イヤフォン

更科 周

イヤフォン

 きゅ、きゅっとイヤフォンを耳に嵌める。マイナーと言われるロックバンドの音楽の世界が耳から、脳に流れ出す。これでよし。外に行こう。

 

 僕は、人が苦手だ。いや、人が苦手だと言うと少し違うかもしれない。人の意味をなさない程度に聞こえるさわさわと言う話し声がどうにも好きになれないのだ。もしかしたら、自分のことを言っているのかもしれない。自分のことを笑っているのかもしれない。とんだ被害妄想だ。とんだ、自意識過剰だ。そんなことはわかりきっている。けれど、そう考えてしまうようになったのは、誰のせいだろうか。僕のせいなのだろうか。人生を狂わせた三年間を回想する。吐き気を飲み込む。

 イヤフォンは僕の生活を少しばかり楽にしてくれた。あの嫌な感じのするさわさわが聞こえない。愛すべき音楽、僕を傷つけない世界だけがそこに出来上がる。


 通学路を歩く。高校は、徒歩、バス、そして地下鉄を使わなければならない遠さにある。遠くに来た理由なんて一つだ。

 どうにも湿度が高いようで、嫌な湿気がまとわりつく。六月だから、仕方がない。霧に目がかすむ。目をこすりながら歩く。

「タクト」

 そんな声が聞こえた気がした。いや、僕を呼ぶ人なんていないだろう。幻聴だ。自意識過剰の賜物だ。

 視界の端に、幼馴染の芽衣が映る。もしかして、呼んだのは芽衣かもしれない。だけれど、無視を決め込む。イヤフォンをしていたから聞こえなかったという体でいく。なにせ、中学を卒業してからほとんど顔を合わせていない相手だ。近所に住んでいるとはいえ。彼女が僕に話しかける理由もないし、僕が彼女と話す理由もない。きっと、これが最善だ。背中のほうでまた、彼女が何かを言っているような気がした。聞こえない。僕はどこにいる? そう。音楽の世界だ。


 ゆるゆると時間が流れる。無機質な時間だ。教室に入り、一時間ごとに異なる授業を受け、ホームルームが終わる。週五日の仕事である。淡々と座っていれば終わる。その時までじっと空想している。

 いつも、寂しい気がしている。そんなのは気のせいなのだけれど。気を遣って誰かとずっと一緒にいる生活の方がぞっとするのだから。あの頃のように、誰かにおびえて、誰かの顔色を窺わなくてもよくなったのだ。それに不満などあるわけがないだろう。幸福に慣れていないだけだ。不干渉と無関係という幸福に。人は一人でこそ幸せになれるのではないだろうか。一人で生きることが困難な世の中であるのに、自分のエネルギーを使って誰かと助け合って生きるなんて、できるものなのだろうか。世界には僕しかいないわけじゃない。そうしたことでこそ生きていける人もそうしたことによって幸せになれる人もいるだろう。これはあくまで僕の中でだけの話だ。もっとも、元来僕がそうした人間であったとしても、人との接し方を忘れてしまっている以上、僕にはどうしようもない話だ。

 収束しない空想を消し去るために、イヤフォンを耳に差し込む。授業中は、イヤフォンなどつけていられないからどうしようもない空想が脳を占めるのだ。ホームルームが終わる瞬間、そんな空虚な時間も終わらせることができる。さぁ、帰ろう。

 

 地下鉄は、不干渉、無関係が幸福であることを象徴していると思う。疲れているとき、移動するとき、人は誰かと干渉することを嫌う。いや、ネット上でのつながりは求めているのかもしれない。顔を上げて見るといい。気持ち悪いくらいにスマートフォンの画面を見つめる人々の無表情が目に映るだろう。スマートフォンを手にしていなくとも、本などの自分の世界に入り込める何かを持っているのがせいぜいだと思われる。そういうことなのだ。別段失望することでもない。僕はきっと正しい。

 

 バス停に向かうため、しばらく歩く。劈くような叫びが耳を麻痺させる。ハードロックだ。なんだかんだこの音が一番好きだったりする。それ以外何も聞こえないからだ。あの嫌なさわさわだけではなく、人の視線すら気にしなくて済むようになる。決して、口ずさめるような歌ではない。この刺激こそが僕の安寧である。ボーカルが喉を潰す。それはどこか、反社会的な精神だけでなく、かなしさや空虚さをもっているのではないかと思う。


 そんな事を考えながら歩いていたところだった。とん、と肩を叩かれたような気がした。思わず振り返る。過去がフラッシュバックする。嫌だ。やめてくれ。僕に形を与えないでくれ。様々な感情が脳をかき混ぜる。視界が暗くなり、傘が頭上を覆ったことに気づく。

 そこには彼女がいた。今朝無視を決め込んだ相手だ。かき乱された感情が困惑の色に染まる。そんな僕を見たせいなのだろうか、彼女の表情もきっと今の僕のような顔をしている。硬直した僕の耳から、彼女はイヤフォンを外した。それは、とても優しくて残酷なことのように感じた。

「何ですか。若林さん」

 久方ぶりに誰かの名前というものを口にしたような気がする。口の動きがあまりにもぎこちない。気持ちが悪い。

「若林さんなんてやめてよ。中学まで芽衣って呼んでいたくせに」

 早くここを去りたい。けれど身体は動いてくれない。彼女の射すくめるような目が僕を離さない。

「何で、傘、ささないの」

 びしょ濡れになった僕を見て、言う。音楽の世界に没頭していたところ、雨が降っているのにも僕は気づいていなかったようだ。


「ほら、言ったでしょう」

「何を」

「わからないでしょう」

「何のこと」

「君は逃げている」

「何から」

 具体性のかけらもない会話が繰り広げられる。僕は何もわからない。彼女が何を言いたいのかもわからない。困惑しながらも、恐る恐る彼女を見る。何故か、泣いていた。

「何で」

 本当にわからない。何が起こっているのだ。泣きたいのはこっちのほうだ。

「わからないことばかりでしょう」

 泣きながら、僕を責めるように言う。

「君は、たくさんのこころを置いてきている。確かに、あの頃の君はたくさん傷ついたと思う。君のことをわかりきったように言いたくないからずっと黙ってた。けど、君がどんどん人とのつながりを断っていくのは見ていられなかった。君のことが好きな人だって、君のことを大切だって思う人だってたくさんいたんだよ。けれど、君はどんどん一人になって……。独りになっていった。」

 嗚咽を漏らしながら吐く言葉たちは、僕を叩く。雨足が強くなる。

「僕は、嫌われ者だよ。今も、昔も」

 精一杯笑う。もう、これでいいじゃないか。終わりにしてくれ。ほじくり返さないでくれ。願いながら、声にする。

 ぱしっと雨音の中に乾いた音が響く。痛みが頬に広がる。どうやら、引っぱたかれたようだ。

「あんたは! いつまでそんなところにいるつもりなの。閉じた世界に籠ることは楽だし、自分を守るために大切なことだよ。それが必要なことだってある。君は間違った選択をしたわけじゃない。合っているよ。」

 責めるのか、肯定するのか、どっちかにしてほしい。惑わせないでくれ。息を吸う。


「でも、朝も、今も、君は泣いていたんだ。」

 赤い目が、語る。

「君を守るための世界は必要だったと思う。けれど、その世界が君を悲しませるものなのだとしたら。それはもう、要らないものなんだよ。君のつくった世界で君が悲しむなんて、そんなさみしいことはないんだよ。それじゃあ、やっぱり君は救われない。」

 そこまで言うと、彼女は傘を投げ捨てて、僕を抱きしめた。強く。骨が軋むくらいに。

 僕は、ずっと悲しかったんだろうか。びしょ濡れになった身体の冷えを自覚する。じんわりとしみる僕ではない体温に気づかされた。

 僕の痛みが、僕以外にわかってたまるものか。皮肉が脳を掠める。が、すぐに消える。そういえば、イヤフォンをしていたときはよく目をこすっていたような気もする。僕は、いつも泣いていたのだろうか。自分のことすらわからなくなっていたようだ。なんだ、僕はかなしかったのか。そうやって脳内文字に変換してみたが、やっぱりよくわからない。もしかしたら、僕の周りには、芽衣のような人がもっといたのかもしれない。たくさんの想いを捨ててきたのは僕だったのだろうか。捨てられたから、捨てたつもりだった。けれど、捨てられているようで、捨ててきたのは自分だったのか。

 イヤフォンで蓋をして自分の世界に籠ってきた。気が付けばずぶ濡れだ。もしかしたら、この身体を冷やす雨こそが僕が捨ててきた想いなのかもしれない。手を彼女の背に回す。一度、力を入れて、抱きしめて、離す。

「濡れるから、離れてよ。芽衣。」

 まだ泣きそうな目で、芽衣は僕を見る。

「泣いてるのは君じゃないか。」

 小馬鹿にしたようにからかう。芽衣は笑みを見せ、拗ねたように言う。

「泣いてないし。泣いてたのは君だし」

「はいはい。僕はもう誰かさんのおかげで大丈夫だから。イヤフォンを返してくれ」

 芽衣の手に握られたままであったイヤフォンに手を伸ばす。芽衣は、とっさに避ける。いたずらをする子供のようだ。

「どうせ家近いんだし、一緒に帰ろ。そしたら返してあげる」

 そう、得意げに笑う。さっきの涙はどこに行ったのだろうか。

「断る理由もないから、一緒に帰るくらいならいいよ。けれど、落ち着かないからイヤフォンは返してくれ」

 そういうと、しぶしぶと返してくれた。そんなにすぐに習慣は変えられない。


 バスの二人掛け席に腰掛ける。僕は、イヤフォンで雨の日用のバラードを聴く。窓の外を見やると、夕焼けが空を染めていた。曲も、変えようか。スマートフォンで歌を漁る。芽衣がまた、イヤフォンを耳から外してきた。今度は何だ。

「イヤフォン、半分貸してよ」

 にししっと笑いながら、答えを待たずに耳に嵌めこむ。問答無用なんですね。

「それだとやりづらいから」

 そういって、イヤフォンの右と左を取り換える。嫌なさわさわが耳に入る。眉をしかめる。好きな音楽が耳を撫でる。なんとも言えない気持ちに苦笑する。芽衣は、初めて聞くものであろうバンドの音にへーっ、ほーっなどと言っていたが、すぐに寝息を立てた。

 嫌なさわさわと好きな音楽。嫌なことも、いいことも半分だ。こんな世界も、あながち悪くないのかもしれない。まだこの世界を完全に好きにはなれないけれど、いつかまた好きになれる日がくるかもしれない。

 雨のあとの黄昏を夕日が彩る中、バスは僕らを運んでいく。僕らが住む町に。



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イヤフォン 更科 周 @Sarashina_Amane27

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