9 ググ/空中少女

 カラシ色のブレザー、紺のスラックスとネクタイ、白のワイシャツ。それらは全て血が滲んでいて、ユングの両手の上でとどまっていたが、しばらくの躊躇いの後にゴミ箱に放り捨てられた。


 あの後は全員無言で一緒に商店街を抜け、テトの提案で客入りが少ないハイブランドの服屋に入り、四人とも新しく服を一式揃えた。四人分の支払いは全てテトが自ら進んで済ませた。

 テトはむしろ開き直った様子だった。ソラが会計を気にしていると、いやらしい満面の笑みで「父さんの決済情報使うから」と言い放ったし、ググには知らない所だったがテトが好きでよく購入するブランドらしく、服一式をそこで揃えたからか、心なしか店を出る頃にはテトの機嫌は戻っているようだった。


 一方で、テト以外の三名はと言うと、勿論落ち着かない様子だった。


 ユングはさっきの紙切れにまだ怯えているようだったし、ソラは「父さんの決済情報」という言葉を聞いてから特に落ち着きがなく、歩く時もずっと腕を組んでいて眉間に力を入れていた。あえて金額は見ないようにしていたが、ソラには大体総額いくらか予想はついていた。

 テトがドウォンから自由に使っていい決済情報を渡されていて、かつ失うものがない状況とは言え、必要なことだったにせよこの金額はやりすぎているし、ハイブランドである必要はあまり無かった。ユングとググなんて、絶対に今必要のないピアスまで「買っとけよ」とテトに言われ購入リストに追加させられたし、それにこの買い物が父親にバレたらソラまで説教を食らうに違いなかった。


 観光客向けの広い高級ホテルのラウンジで、柔らかい一人掛け用ソファにそれぞれ座り、四人共無言で目の前のテーブルを見つめた。


 商店街が浮いていたのか、それともここらへんが浮いているのか。ハイブランドのショップに続き、すぐ目の前にこのホテルがあったので、すぐさま四人はここに入り、またしてもテトが「父さんの決済情報」を使ってとりあえず二部屋確保した。耐えきれず、部屋に入る前に化粧室へ行き、四人は即さっき買った服に着替え、それまで着ていた服は化粧室入り口前の大きな銀のゴミ箱に捨てた。


 さっさと着替え終わったテトがラウンジのソファに腰掛けていたので、他の三名も部屋に行くでもなくここに集まったのだった。


「僕の知名度が海外ではまだまだで良かったよ」

 何かを注文し終えたのか、いじっていた電子メニューと目を閉じて、テトがどこか満足げに言った。

「ここ外国人客ばっかみたいだから、僕が海外でも有名だったら今頃ラウンジに人が殺到してた」


 テトは落ち着いた様子だったが、ググは違った。今まで着たことのないような服はググをそわそわさせた。店の中でも一番安めのパーカーを選んだが、それでも普段着ているパーカーとは質感が違い、肌触りがいいような気がしたし、テトが買ってくれたスニーカーは、これまで履いていたスニーカーとまるで履き心地が違い、今日さっき初めて履くのに、履き慣れたスニーカーの二倍は歩きやすかった。この状況下で絶対に要らなかったであろうピアスも、テトが折角買ってくれたのでつけてみたが、耳にピアス穴が何個も空いていながらピアスをつけるのはかなり久々なので、違和感があった。


 ソラは脚と手を組み、座っている。ユングはと言うと、さっきまでの恐怖が吹っ飛ぶくらい周りに興味深々になったようで、広いラウンジをキョロキョロと観察している。


「何頼んだの?」


 腕を組んだままのソラがテトに聞くと、テトは真顔で答えた。


「アフタヌーンティーセットだよ。小腹空いたなと思って」


 ソラは横を向いてテトから視線をずらした。ソラが言いたいことは、ググにはなんとなくわかるような気がした。


 間も無くして、アフタヌーンティーセットとやらは自動運転の台に載って運ばれてきた。四段のサービングスタンドには四人分のスイーツが載せられ、高価そうなポット、それとティーカップが四人分。

 ポットが浮き、ティーカップに紅茶を注いでいく。どうやらテトがやってくれているようだった。


「うわあ」ユングが嬉しそうに目を輝かせ、「食べていいですか?」

「もちろん」

「いただきます!」


 ユングがマカロンに手を伸ばしたところで、ソラは脚を組むのをやめ、立ち上がる。アホらし、と、わざとらしく大きめの声で言い放ち、


「行こ、ググ」


 まだアフタヌーンティーセットの何にも手をつけていなかったググの頭に声を落とした。ググは振り返り、ソラを見る。と、ソラがエレベーターの方に向かってスタスタと歩き始めたので、優雅なティータイムを楽しもうとしている二人組とソラを見比べ、「あ、ちょっと……」仕方なくソラのほうについていくことにした。ググは急いで立ち上がり、ソラを追う。


「なんでこの状況であんな風に居られるのかしらね? あいつらは」


 エレベーターの中で、ドア付近の電子ボタンに触れてからソラはイライラとしながら言った。ググはソラと距離を取るようにエレベーター内の後ろの壁に寄りかかり、


「色々疲れちゃったんじゃないかな……」

「こっちだって疲れてる。それに、パパ……父さんの決済情報でこの状況であんな買い物したってバレたら、わたしまで殺されるかもしれないんだけど」


 ソラのその言葉を聞いて、ググはどこか安堵させられた。「テトとは、兄妹だったの?」


「まさか」ソラが振り返り、わざわざググを見て言い放つ。「テトとは血の繋がりもない。わたしたちはただ、一人の男の養子。義父が同じなだけ。本当の父親はそれぞれ違うけど、三徳学園の学園長、それがわたしたちの育ての父」

「……そうだったんだ」

「それに、付き合ってもない」


 聞いたわけではなかったが、わりと気になっていたことにおいてソラのほうから回答してくれた。ソラはドアのほうを向き直り、


「ニュース見たでしょ? あれ嘘。もう、どうでもいい……」


 エレベーターが停まり、ソラの目的地に到着した。

 扉が開くとそこには、空中庭園が広がっていた。運良く他には誰もいない。手を突き上げ伸びをしながらソラが中へ入っていく。その背中をググは追った。

 ググの名の知らぬ花が咲く木の根元に置かれたベンチにソラが腰掛ける。どうしたらいいかわからずそのまま突っ立っているググを見かねてソラが「座ったら?」と言ったところで、ググはおずおずとソラの隣に座った。


 ソラが細長く白い脚を放り投げるように伸ばした。ソラがあの時店で選んだ服は、元々着ていたのと大して変わらないような黒のノースリーブのワンピースだった。違いと言えば、端々にビジューがついていることくらいだった。


「ニュースはわたしが流させたデマ。テトのお願いをきくかわりに、わたしとテトが付き合ってることにしてほしいって言ったの。だから、ニュースを見て悲しんでるファンの友達がいたら言っといて。あれは嘘だ、って」


 ググは、実際にあのニュースのせいで途方に暮れていた友人、ジフンのことを思い出した。「……わかった、伝えておく」


 でも、どうしてデマを?

 ググがそっと聞くと、ソラの目が潤んだ気がした。それでも無表情のままソラは、


「好きだったし、もう辞めたかったの。テトも辞めたそうだったし、二人で辞められるかと思って。でもこんなことになったし、違った。テトは別に、わたしのことは好きじゃないし。そんなの知ってたのに、バカみたい」


「向こうも好きなのかと思ってたけど……」


「違う」


 ソラの目からはいつの間にか涙が溢れ、顔は歪み、声は震えていく。


「わたしのことを見てるわけじゃない。わたしの奥でのことを見てるだけ」

「あの子、って、」

「よく知ってるでしょ。他の誰でもない、のこと」

「キリ……」

「わたしはあの子とは違う。あの子じゃない」


 ソラが手で涙を拭おうとしたところで、ググは急いでパーカーのポケットからタオルハンカチを取り出した。あの買い物の時に、服やアクセサリーの山になったカートの中にどさくさに紛れて突っ込んだ高価なタオルハンカチだった。元々使っていたものはもうわざわざ洗ってまで使い続ける気にもなれず、折角だからと勝手に新調させていただいた。


「……ありがと」


 無地のネイビーに小さいロゴが一つだけ刺繍されたタオルハンカチを受け取って、ソラがそっと涙を拭う。ロゴを見てそのタオルハンカチの正体に気づいたソラが吹き出して、


「これ、買ったの? 勝手に」

 言われ、ググも思わず笑う。「ちょうど買い替え時だなと思って」

 アハハ、とソラが大きく笑い飛ばす。ここまで笑っているソラを見るのは初めてで、ググはどこか嬉しくなった。

「意外とそーいうとこあるんだ」


 タオルハンカチをググに返し、よっと、とソラが立ち上がる。またどこかに移動するのかと、ググも続いて立ち上がった。

 ソラが振り返る。また、漆黒の髪が夢のように舞い上がる。髪の周りだけ無重力になったかのように、ソラの毛先はしばらく滞空して、すとんと軽やかにソラの腰あたりに戻った。

 深い緑の瞳がググを見つめる。


「浮いたことはある?」

「物理的な方だったら、無いかな」

「それって」ソラがまた笑う。泣いたり笑ったり、まるで夏の天気のようだった。「教室では浮いてたってこと?」

「まあ……浮いてたかも」

「じゃあ、飛んだことは?」

「授業やバイトなら……」


 ソラが上を向いて笑った。それからすぐにまたググに向き直り、指を絡めてググの両手を顔の前で握る。

 急なことだったのもあり、ググは絶句してソラを見た。自分の顔と頭に熱が集中するのがわかる。顔が赤くなっていたらどうしよう? そう思うも、そうなっていたところで、もうどうしようもない。

 ソラが優しく微笑むように目を細めると、ググの体はいつもとは違う感覚に包まれ、足元を見ると、庭園のタイルの床から両足は離れてすでに一メートルほど浮いていた。


「ググ、高所恐怖症じゃないよね?」

「じゃないけど、高さによっては発症するかも」

「じゃあ、はじめはちょっとずつ。手は絶対離さないで」


 ゆっくりと、足が地面から遠のいていく。距離にして、さっき一メートルだったのが、今や五メートルだろうか?


「景色が綺麗に見えるでしょ?」


 ググにとっては景色どころではなかったが、頷く。「うん、すごく……」


「これが、わたしのいるグループが空中少女コンジュンソニョって言われる理由。知ってた? 空の中みたいなセットにしたライブで、浮いて歌ったりするの」


「知らなかった」五メートルより上に言った時点で不安げにググは足元や周りをキョロキョロと見渡しながら、「ライブとか見たことなくて……」


「そう。じゃあ今度見にきて、招待するから」そう言って、ソラは手に力を込める。「浮くのはもう慣れただろうし、飛んでみる? ビュンって、ヒーローみたいに」

「い、いや!」ググはソラに向き直った。「それはまた今度がいいかも」

「そっか」


 やがてゆっくりと、二人の足は地面に着地した。両足が他についたところで、ググは気が落ち着いたような、しかしなんだか寂しいような、複雑な気持ちになった。高いところで浮いているときは少し怖かったが、思い返してみると割とスリリングで面白かったかもしれないし、慣れれば心地よいとさえ思うようになるのかもしれない。


「ググって不思議」すでに地に足はついているのに、ググの手を握ったままソラは言う。「全然喋んないし、ついさっき知り合ったばっかなのに、一緒にいると落ち着く気がするし、長く一緒にいた気がする」


「……ぼくもそう思うよ」


「本当に? ならこれから一緒にいて」


 一緒にいる、というのが厳密に言うとどういう意味かはわからなかったが、ソラにじっと見つめられていると断れるわけもなく、それに断る理由も特になかったので、ググは顎を引いた。「うん」


「わたしと一緒にいたら、わたしの言うこと聞かないといけないけど、いいの?」


「うん」ググはなんだか変な気分だった。疲れなのか、高所にいたからなのか、ソラといるからなのか。とにかく冷静さに欠いていて、それでいて理性はしっかりとしているような気もしたし、体だけがふわふわとした感覚で、まるで夢の中にいるような感覚だった。「いいよ」


 二つ返事でググにそう言われたソラは嬉しそうに顔を綻ばせたが、それはどことなく小悪魔のような笑みだった。


「じゃあ後でマッサージしてくれる?」

「いいけど……」

「けど、何?」

「いいのかな?」

「どういうこと?」ソラが眉をひそめて笑った。

「色々と……」

「いいんじゃない? ググだってそうしたいんでしょ?」


 ソラがググの耳たぶに触れる。生体情報交換の合図だ。ググもソラの耳たぶに触れた。

 やがて送られてきた生体情報のプロフィールのどこかの覧を見て、ソラはまた大笑いする。「何これ?」


「今さっきの一瞬で更新したんだ」

「まあ、ワンちゃんみたいだし、ちょっとわかるかも」


 最近密かに若者の間で流行っているのが、プロフィールを事細かに書いて更新することだった。

 ググの長所の欄には、こうあった。


 《長所:順応》



 ◼︎



 二人は再びエレベーターに乗った。ググはソラが押したボタンを見て一旦ラウンジに戻るのだと気づいた。

 さっきまで居た席に戻ると、残された二人のティーカップはすでに空になっていて、ユングは上を向き口を微かに開けて安らかな寝息を立ててすっかり寝てしまっていた。テトはと言うと、特に何をするわけでもなくぼうっと窓の外の景色を眺めている。サービングスタンドにはまだスイーツが数個残っていて、食べる気になれずに残したか、それかソラとググのために残してくれたのか。


 気配に気づき、テトが振り返る。「ソラ」


 ソラはソファに座らずに、立ったままだった。ググもそれに合わせて立っていると、テトが口を開き、


「そろそろ部屋に行く? それにユング部屋で寝かせたほうがいいかも」


「行く」ソラがググの腕にしがみついた。「けど、テトとは行かない」


「は?」「え?」


 テトとググの声が重なる。ポカンと口を開けて目を丸くし、テトがゆっくりと立ち上がった。ソラと、それからソラの腕が絡まるググを一瞥し、「ググと行くってこと?」


「そうだけど?」

「僕、二部屋取ったんだけど?」

「だから、わたしとググで一部屋、テトとユングで一部屋、それでいいでしょ?」

「いいわけないだろ?」


 やたら疑問符が末尾につく会話だった。テトがわしゃわしゃと自分の前髪を揺さぶり、また前髪を整える。混乱したときのテトの癖だった。

 あまりにも気まずい展開に、ググは勿論何も言えない。ソラの手を振り解くこともできず、ただ石のように立ち尽くす。


「僕が取った部屋で別の男と泊まるってこと?」

「パパのお金で取った部屋、でしょ!」


 二人とも徐々に語気が強くなる。テトの矛先はやはりググに向き、ググをそっと指さす。


「え、寝取った? この短時間で?」


 瞬間、パン、と何かが叩かれる音がした。ユングがその音でハッと目を覚ます。瞬時に何が起きたか全てを理解したユングはすぐに立ち上がるも、何かできるわけではない。


 思ったより力が強すぎたのか、テトの頬を叩いた手をソラは自らさすった。テトは依然驚きながら、自分の頬に手をやり、ソラを見つめる。


「マジか……」呟いたのはググでもユングでもなく、テト本人だった。

「なんなの? 『別の男』だの、『寝取った』、だの。わたしあんたのモノじゃないんだけど?」

「モノとまでは言わないけど、ソラは僕のだよ。ずっと前からそうだ」

「わたしはあんたのじゃない、あんたと付き合ってもない、だから別にどこにだって行くの」

「僕の何が気に入らないわけ?」

「……こいつ、ぶっ殺す」


 四人の席のテーブルと、アフタヌーンティーの動画を載せた台がガタガタと震え出した。やがてそれらはゆっくりと宙に浮く。それを見た他の席にいた客が声を上げ、ラウンジから慌ただしく出て行った。

 これから何が起きるか予感したユングが声を上げる。


「ソラ姉!」

「ほんとキリそっくりだよ」目を細めてテトが言う。「気に入らないことがあったらそうやって暴れてさ……」


 テトがそう言うと、テーブルや台は、ドン、と大きな音を立てて着地した。


「テトは、何もわかってない」息を荒くし、ソラがまた涙ぐみながら言う。目は赤くなり、今度は鼻水さえも出ていた。

「わかってない? 当たり前だろ! 言われなきゃわからない。僕はユングとは違うんだ! こっちからすると、いきなり別の男と泊まるって言われて挙句ブチギレられて、意味がわからないよ! こっちがキレたいくらいだ!」


 テトの怒鳴り声が引き金になったかのように、ソラは衝動的に自分の満杯になったままのティーカップを手荒に掴んだ。

 そしてそのまま、紅茶をテトの顔面に勢いよく浴びせる。

 幸い、紅茶は冷めきっていた。顔から胸元までびしょ濡れになったテトは、ソラの細い手首を掴む。


「はなして」


 ソラがもう一方の空いていた手で、手首を掴むテトの手に爪を立てると、反射的にテトの手はソラの手首から離れた。

 そして、ググが追う間も無く、ソラは早歩きでまたどこかへ行ってしまう。

 びしょびしょになった前髪をかき上げ、ユングとググが今まで聞いたこともないような大きなため息をつき、テトは手で顔を覆ってテーブルに肘をついた。「喧嘩ばっかだ……」


「あの、ぼく……」

「わかってるよ……」顔を隠したまま、テトは小さく呟いた。「きみは悪くない。きみもソラに振り回されてるだけだ……」


 自分が無罪だと主張したくて口を開いたわけではなかったが、テトにそう言われたググは他には何も言えなかった。


「いいよ、二人で泊まって……ソラともググとも今はもう話したくないし。二人の部屋は805Bね」


 ついにテーブルに突っ伏して項垂れたテトを見て、ググは「ごめん」とだけ言って、ラウンジを後にした。我ながらなぜ謝っているかはよくわからなかったが、ググはソラを探すべく、まずはラウンジのある階を歩き回ることにした。


 結果、ソラは見つからなかった。ラウンジのある階以外にも、客が行ける全てのフロアを歩き回ったが、一体どこに行ったというのか、ソラはどこにもいなかった。

 自分らの部屋をも確認したが、ソラは先に来ているわけでもなかった。自分らの部屋がある八階のエレベーターの前に戻ってきたところで、ググは目をつむり、こめかみを人差し指でコンコンと2回叩いた。視界の右端には「連絡先」の欄が表示され、そこには母とジョンファの他に新たにソラの名前がしっかりと追加されている。

 ソラの名前に触れ、通話をするために発信する。

 と、案外、ソラはたった三コール目で通話に応じた。


『……ググ? ごめんなさい』

「大丈夫だよ。今どこ?」

『大浴場。ちょっと落ち着こうと思って、お風呂入ろうかなって……』

 どうりで見つからないわけだ。ググは胸を撫で下ろし、

「いなくなったと思ってたから、よかった。部屋は805Bだって……」

『落ち着いたら行く。……テト怒ってるよね?』

「というよりは、最後は落ち込んでるかんじだった」

『そっか。もっと落ち込めばいいのに。じゃ、後でね……』


 落ち込めばいいのに、と言った時は飄々としていたが、最後あたりは弱々しく、ソラは憔悴しきったように通話を終了させた。ググは、ソラが湯船に浸かってリフレッシュしてくれることを望んだ。


 とは言え、疲れているのはソラだけではない。テト、ユングはもちろん、ググ自身もまた疲れている。特にこの数日いろんなことが自分の身に起きて、どこなのかもわからないところを転々とさせられている。最近ろくに寝られたわけもなく、ずっと体を何かに縛り付けられているような緊張感が自分を解放してくれない。

 ソラがホテル内にいるのはわかったので、ググは部屋に行くことにした。テトがググの生体情報をホテルに登録したため、ドアは何もせずともググがノブを握っただけで解錠された。


 さっきソラがいるかどうか確認した時はまともに見ていなかったが、それにしても洗練された広くてスタイリッシュな部屋だった。ググが一人で暮らしていた部屋の何倍もの広さだ。

 奥には寝室があって、ベッドはキングサイズのものが中央に一つ置いてあった。

 部屋のソファを見てみると、ググの暮らしていた部屋のベッドとほぼ同じ大きさのソファだったので、今日寝るとしたら自分はここで、ソラはあの馬鹿でかいベッドだな、とググは思った。


 ググは早速ソファに座った。なんだか久々に一人きりになれたような気がした。ラウンジにいたテトのように、何をするわけでもなく、ただ腰掛けて窓の外の景色を見た。

 これから、ぼくはどうなるんだろう。

 思うだけで、深く考える余裕はない。

 それに、キリ――キリは今頃何を――

 うっかりうとうとし寝かけていたところで、ドアが開く音がした。


 はっと目を覚まし、ドアのほうを見ると、そこにはソラではなくユングがいた。


「ググ兄、お風呂行きませんか?」


 ちゃっかりタオルやらなにやらを抱えて、ユングは元通りの笑顔でググに話しかけた。


「テトさんももう怒ってないですよ。大浴場すごい広いみたいです! 三人でお風呂入りましょうよ」

「あ、僕は多分行っちゃダメだから、部屋のシャワー使うよ……」

「ん、行っちゃだめって、どうして?」

 ユングは瞬きをして数秒ググ見つめたが、気づいたのかググの考えを読み取ったのか、「ああ」と声を上げ、「大丈夫そうですけど、ググ兄がそう言うなら、無理には誘いません」

「うん。誘ってくれたのにごめん」

「にしても、ググさんて不思議ですね」ユングが顎に手をやって首を傾げた。


 不思議、と言われるのは今日で二回目だ。


(ぼくからすると、きみのほうが不思議だけどね……)

「そうですか? 僕って結構わかりやすいタイプだと思います」

(そうかね)


 思考を読んでくれるのは、口を開かなくて済むので随分と楽だった。


「ググさんって、いっぱい引き出しがあっておもしろいですよね。どうして今そんなに落ち着いちゃったんですか?」

(元々落ち着いてるほうだと思うけどな)

「節々に元々の落ち着きのなさが見られます」

(……悪口?)

「いえ! あ、じゃあまた後で、夜ご飯の時にでも!」


 誤魔化すように、ユングはばたばたと部屋を出て行った。

 もう少しゆっくりしたかったが、ググもシャワーを浴びることにした。ソラが戻ってくる前までに済ませておけばちょうどいいような気がしたのだ。何にちょうどいいのかはわからないが。


 部屋についている風呂場ももちろん、ググのアパートよりも何倍も広いものだった。まず、浴槽がついているし、これを見るのは久しぶりだった。それに、あのアパートのシャワーについていた赤と青のノズルのようなものはない。キリがあのシャワーでお湯の出し方がわからないのは、まあ当然だった。

 服を脱いでシャワーを浴びようとすると、ミストが出るモードがあったりして、一体どのような場面でミストを使うのかググには想像もできなかったが、ミストを出してみたり、アロマシャワーモードにしてみたりと、一人なのをいいことに少し遊んだ。

 ゆっくりとシャワーを浴びるのも久々な気がして、ググは顔も見たことがないテトとソラの父とやらに感謝する。普通に生きていたら泊まれるわけがなかったホテルだ。


 髪も体もしっかり洗い、信じられないくらい柔らかくふかふかのタオルで体を拭き、さっき買ってもらった下着と部屋にあったスウェットのズボンだけを履いたところでぺたぺたと部屋に戻り、備え付けの冷蔵庫を開くと、缶ビールが入っていた。いくらかかるかは知らないし、ググの知らない銘柄だったが、これも感謝はするからということで一杯いただくことにした。


 タブを引くと、プシュ、と空気の抜ける聞き慣れた音がした。ビールを胃に流し込み、


「うま……」


 思わず出た一言だった。ついでに涙も出そうだった。こんな贅沢初めてだ。ろくに使いはしなかったが、ミストの出るシャワー、広い部屋、高い景色、大きなソファにベッド、美味い酒。なぜここにいるのかもうわからないが、しばらくここに居たいとさえ思う。


「はぁ……」


 疲れなのか安堵なのか。

 溜め息さえついたところで、また部屋のドアが開き誰かが歩いてくる音がした。


 急いでググが振り返ると、ググにとってタイミング悪く、そこにいるのはソラだった。


「ググ?」

「あ、と、すみません」


 タオルを洗面室に置いてきたため、上裸を隠すのはもう無理だった。咄嗟のことだったので敬語になり、ググは缶をローテーブルに置いた。


「ググも落ち着けたみたいね」


 くすくすとソラが笑い、部屋にあったのであろうアメニティが入ったポーチをソファに置く。ソラは特に男の上半身については何も思わなかったようだが、上半身というよりはググの両腕をじっと見ためて両手を自分の腰に置いた。


「びっくり。いつれたの?」


 というのは、言われなくても、ソラの視線を見れば何のことを指しているのかわかる。


「……今より若い時に……」

「今も若いでしょ」

「……若気の至りで」


 らをなぞるように、ソラはググの腕に指を這わせる。


 改めて自分の腕を見てみると、めちゃくちゃだな、というのがググ自身の感想だった。両腕の付け根から手首までびっしり入ったヘビや文字・記号のタトゥーは、気に入ってはいるが、数年たった今では黒歴史に近い。

 夏場はこの腕のおかげで変な奴に絡まれなくて済むし、バイト先で老人たちに文句を言われることが圧倒的に減るが、半袖を着なくていい季節は自らすすんで腕を出すことはない。


「ググ、だから部屋のシャワー使ったのね」

「みんなをギョッとさせたら申し訳ないし、ルール的にこの広範囲のでちゃんときた大浴場は無理かと……」

「ま、ググの顔でそれだとみんな確かに驚くかも」

「ごめん、びっくりさせて。……上も着ます……」

「待って」


 ソラがググの手首を優しく掴んで、ググを上目遣いで見つめた。


「上の服着る前に、髪乾かすのはどう?」

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無能力者と神聖欠陥 島流十次 @smngs11

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