最後の手紙

くるみ

最後の手紙

12月24日 名古屋のビルの屋上にて


あなたへ


 ビル街に灯るオレンジ色の煌めきに囲まれて、冬への移り変わりを知らせる冷たい風を一身に受けております。気温は標準的なものだと今朝の天気予報では伝えられておりましたが、風が強く吹いているからか冬のように寒く、鳥肌がたち、凍えてしまいそうなほどです。この手紙も、かじかみ震えた手では綺麗に書きようがありませんが、どうかあなたのもとへ届くことを願っております。

 先程、私は視察がてらこのビルの屋上から地上を見下ろしてみました。呼吸が止まるほど、とても高かったです。人がありのように小さく見えるほどでした。けれども不思議と「怖い」や「恐ろしい」という感情は生まれてきませんでした。もちろんです。今更怖がることはありません。ここから飛び降りることは随分前から決めていたことなのですから。

 昼間には太陽を眩く反射し、夜になれば闇へと消えていく黒い建物の数々も、しかし部屋の一つ一つが街を明るく照らしています。その光を黒い窓が反射し、まるで光に包まれているようです。

 私はこの景色がとても美しいものに感じられます。それこそ、実際に見たことはありませんが、いつか写真で見た南極のオーロラよりも神秘的で、いつかテレビに映し出されたドバイの夜景よりも幻想的で、いつか科学館のプラネタリウムに投影された銀河系の星々よりもメルヘンチックで、そしていつか広告で見た晴れた山の雪景色よりも儚さを内蔵しているように思われるのです。

 この景色をあなたと一緒に見られたらどれだけ美しく感じられたでしょうか。この眩い光の数々をあなたと共有出来たら、この景色は美しく見えたのでしょうか。それとも、今の私が死に行こうとしているからこの人工物の塊が美しく見えるのでしょうか、いわゆる「末期の眼」というものです。いえ、私はこんなことを書きながら、あなたと見た景色ならどんなものでも美しかったような気がしてならないのです。


 覚えていますでしょうか、あなたと初めてこの街に来た日のことを。道の脇に連立する木々の新緑が美しい、気持ちが良い初夏の一日でした。二人して、圧倒されるように高いビル街を眺めましたね。道行く人々の数が異常に思えるほど多く思われました。地元では大きな祭りが開かれてようやくそのレベルに達するか、というほどの人の密度だったことを片隅で覚えております。その頃はたしか、高校に入学したころだったような気がいたします。初々しい気持ちでこの都会に来たのです。離れないように、そう話したあなたが肩の触れそうなほど近づいて、そっと私の手を握ってくれたこと、大きな手に大きな安心を覚えました。そして人ごみに参った私を落ち着いたカフェに連れて行ってくれたこと、そこに流れていた曲がモーツァルトの39番シンフォニーであったこと。揺れる列車の中、恥ずかしさを押し殺しあなたの肩に頭を乗せてみました。けれどもあなたは私の心など知らず悠長に瞼を閉じており、浮かれた気持ちが一挙に覚めていくようでしたが、窓の外に映る景色も、あなたと一緒にいたからかとても美しかったような気がいたします。二人きりで笑いあった思い出。書いているうちにさらに昔のことが思い浮かんできました。あなたとの思い出です。なのでこの話は終わりにし、そのことを書き記すことにいたしましょう。

 初めての出会いは、私たちが小学何年生かのころでしたね。確か高学年だったような気がいたします。猛烈な台風の日、両親を亡くした哀しみを乗り越える勇気をあなたが私にくださいました。決して忘れません。あの小さき頃の日々が種となり、私たちの関係は育っていったのです。そして私は、無邪気で活発で、真実を探す、あなたという人間そのものに惹かれていったのです、他の誰でもないあなたにです。そしてあなたとの関係を機に、親しい友人というものを手に入れることが出来ました。私の周りには人が増えていき、あの頃はとても、誰かと別れるなんて考えもしませんでした。そんなことなど考えられようもありません。あらゆるところに笑顔の華が咲く、良き時代の一つだったように思われます。

 憧れ、希望、そういったあなたに対する感情は中学に進学するとともに、いわゆる『恋』というものに変わっていきました。もしかしなくとも、そのときからそれは『愛』であったのかもしれません。ともかく、あの春の日、私があなたに思いを告げるとあなたは恥ずかしそうに頬を赤らめ、指先でポリポリと掻きながら快く了承したのです。あのときの喜びと言えば、それはそれはとても筆舌出来るものではありません。至上の喜びであった、とここでは記しておきましょう。

 あなたは明るい性格であったものの、決して頭は良くありませんでした。幾度となく先生に怒られている姿を見たことです。あなたは先生の前ではへらへらと笑い、誤魔化そうとしているようでしたが、その裏で真摯に反省していたことを私は知っています。その真意を私に話すことはありませんでしたが、あなたは道化を演じていたのではないかと思うのです。あなたは真面目でありながら不器用で、要領が悪いという言葉で納めていいものではありませんでした。けれどもその『道化』に徹することだけはぴか一でしたので、そう思わずにはいられないのでした。そして、だからこそ当時の私は、あなたを守ろうと、あなたとの将来を作ろうと、将来のために勉学に励むようになったのです。すると私の成績はぐんぐんと伸びていきました。いい点を取るたび、あなたは頻りに褒めてくださいました。私にとって、どんな先生方の誉め言葉よりも、当時養ってくれていた叔父叔母の誉め言葉よりも、なによりもあなたの言葉が心に響いたのです。それを糧に私はさらに勉学に励んでいき、そして私のコミュニケーション内で、『優等生』というレッテルを張られるに至ったのでした。そこにはもちろんあなたの存在も含まれていました。


 きっかけとなったのはいつだったのでしょうか。私が思うに、一番最初の明確な分かれ目は高校入学時だったと思います。あなたはあなたのレベルに見合った工業高校へ、私は地域の進学校に何人かの友人と共に入学いたしました。上にも書いたように、確かに最初の1年ほどは何も問題ありませんでした。けれども二年のある秋のことです。あなたは突然私に話しました。今でも忘れません。忘れられるはずがありません。あの時私が受けた衝撃と言えば、きっとあなたには想像できないでしょう。「君ならもっといい人間と付き合える」あなたは確かにそうおっしゃったのです。重い鈍器で強く頭を殴られたようでした。あまりの混乱に、一定期間記憶のない時間すらあります。はらわたが煮えくり返るような怒りが、憎悪が、その後ふつふつと湧き無尽蔵に上がってきました。あなたに何度も尋ねました。どうしてと。けれどもあなたは何も答えないで私の前から去っていくのです。この臆病者! 私は何度も叫びました。ベッドの上で私を抱いて、耳元で優しく囁いた言葉は嘘だったのか。なんども怒鳴りました。私はあなたを愛しているのに、あなたはどんどん私から離れていくのです。

 どうすればよいのか、私は怒りに震え混乱する頭で考えました。そしてさらに勉強するようにしました。分からなかったからです。あなたを振り向かせる手段として、私にはもはや、勉強する以外思い浮かばなかったのでした。あなたに褒めてもらう夢を何度も見たことです。同時に、別れを告げるあなたの顔も何度も見ました。とても悲しそうだったのをいまでもありありと思い浮かべられます。ならば別れなければよかったのに、どうして別れる必要があるのかと私はその度にあなたに泣きわめきました。けれども決まって「君の為だ」とそう話したのです。ええ、現実でのあなたはそんなこと一度も仰られませんでした。私はその言葉を夢の中で聞いたのです。現実との唯一の相違点でした。そんな夢を見るということは、当時の私もあなたが私のことを想ってそう行動したことに気がついていたのでしょう。けれどもそう認識したくなかったのです。理解してしまえば、あなたを責められなくなってしまうから。

 死に物狂いで勉強しました。寝る間も惜しみ、いつかあなたの振り向く日を想って勉学に励んだのです。友人との付き合いも断ち切り、無くなったものを追い求めて、一人がむしゃらに進んでいったのです。けれどもあなたは何も話しませんでした。私がどれだけ悲しかったことか。どれだけ心苦しかったことか。そう思っていると、大学受験の時期がやってきて、私は一流大学に進出しました。けれどもそこにあるのは、ただあなたに認めてほしいという切なる願いのみでしたので、当然、友人などできようもありませんでした。全てあなたのせいです。


 就職した後、私はふと思ったのです。

 この電車に飛び込めば、もう楽になるのかと。自由になれるのかと。そうすればすべてが解決します。なにも、後悔などさっぱり消えて無限のかなたへ消えていくのです。

 私は一体どこで間違えたのでしょうか。あなたと出会ったころでしょうか、あなたに『恋』をしたころでしょうか、あなたを養おうと勉強し始めた頃でしょうか、それともあなたと別れてしまった頃でしょうか。私は一体、どうすればよかったのでしょう。何が正解だったのでしょう。そもそも私は本当に間違いを犯したのでしょうか。どうすれば、あなたと一緒にいられたのでしょうか。それとも、私はあなたに幻想を見ていたのかもしれません。あなたという茨にがんじがらめにされていたのかもしれません。


 気がつけば、私の周りには誰もいませんでした。


 なんで私はこうも必死になっていたのでしょう。浮かれた熱は晩秋、初冬の夜風に冷まされて、現実へと引き戻されて行きます。こうしていままでのことを綴ってきましたが、なんてくだらない、馬鹿みたいな人生なのでしょう。思わず皮肉な笑みがこぼれてしまいます。今までやって来たことは何もありません。

 こんな手紙一枚で書ききれてしまうほど私の人生はつまらないものだったのだと、否が応でも分かってしまいます。虚無感が脳を、心を支配してなりません。どうして頑張らなければならないのでしょう。もう疲れてしまいました。もう頑張りたくなどないのです。どうして私だけが頑張らなければならないのでしょう。

 体の震えが止まりません。心臓が、内臓が、身体の皮が、全てが震えています。


 私はもう、生きたくなどありません。死んでしまいたいのです。死んで、いなくなってしまいたい。もう生きたくなど―― あぁ、涙が溢れ出てきてなりません。


 決して怖くなどありませ―  ええ、怖くなど―― のです。ここから飛び降りることなど容易なことなのです。


 でも、もしいいのであれば、最後に少しあなたと話したかった。音信不通なあなたと、私を褒めてくれたあなたと口をかわしたかった。

 不思議です。私はあなたを恨んでいるのに、こうもあなたを愛しているのです。はたしてあなたは私を愛してくださったのでしょうか。


 私が努力しなければ、あなたと一緒にいられたのでしょうか、と今思いました。けれどもそうすれば、きっとあなたとの生活は貧しいものになったのでしょう。それともその貧しい生活が正解だったのでしょうか。私はあなた一緒にいれさえすればよかった。

 なのでそれこそが正解だったのでしょう。辛い日々であったとしても、手を取り合って過ごしているのが良かった。苦しかったとしても、二人なら乗り越えられたような気がします。


 最近の日のことです。私は地に落ちる枯葉を見て、まるで自分のようだと思いました。私が再度緑色になり、枝につくことはありません。けれどももし、あなたの周囲で、枯れかけて、いまにも枝から落ちてしまいそうな葉を見かけたら、水をやり、栄養をあげ、どうか助けてやってください。私にはそういったことをしてくれる方がいませんでしたので、どうにかそうした存在になってください。


 この手紙を読んだとして、『あなた』がだれなのか分かる人は、私と『あなた』と私たちの周囲にいた方々のみでしょう。けれどもそれでいいのです。私にはあなたさえいればいいのだから。



いつかこの手紙があなたの元へ届くことを願って。


私は今から宙を舞う枯葉となるのです。


 

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