第3話 初恋

 いつでも優しく私の味方である母が、一度だけ厳しい顔を私に向けたことがありました。私が小学校 2 年生の頃のことです。母は生活を支えるために昼も夜もあくせくと働いていました。忙しい中で毎日私の夕ご飯の時間だけ、家に帰ってきます。その日もいつもと同じように一緒に夕ご飯を食べました。大好きな母と過ごせる大切な時間ですから、私はたくさんお話しします。

 「今日も学校は楽しかった?」と母は聞きました。

 「今日はね、同じクラスの××に好きだよって言われちゃった! かっこいいから付き合おうかな。付き合ったらね、ちゅーするんだよ!」

 私は人生で初めての恋の季節に胸を高鳴らせていました。もちろん、母も喜んでくれるだろうと思って話したのです。しかし、母は握り拳でテーブルを強く叩いて鬼の形相で私を睨みつけて言いました。

 「私はあなたをそんなことのために育てたんじゃありません! 汚らわしい!」

 今まで聞いたことのない激しい母の声に私は驚いて、泣きながら謝罪しました。母は怒ったまま夜の職場へ出て行きました。こんなことは初めてでした。私はその晩、布団にかぶって何度も母の嫌悪に充ちた怒りの表情を思い出していました。あんなにも柔らかな笑顔の母にあのような一面があることを恐れました。一方で母の指に傷が増える喜びにも似た強烈な何かがお腹の奥底が熱く燃え上がり、疼いているのも感じていました。心拍数が上がり体が火照るのを、恐怖のためかそれ以外の何かなのか、当時の私にはわかりませんでした。

 そのときの私には、どうして母があれほどまでに怒ったのか釈然としませんでした。眠れない夜を過ごした翌朝、仕事から帰ってきた母はいつもと同じ優しく私の頭を撫でて、美味しい朝ごはんを作ってくれました。××くんには交際をお断りしましたが、私はずっと何がいけなかったのか悩み続けました。キスすることがいけなかったのか、男の子の話をしたのが悪かったのか。自分の身の上に起こったことは何でも母に話していた私でしたが、それからは少しずつ母に相談できないことが増えていきました。私は母の望む可愛い娘になろうと誓いました。……母から見える「私」の話ですけれど。

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