君は還る

伊勢早クロロ

僕と君と大地と空気

 わたしが大きくなったら−−うね。約束だよ。


 僕はここで目が覚める。

 夢に出てきた女の子の顔はすでに思い出せなくなっていて、肝心な言葉もノイズが邪魔をして、目を開けた瞬間にはすでに記憶の中からはじき出されている。

 これは夢だ。気にすることはない。そう思っていても、一週間も同じ夢を見続けるとそこに理由を求めてしまうのは仕方のないことだと思う。

 多分僕はあの女の子のことを知っていて、何か大事な約束をしたんだ。それを僕は忘れてしまった。


 顔を洗い、適当にシリアルを食べて歯を磨き、ワックスで髪を整えると営業周りでくたついたスーツを纏い部屋を出る。一年前まで聞こえていた「行ってらっしゃい」の声は、今はもう記憶の中でも霞のようだ。それなのに僕は一人、いつもの癖で玄関の扉に向かって「行ってきます」と呟いた。

 変わらない日常が始まる。


 満員電車に揺られた帰り道、雨が降るなんて聞いていなかった僕は駅の入り口で棒立ちになっていた。コンビニで傘を買うかタクシーに乗るか。そんなどうでもいい二択を考えることすら面倒臭くて、いつまで経っても止みそうにない雨の中に、僕はゼンマイ式のオモチャのように一歩を踏み出すことを決めた。


 ……冷たい。


 そりゃそうだ。季節はもう十月も末で、夏のしつこい熱気もとっくにこの狭い日本から押し出されている。それでも二歩、三歩と歩みを進めると、ふと、脳裏に見覚えのある景色が浮かんだ。

 公園のアスレチック遊具。その中で雨宿りをしている少年と少女。知っている。僕はこの公園を知っている。でも少女は……?


 僕は踵を返すとスーツの雫を払って再び電車に乗り込んだ。無意識だった。目的地はここから百キロ程離れた実家。久しぶりの帰省だ。

 実家には離婚の報告をしに帰ってから顔を出していない。非難されることが目に見えていたからだ。しかし今の目的は親に顔を見せて小言を受けることではなく、その向かいの公園にあった。さらにいえばその一角にあるお社だったから、言い訳を考える煩わしさはなかった。


 実家の最寄り駅にも小降りではあったが雨が降っていた。それでも構わず歩き慣れた道を進んだ。街灯も少なくなった頃、道の先にぼんやりと明るい広場が見えた。物心つく前から遊んでいた公園だ。

 あの頃と同じ遊具はもうない。けれど変わらないものがひとつだけあった。それが公園の隅っこにある小さなお社だった。僕がこの町に越してきた頃に建て替えられたというお社。そこだけが時間の流れの中で置き去りにされてしまったのか、懐かしい空気を纏っていた。


「ただいま」


 僕は言った。誰もいない玄関で呟くのと変わらないいつもの言葉。ただいつもと違ったのは「おかえりなさい」という少女の声が返ってきたことだった。

 僕は驚いて前を見た。小さなお社が黙って僕を見守っている。何かに促されるようにゆっくり隣に顔を巡らせた。すると小学生くらいの少女がまっすぐ僕を見つめていた。

「おかえりなさい」

 彼女はもう一度そう言って笑った。


 僕は少女の姿が夢の女の子と重なるのを感じた。

 −−わたしが大きくなったら一緒にお祭りに行こうね。約束だよ。


 そうだ、お祭り……


 あの日もこんな雨で、ずっと楽しみにしていた神社のお祭りが中止になった。僕は駄々をこねて親を困らせた上、この公園に逃亡したんだ。子どもの考えることなんて今思えば単純で本当に幼い。


 不貞腐れて遊具の中に隠れて、気づくと今みたいに隣に女の子がいた。でもその時の僕は彼女の存在を不思議には思わなかった。それどころか勢いで家を飛び出したものの、一人でいる心細さに怖気づいていたところだったから、彼女の存在はありがたかった。

 僕は日が暮れるまで彼女と遊ぶことに没頭した。

 後から聞いた話だが、公園にいたはずの僕の姿は、警察の世話にまでなって探していたにもかかわらず、誰にも見つけることができなかったらしい。当時は神隠しに遭ったなんて近所で騒がれていたみたいだが、あながち間違いではなかったのかもしれない。


「君は……」


 僕が呟くと女の子は一瞬で大人の女性へと姿を変えた。目線が高くなる。少しだけ首が楽になった。おそらくこれが今の彼女の本来の姿なのだろう。


「神様をお守りするのがわたしの役目」


 彼女は何か大切な呪文でも唱えるかのように澄んだ声で恭しくそう言った。

 僕は少し考えてからお社と彼女を見比べた。


「そうか、君はこのお社だったのか」


 通常なら信じられないような話だが、僕は疑うことをしなかった。これは事実であると、言葉では説明できないが彼女の纏っている空気がそう告げていた。


「なんで僕の前に?」


「……お別れを言いたくて」


 最後に添えられた笑顔には、自分の運命を憂えているわけではないが、どこか淋しさが滲んでいるように感じた。


「お別れ?」


「はい」


 お社の移転が決まったのは一週間前のことだった。今まで管理をしていた人が亡くなったのが理由だった。小さなお社だったこともあり、この辺りを管理している大きな神社に神様が移されることになったのだという。


 ちょっと馴れ馴れしいかとも思ったが、僕は雨に濡れ光っている、すっかり真新しさの抜けた屋根に触れてみたくなって、そっと庇に手を伸ばした。指先が水の上を滑る。すると彼女はくすぐったそうに首をすくめた。


「君を助ける方法はないの?」


 彼女と会って話をしたのは今日で二回目だが、おそらく彼女は実家の玄関から出てくる僕を、毎日毎日、晴れの日も雨の日も見守っていてくれたに違いなかった。

 だから後一年で彼女がいなくなってしまうのだと知った瞬間、僕の中の偽善心やエゴの塊がフル稼働してそんな言葉が口をついた。

 しかし彼女は多分そんなことは全てお見通しで、怒るでも呆れるでもなく静かに首を横に振った。


「そっか……じゃあさ、約束。遅くなっちゃったけど、来年のお祭り一緒に行かない?」


 そう口にしたものの、お社の化身である彼女とお祭りに行くということが可能なのかなんて自分にもわからなかった。ただ夢にまで出てきたこの約束だけはどうしても果たした方がいいのではないかと思ったのだ。

 今まで忘れていたくせに調子のいいことを言っている自覚はある。その上、勝手だが彼女もそれを望んでいるような気がしていた。

 だがその判断が間違っていなかったということは、彼女の「ありがとう」というひとことを聴いた者ならば納得してくれただろうと思う。


 それから僕は月に一度は実家に帰ることを決めた。親からは離婚についてしつこくぐちぐち言われたが、そんなことはどうとも思わないくらい胸の内は清々しかった。これも彼女に会って話を聞いてもらうという習慣ができたからに他ならない。

 僕はその都度彼女を−−お社を綺麗に掃除して、一緒に星を見ながらどうでもいい世間話をした。

 最初のうちはお社自身が彼女だと知って、扉を拭いたりすることに抵抗があったのだが(変なところを触りやしないかと不安だった)しかし彼女が気持ちよさそうにしているのを見て、僕は徹底して掃除をしようと決意した。

 その甲斐あって雑草だらけのじめっとしたお社が今ではすっかり風通しが良くなり清潔感を取り戻している。

 両親は当たり前だが僕の行動を不審に思っていた。しかし別に悪いことをしているわけではないので、半年が過ぎた頃には気にするのをやめたようだった。


 神様のお引越しが来月に迫っていた。

 考えないようにしていた様々なことが、別れ際、一気に押し寄せてきて、僕の目頭は熱くなった。


「やっぱり僕がこれからもこのお社を守るよ。今まで世話をしてくれていた人の跡を継ぐ」


 口にするとぐっと重みが増した。この一年ずっと悩んでいたことだったが、あまりに現実的じゃなくて、考えては諦めてを何度となく繰り返していたのだった。

 もちろん彼女もそんなことはお見通しで、だからこそ静かに微笑んでそっと首を横に振った。


「わたしのことを知っていてくれている人がいる。それだけで幸せなの。あなたと再会してからのこの一年、本当に楽しかった。ありがとう。思い出してくれて」


「いや、待ってよ……だって……受け入れられない。来月にはいなくなるなんて。もう会えないなんて」


「優しいのね。だからあなたにはわたしが見えたのね。でもただ消えるわけじゃない。わたしは確かにここにいたの。土になり空気になる。この土地で暮らす人の想い出になる」


 強く握った拳に彼女の白い手が重なった。


「忘れない。忘れるわけない……この時間を、君のことを」


 彼女のキラキラと輝く瞳を真っ直ぐに見つめた。息をすることを忘れて苦しくなる。それくらい彼女の瞳は深く、吸い込まれそうなほど澄んでいた。


「僕は君を……っ」


 言葉にしてはいけない想いを直前で飲み込む。


「……くそッ!」


 彼女の瞳に吸い込まれないように固く目を閉じて、僕は彼女の唇に自分の唇を重ねた。まるで童貞のような必死な行為だったが、実態のない彼女の唇は−−当然何の味もしなかった。


 地域を上げて行われる賑やかなお祭りの中、神様のお引越しは粛々と行われた。空っぽになった彼女は何を思っているのか。その横顔からは感じ取ることはできなかった。


「行きましょ」


 無事に神様のお移りを見届けると、彼女は明るい声で言った。僕は誰の目にも見えていない彼女と出店を見て回り、たこ焼きを食べ、金魚釣りをして、十数年振りになるお祭りを童心に帰って満喫した。


「誰かと一緒にお祭りを過ごすってこんなにも楽しいことだったのね。知らなかったわ」


 綺麗な月が出ていた。でも月夜に照らされた彼女はそれ以上にもっともっと美しかった。

 彼女は明日にはお祓いをして人知れず解体される。まだこんなにも美しいのに。


「駄目だ。やっぱり受け入れられない」


 僕のひとことに彼女は困ったように笑った。


「わたしは恵まれているのね。世の中には誰の心にも残らず消えていくものがたくさんあるのに、こんなにも想ってくれる人がいるなんて。ここに、この場所に生まれることができてよかった」


「なんで君が消えないといけないんだ」


「これは宿命よ。誰しも寿命があるように、わたしにはそういう宿命が与えられた。神様に感謝しなくちゃ」


「でも……ッ」


「あなたが忘れない内はすぐそばにいる。そういうものよ」


 有無を言わせない彼女の強い瞳は、月の光を受けると優しく揺れた。そうだ、いちばん悲しいのは彼女自身なのだ。本来なら寿命までここでお社として生きることができたのに、人間の勝手な都合で取り壊される。


「ごめん」


 僕は最低な人間の代表として謝った。それを彼女はよくできましたと言わんばかりに大きく頷いて受け止めると、立ち上がって伸びをした。


「お社も肩凝ったり腰が痛くなったりするんだ?」


 素朴な疑問だったが、彼女はビックリしたように僕を見ると同時に吹き出した。


「ほんとね。変なの。長年人間を観察していたからかな。こういう時にはこうするもんだってすり込まれているのね」


 それを聞いて僕も思わず笑ってしまった。一度笑い出すとそれは悲しみを紛らわすための笑いになって、僕は涙を滲ませながら、彼女の姿が消えるまで懸命に笑い続けた。


 次の日、彼女は僕の目の前で解体された。

 僕が頑張って掃除をしたおかげか、そもそもそのつもりだったのかは知らないが、彼女の一部はお札として使われることになった。

 彼女がお札として生まれ変わった日、僕は真っ先に彼女に会いに行った。

 もしかしたらまた会えるのではないかと期待する気持ちが無かったかといえば嘘になる。

 しかし当然ながら授与されたお札から彼女が出てくることはなかった。


「パパ早くー」


 公園はお社がなくなって少し明るく且つ広くなった。そこを何も知らない子どもが駆け回る。かつての自分のようにそれはそれは無邪気に。

 再婚した相手は横顔が少し彼女に似ていた。気立てのいい素敵な人だ。それに僕にはちょっともったいないくらいの美人。営業先で知り合って、物を大切にする彼女の姿勢に惹かれた。

 僕は彼女の笑い声を聞きながら、子どもと一緒になって公園を駆け回った。大地に空気に感謝しながら、汗だくになって走り続けた。


 完

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君は還る 伊勢早クロロ @kurohige

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