まなざし-observer-

鈴代

visionary

 憧れを抱いたら、その時点でその人に敗北している。劣等感に苛まれながらも目を離すことのできない圧倒的な存在に出会ってしまったとき、それはあなたにとっての神となる。


 放課後になると学校は一気に賑やかになる。そんななか、静かに活動しているのは私たち文芸部だけかもしれない。人気のない文芸部には私と彼女しか部員がいない。室内を、硬い机に置かれた用紙とシャーペンとがぶつかる小気味いい音だけが支配していた。彼女は寡黙だけれど、紙面上では饒舌だ。でも、クラスメイトは彼女をただ物静かな、平凡な少女だと思っている。彼女の詩と向き合う眼差しの力強さも、詩作に対する姿勢の真摯さも、私以外誰も知らない。特別な彼女をみんなに知ってほしいという思い。今のまま独占していたいという思い。相反する思いが同じ強さで私の心のうちに渦巻いている。

 私は彼女の作品を目にすると、自分の書いた短歌も小説もすべて破り捨ててしまいたくなる。不格好で恥ずかしいから。なにより劣等感が私を苦しめるから。彼女と比べられるのがこわい。彼女と私を比べる他人の視線が恐ろしかった。

 私は溢れる承認欲求丸出しで、乱暴に世界を切り取るけれど、彼女は違う。彼女はものすごい力をもっている。彼女の詩からは音が聞こえるし、言葉の向こう側に景色が広がる。現実の身体を忘れて、美しい世界へと連れ去られる。彼女が丁寧に掬い上げた美しさをそのまま言葉に変えたからだ。

 けれど、彼女は自分のもつ力の大きさを知らないらしい。彼女は他人の詩の完成度にはたいして興味がないようだから、作品の出来を人と比べることがない。彼女には対抗心がまるでない。彼女の感じた美しさを表現できれば、きっとそれで満足なのだ。書きたいものだけを見つめて、どう表現すればその美しさが伝わるか試行錯誤し、一人のびのびと詩作する。その視線はまっすぐ対象に向かう。その対象は窓から射す光だったり、雨の日に水に沈む草むらだったり、彼女の内側にあるなにか輝くものだったりした。

 彼女は自己の内側を見つめるとき、必ず目を閉じる。真似をしてみても、私には何も見えないし感じない。一体彼女には何が見えているのだろう。

 いつだったか、彼女に目を閉じて何をしているのか尋ねたことがある。窓の外に広がる灰色の空。降り続くしとしと雨。やけに眩しい蛍光灯の明かり。静かな午後だった。

 彼女は恥ずかしそうに笑って言った。

「おかしい奴だって思わないでね」

 私は絶対に思わないと約束すると、彼女はすっと瞼を下ろして語り始めた。

「私の心の中には、たくさんの扉があって、色も形も大きさも全部違うの。それぞれの扉の先には違う世界があって、全部現実の世界より美しいの。目を閉じれば羽が生えたみたいに自由に想像の世界に飛び立てる。想像の世界では、私は自分の思うままになんでも見ることができる。本当になんでも」

 彼女はおもむろに目を開けて私を見据えた。

 私は彼女の言う想像の世界を見たくて目を閉じた。しかし、ただ光の残滓が瞼の裏に張り付くばかりで、なにも見えなかった。

「なにも見えないよ」

「私は想像の世界を見るのが得意なだけだよ。かわりに、現実にあるものをそのまま書くのは苦手」

「でも、そっちもうまいと思うけど」

 私が目を開けると、彼女は照れたように笑って口を開いた。

「そうかな。でも、よかった。笑われたらどうしようって思ってたから、まじめに聞いてくれて安心した。ありがとね」

「私にはよく分からないけど、本当なんだろうなあって思う。あんまり人の評価とか気にしなさそうだけど、やっぱり見え方とか気になる?」

「えー、私、意外と繊細だからね。人からどんな風に見えてるかは気になる。自分が書いた詩を否定されたら、もう書けなくなるかも」

 冗談っぽい口調だった。その瞳は不安げに揺れていた。

「そんなこと言う人いないよ。でも、言われても全然気にしなくていいよ。そんなの全部嫉妬なんだから」

 私は彼女の瞳を正面から見つめて言った。


 私の神は彼女。見ているだけで劣等感を感じてしまうのに、美しいから目を離さずにはいられない。私にできないことを簡単にやってのける。私とは違う世界を見ている。世界の美しさを素直に享受している。一度でいいから、憧れの彼女になって彼女の見ている世界を見てみたい。そんなことはできないけれど。

 私はせめて、彼女の瞳が曇らないように、傷つかないように守りたいと思った。いや、私のような凡人が守るなんて、おこがましい。それでも、彼女が他人の誹りを受けないように守りたい。彼女の瞳に映る景色も、耳に届く声や音も、美しいものだけでいい。醜い行為や彼女を刺す声が届く前に、私が彼女の目を、耳を塞いであげる。彼女の手で紡がれる美しい言葉を枯れさせるわけにはいかない。

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まなざし-observer- 鈴代 @suzushiro79

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