光機の光を切り取り、小さなものから巨大なものまで、大きさが違う鳩の影が教会の壁面を滑り流れてゆく。

「ずっと心配はしていた。何にもなれずに、世を憎むばかりのただの呪いと成り堕ちてはいないかと。

 想像していたより、ずっと逞しかったな」

「……本当に。本当に、わたしのことをなんだと思っていやがる!」

 激しい口調と裏腹に、蓬子は嬉しかった。

 人々の記憶の網から漏れ、人界から忘れ去られようとしている自分のことを、思ってくれていたことだけでも、嬉しかった。

「吸血鬼同士の抗争は、命を奪わない。

 我々を最終的に滅ぼせるのは、陽の光かしろがねであり、どちらも我々は扱えない。触れることもできない。

 もとより、同族は殺せない仕組みシステムになっている」

 セルジュが、かつて二人でいた短い期間に言っていたことと全く同じことを言っている。

 彼も、彼女を吸血鬼にした直後は、世界を呪うばかりの救いのない祟り神にならないよう、基本的な吸血鬼のありようについて講義レクチャーしてくれていたのだ。

「そうだね。わたしも、ほんとは判っていたよ。

 いくら憎くて滅ぼしたくても、せいぜいがぶちのめせる程度だってことは」

 蓬子もとうとう認める。

 すでにお互い、銃弾は撃ち尽くしていた。

 セルジュがこの街に再び姿を見せたときの、怒りの衝動は過ぎ去っていた。

 こんどこそ、彼が何を言おうとも、どこへ行こうとも、地の涯までもついて行くつもりだった。

 いくら地にヒトが溢れているとは言え、同じときを共有するものは他にはほぼいない。

「でもね、やっぱりハラが立つ!

 一発くらいはぶん殴らせろ!」

 蓬子は、銃を捨て拳で殴りにいく。

 セルジュは、避けなかった。

 頬に容赦のない一撃を受け、古い吸血鬼は吹き飛んだ。

 受け身もとらず、そのまま背を石畳に打ち付け、仰向けに倒れてしまう。

「……なんだよこれ」

 殴った蓬子のほうが呆然としていた。

 軽い。

 軽すぎる。

 大地に幾重にも根を張り巡らせた大樹のように、微動だにしないはずだった。

 彼が万全であったならば。


 違和は最初からあった。

 文字通り、過ごした夜の数で強さが決まる吸血鬼の戦いにおいて、年齢に百倍の差がある二人は、最初から勝負になるはずはなかった。

 血を吸われた側が、血を吸った側と互角に戦えるわけがない。

 人外たる迫力もなく、ただの皮肉屋の青年のような、こんなゆるい雰囲気のはずがない。こいつが、こんなにも纏う空気に圧を伴っていない訳がないと。

 輻輳する感情で、すっかり見誤っていた。

「なにが……、なにがあった!」

 仰向けに脱力している青年の襟元を掴み、少女は乱暴に問う。

「君は死ぬ時に、わたしになんと言ったか覚えているか?

『吸血鬼なら、なんで受験のストレスで太ってから血を吸いにくるんだよ。もっとわたしが痩せてた一年前に来い』、と言ったのだよ。

 死にかけてる分際で、とっても上からの物言いでね。

 蓬子。わたしは、君のことを、とても面白いと思った」

「そんなことは十年前に、言えッ!」

 こいつは。

 この古いだけのポンコツ吸血鬼は。

 何らかの理由で、終わりが近い。

 そして、それを隠し仰すことすらできない程に弱っている。

「もう一度聞く。何があったんだ!」

「思い残すことは、君のことくらいだった」

「もう、いいッ!」


 蓬子は、なんとなく、わかった。

 腹のあたりだ。

 我らの存在と相反する、禍々しい聖なる力が、そこにある。


 力任せにセルジュのシャツを開く。ボタンが弾け飛んだ。

「これか」

 蓬子は険しい表情をする。

 鳩尾から、弾痕を中心した紫の瘡瘢が大きく広がっていた。

「撃たれたな。しかも銀の弾丸だ。

 下手くそがッ。もう五センチ上、心臓に直接当てたら、こんな面倒くさい話にならずに、即死したのに」

 知らぬ射撃手に悪態をつくが、状況は変わらない。

 銀は体内に留まり、聖なる力で器官を侵蝕してゆく。

 今は横隔膜に食い込み、呼吸を乱して力を削ぎ、ひどい苦痛を与えているだけだが、聖なる浸潤はいずれ心臓に到達して、終末的な結果をもたらすだろう。

 何もしなければ、程なくすべてが終わる。


 蓬子も、吸血鬼になったあとに、銀に触れようとしたことはあった。

 中学生のころ、東京に出た時、街に出ていた露天で、外国人が撃っていたシルバーのリングを買ったことがあり、ふと、それを思い出し、自分の家に忍び込んだ。

 二階の部屋は、両親が、蓬子が死んだときのままにしてくれていた。

 五百円だか千円だかで買ったものの、全く機会がなかったため着けたことはない。

 机の上に置かれたままのそれは、結果として、今の蓬子にはとても触れられる代物ではなかった。

 吸血鬼が近づくだけで、白く輝き始める。温度が上がってゆくように見えるが、実のところ、選択的に吸血鬼だけを焼き尽くすのみで、邪悪な存在以外には一切ダメージを及ぼさない。

 赤熱するまで強く反応したが、それでも子供の頃から使い続けていた学習机には焦げ一つ残らなかった。

 指を近づけるだけで、神経を裏側から引っ掻き回されているような、強烈な苦痛だった。これで、触れたらどうなるかなど、考えたくもない。


 セルジュが突然姿を消した理由も、蓬子にはおそらく理解できた。

 吸血鬼を討ち果たそうとつけ狙う存在がいて、強大な追手が近づいてきたから。蓬子を巻き込みたくはないから。

 そんな程度のことだろう。

しかし、そんなことは大したことではなかった。

そんなどうでもいいことはどうでもいい。

 敵に付け狙われ滅ぼされることくらい、一人でときの中に置いていかれることに比べたら、なんとも思わない。

 何より腹立たしいのは、ときに取り残される苦痛を蓬子の百倍は知っているであろうセルジュが、安易な終わりへと逃げようとしていることだ。

「このポンコツは……」

 蓬子は、怒りに震える。

『ずっと心配していた』

『思い残すのは君のことくらいだ』

『もう君は大丈夫か』

『申し訳なく思っている』

『もっとちゃんと伝えておくべきだった』

『想像していたより、ずっと逞しかったな』

 こんなこと、自分をよく見せようとして吐いた綺麗事ですらない。

 ただ最期の自分の心の平穏のことしか考えていない。

 蓬子のことを、自分のキレーな終幕オチのための舞台装置にしているだけだ。

 許せるか、そんなこと。

 絶対に認めない。


 まだ、お前は、わたしとともに、無明のときの中をさまよい続けなくてはならない。


 全てを苦痛に満ちた茶番として続けさせられるくらいなら。どんな苦痛にだって耐えられる。耐えてみせる。

 それでも、決意までには猶予が必要だった。あの、自分の存在を否定してくる聖なる苦痛は、それ程までに耐え難い。

「なにを」

「いいから! 黙ってなッ!」

 腕を振り上げる。

 逡巡は迷いを増幅させる。

 思考を止め、男のハラに拳をぶち込んだ。

「か、はッ!」

 セルジュは血を吐いた。

 構わず、蓬子は、腹の皮を突き破ると、そのまま奥へ突き入れて行く。

 肉を抉る不吉な音が続く。

 指先から、神経に直接送り込まれて脳を焼く、不快感、苦痛。

 もとより、存在のありようから相反する苦痛の細片が、一ミリ奥に進むたび、いよいよ存在感を増してくる。

 吸血鬼の体内に残余していた白銀の聖なる破片は、新たな敵の存在を検知したかのように、俄かに活性化し始める。

 世界に仇為す異を焼こうと熱を帯び始める。取り込んで滅ぼすために侵食を開始する。

 まだ、直接触れてもいないのに、何という拒絶だろうか。

 差し入れた蓬子の右腕の表面に、ひきつれたように紅く細かい不規則な筋が入って行く。

「こ、のッ!」

 この世のものとは思えない魂の奥底からの咆哮が、女吸血鬼の喉から、高く、遠くに響く。無人の夜の空気をひどく震わせた。

 少女の瞳が紅く深く輝き、夜闇に赤光の軌跡を曳く。

 もはや指先の感覚すら怪しかったが、箇所は完全に分かる。朗々と高らかに発揮される聖なる力の発生源は、そこだった。

 セルジュは、もはや意識は不明瞭だった。だが、この正しささえ取り除ければ、重要な器官に銀による不可逆な損傷があろうとも、吸血鬼の旺盛で不吉な復元力で、力を大幅に減じたとしても、現世に居残ることになるだろう。

 体内に残った銀の弾丸を、周囲の組織ごと手のひらで鷲掴みにする。

 銀と吸血鬼との間に生じる拒絶反応は一層強くなる。触れている箇所から激しく白煙が上がる。

 男の体内から聖なる肉片を一気に引きちぎり、右腕を引き抜く。

 セルジュは血の塊を吐き出し、

 蓬子はあまりの苦痛に声を吐き出した。

「くっはあッ!」

 肉片を体外に引き抜くことはできた。

 しかし投げ捨てる挙動は間に合わず、蓬子の右腕は肘から先が弾け飛ぶ。

 肉が骨が、粉々に砕け散った。

 ただの金属が意思を持ったかのように、打ち捨てられる前に一矢を報いるかのように、片腕を持って行ったのだ。

 それは、強制的にありえない干渉をされて生じた、大きな反力であったのだろう。

 体外に排出された銀の弾頭は、地面に落ちてなお、邪悪を灼こうと赤熱していたが、程なく、元の冷たい金属光沢を取り戻す。


「……やり遂げた」

 蓬子は、肩で荒い呼吸をしながら、力が抜けたように座り込み天を仰ぐ。

 爆ぜた右腕は、銀の力によるものなら、もう戻らないだろう。実際、いつもの復元力が働いている気配はない。

 大きな赤い月が高い。

 後に残されたのは、滅びかけ、これからもずっと滅びかけのまま現世に留め置かれる弱った吸血鬼と、隻腕の吸血鬼だった。


 二つの吸血鬼とは言え、戦闘能力は大幅に減じている。万全な一つに遠く及ばない。

 こんな有様では、強大な吸血鬼狩りが現れたらば対抗するのは難しいだろう。

 それでも、このほうがいい。蓬子は、心の底から思った。

 一人で置いていかれるくらいなら、二人で滅びたほうがよっぽどマシだ。


「馬鹿野郎。滅び損なっただろうが」

 古い吸血鬼が、口の端から半ば恨み言のように空気を漏らす。

「馬鹿野郎。逃げそこなったんだよ」

 彼女は、多くを失い、そしてようやく、ゆっくりと確かに流れるときを、自ら手に入れた。

 女吸血鬼は、ここではじめて、朗らかに笑う。



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女吸血鬼は朗らかに笑う。 神崎赤珊瑚 @coralhowling

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