ミモザのひと

外宮あくと

ミモザのひと

 その時の俺はまだ幼くて、母が死んだことを全く理解できなかった。何度おはようのキスをしても起きてくれないので、膨れて文句を言っていたくらいだ。

 朝の薬湯を持って来た侍女が悲鳴を喉に詰まらせても、他の侍女たちが騒ぎだしても、呑気に母のベッドに頬杖ついて目覚めるのを待っていたのだ。

 しばらくするとあちらで遊びましょうと、乳母に少し強引にベッドから引き離された。ぎこちなく笑う乳母に手を引かれて部屋を出るのと、青ざめた父が侍医と共に入っていくるのは同時だった。

 きっと朝寝坊している母を父は起こしに来たのだと、その時の俺は無邪気に信じていた。


 棺に母が納められても、俺は何が起きているのか分かろうとしなかった。何故こんな狭い箱に母を寝かせるのかと不安だったが、それでもまだ理解しようとしなかったのだ。

 俺は母をじっと見つめていた。

 静かに横たわる母はとても美しかった。

 真っ白な衣装を着せられ、化粧を施し、気に入りの宝飾品と花に埋もれて、微笑むような顔で目を閉じていた。まるで花嫁が眠っているようだと思った。

 ドキドキと胸が鳴って、俺は母がおはようと言って起き上がるのを今か今かと待っていた。


「ママきれいだなぁ。早く起きてキスしてくれないかなぁ」


 父の手を握って呟くと、ギュッと握りしめられた。そうだな起きてくれれば良いのにな、と震える声が頭の上に降ってきた。

 周囲からすすり泣きが聞こえてきて、俺は一層不安になった。母が起き上がりさえすれば皆が笑顔になるのにと、唇を尖らせていた。

 俺と父の前を、黒い服の参列者たちが頭を垂れて静かに通り過ぎ、次々に花を棺に入れてゆく。

 皆が入れ終わった後、父に黄色い球状の小花がたわわに咲く枝を渡された。


「これ何ていうお花?」

「ミモザだよ。ママが大好きな花だ」


 俺は父と一緒に、ミモザを母の胸元に置いた。

 父は何度も母の頬を撫でていた。人差し指で自分の唇に触れ、その指を母の唇に重ねた。それからまた自分の唇に指を押し当てる。俺は父が涙を流すのを、その時初めて見た。


 ゆっくりと棺の蓋が閉められた。俺は不意に母にはもう二度と会えないのだと悟り、ようやく泣いた。声を上げて泣いた。母を閉じ込めないでくれと。連れて行かないでくれと。

 父に抱きしめられても、涙は止まらなかった。

 春とは名ばかりのまだ風の冷たい季節のことだった。






 母は流行り病であっけなくこの世を去り、それからの父はずっと独り身を通していた。

 父はこの国の王であり年も若く、新しい王妃が必要であると幾つもの縁談が寄せられていたが、一顧だにせず全て退けていたのだ。一人の妾妃さえ作らなかった。

 父にとって妻は、俺の母一人だけだったのだ。毎年ミモザを植え続け、王宮の庭園は春になると優しい黄色に染まるようになっていた。

 その父が突然、後添いの妃を迎えると決めた。


 母の死から十年。父は母を偲ぶために、隣国の生家を訪れたのだ。悲しみに心を塞いでいた父だったが、母の生まれ育った国を見てみたいと思う程度には気力を取り戻したようだった。母の生家である公爵家の歓待を受けての、二週間ほどの滞在だった。

 そこで父は彼女に出会ってしまったのだ。

 妻は死んだ母一人という誓いを破ってしまう相手に。


 予定を繰り上げて父は帰国してきた。うら若い一人の女性を伴って。

 その女性を一目見て、俺は落雷に打たれた気がした。

 母がいる、そう思ったのだ。彼女は母に生き写しだったのだ。二度と会えぬはずの母に。

 時の流れは無情で、俺の中の母の記憶はすでに朧になり、あの最期の日以外はあまり覚えていなかった。顔も肖像画があるからこそ忘れずにいられるだけだ。その母の肖像に彼女はそっくりだったのだ。

 喜びなのか恐怖なのか分からない。心臓が暴れまわり、俺は一言も発することができなかった。

 似ているのも道理、彼女は母の妹だったのだ。

 父もきっと同じように衝撃を受けたことだろう。まさか母が生き返ったなどと愚かな錯誤はしなかったろうが、冷静ではいられなかったはずだ。だからこんなにも突然に結婚を決め、まるで攫うように連れてきてしまったのだ。

 異国の公爵令嬢の、国を越えての嫁入りとしては驚く程荷が少なく、ほぼ身一つだった。父の心と言葉一つで決まったことだから当然だろう。父は何を望んでも許される人だった。


 騒然とする王宮の中にいきなり放り込まれてしまった彼女は、さぞや不安で頼りない思いをしていることだろうと俺は思った。年若い彼女は、ひどく儚げだったのだから。

 父の性急かつ無体な行動に俺は苛立ちを覚え、抗議した。

 しかし父は異議を許さなかったし、まるで宝物を護るように彼女の隣に立つ。そんな父を見上げる彼女は、戸惑いはあるもののうっとりと瞳を潤ませていた。

 チクリと小さな棘が胸に刺さった気がした。俺の憤りは、何の意味も無かったのだ。

 その夜から彼女は王の寝所に召され、正式な婚儀の日取りもすぐに決まったのだった。

 






 ミモザは今が盛りと咲き誇っている。

 母を思い出すミモザの季節に、父が新たな妃を迎えることになるとは、なんて皮肉なことなのだろうと思う。決してこの時期を狙ったわけではなく、ただ少しでも早く彼女を正式な王妃にせんがためだったのだが、父にしては浅慮だと思うのだ。母の忌日も近いというのに。


 黄色に輝く庭園を、俺は一人歩く。もうすぐ式典が始まるというのに、姿が見えない花嫁を探しているのだが、彼女がいるであろう場所の見当はついていた。

 そして予想した通り、一番大きなミモザの下で彼女を見つけた。

 さわさわと風で枝が揺れ、彼女の上に落ちた花の影が震えているように見えた。

 ドキンと鳴る胸を押さえる。


「父が貴女を待っています……」


 こちらに背を向けて花を見上げていた彼女が、ゆっくりと振り返る。

 たったそれだけで、息が苦しくなるほどに胸が高鳴った。

 純白の花嫁衣裳。とろけて濡れたような光沢を放つ絹が揺れる。春の冷たい光がスカートの上を流れ落ちていった。

 薄いレースに縁どられた胸元には、精緻な刺繍が施され、真珠が縫い込まれている。その柔らかに輝く真珠は、涙の結晶なのだという妄想がふと頭をよぎった。

 きっと、美しく可憐な衣装に身を包みながらも、彼女が今にも泣きそうな顔をしていたせいだろう。

 チリチリと胸が痛かった。


「貴方には私がどう見える?」

「誰よりも美しい花嫁です」

「幸せな花嫁とは言ってくれないの?」

「……笑ってくれるなら」


 彼女はまたミモザを見上げる。


「お姉さまが大好きだった花。庭園で一番立派なこの木を、陛下もこよなく愛していらっしゃる」


 彼女は姉との少ない思い出をとつとつと語った。

 姉が嫁いだ時、彼女はまだ幼い子どもだったが、幸せに頬を染める二人の姿は瞼に焼き付いているのだという。

 いつか自分も姉のようになりたいと願ったのだと。

 その日から随分月日は流れたが、憧れは消えるどころかずっと胸の中で燃え続けて、父のような男性に出会う日を夢みていたのだと。

 その願いは叶ったように見えるのだが、俺も彼女も微笑むことはできなかった。


「ミモザ……私だって愛してるわ。お姉さまに負けないくらい」


 ミモザに託して、彼女が何を言いたいのかくらい、俺にだって分る。今や胸の痛みはキリで突かれるようで、彼女を見つめているのがやっとだった。

 黄色い小花の群れの隙間を縫って、日の光が降りてくる。彼女の頬に、キラリとガラスのような雫が光った。


「でも、陛下は私をお姉さまのお名でお呼びになったの……」


 その涙に俺は歯噛みしてしまう。

 なんてことだと、思わず目を瞑ってしまった。


「そんなことがあったとは、知りませんでした……」

「誰も知らないわ。陛下御自身でさえ気付いていらっしゃらない」

「俺なら、貴女の名前しか呼びません」

「……ありがとう。優しいのね」


 唇の端に微かな笑みを浮かべた彼女は、温かな体温を持っているはずなのにまるで幻のように頼りなくて、死にゆく人の顔をしていた。

 全身が羞恥で熱くなる。こんな悲しい笑顔を見たかったのではないのに、つまらぬことを言って困らせてしまった。

 俺は優しくなんてない。彼女が望む言葉をかけられない。父が彼女に母を重ねているのは誰の目にも明らかなのだ。

 だが、俺も父と同じなのかもしれない。違うとは言い切れない。それでも、俺は彼女に母親を求めたりはしないだろう。彼女自身を知りたいとこんなにも願っているのだから。禁じられた思いだとしても。


 今日、父は母の面影を妻とし、彼女は父の抜け殻と結婚する。


 ぐっと拳を握った。

 決して奪えないこの人を、母と呼ばねばならないのかと、更にきつく。

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