2 ググ/パパ、大好き


 荷物をキャリーケースにまとめ、それからジュノが所有しているらしい空豆型の黒塗りの車に乗り込んだググは、後部座席でユナとユングに挟まれてそのまま寝てしまった。ジュノによってそっと助手席に乗せられたキリも、その後ググが眠りについてからも起きる気配はなかった。


 具体的にどこの場所に行かせられるのかは勿論聞いていないし、聞きづらかった為、窓の景色から行先を判断しようとしていたググだったが、ユナから受けた拘束による疲れのせいで、周りに気を張れずに眠り込んでしまったのである。


「着いたよ」


 ジュノの声で、ググはようやく目を覚ます。


 少しむくんだ瞼をこすり、目を開けると、どうやら駐車場に到着したらしいことがわかった。


 駐車している車はこの車の他には数台だった。地下だろうか? 灰色のコンクリートに囲まれ、白い照明は薄暗く、鬱蒼としている。


 何時間経ったのだろうか。それとも、数分? 寝ていたのはあっという間なような気がするが、どれくらいの時間をかけてここにたどり着いたのかもググにはわからない。当然、この景色ではここが第二新釜山なのかどうかさえわからない。


 両サイドのユナとユングはすぐに車から降りたが、寝起きのググはどうしてももたついてしまう。


 その間にジュノも運転席から降りて、助手席のドアを開けてキリを迎えた。


 キリはそこでようやく目を覚ましたようで、助手席からは子供のようにぐずるキリの声が聞こえる。


「こわくないよ。大丈夫だからね」


 ジュノが、いまだジュジュを抱きしめていたキリをジュジュごと抱き寄せてそっと車から降ろす。


 足元に置いていたキャリーケースを持ち、ググも車から降りた。


「ご飯でも食べる?」


 歩きながら、ジュノが振り返って声をかける。


「はい!」ユナが一番に元気よく返事をし、挙手する。「お腹すいてました!」


「僕も、ぺこぺこです」と、ユング。


「……キリもー」と、目をこすりながら、キリ。


 ジュノがキリの手をとり、また歩き始める。それにユナ、ユング、ググが続いていく。


「ここどこ?」


 眠りから切り替えたようで、いつもの調子でキリはジュノに尋ねる。


「ぼくの家みたいなところだよ。みんなが暮らしているんだ」


 ジュノはキリにわかりやすいように簡単にそう説明し、キリもそれで納得したのか「へえ」と返事をしたが、ググにはそれだけでは足りない。


「ここは、第二新釜山ですか?」


 今度はググが横入りしてそう尋ねると、ジュノは数秒考えたように黙ってから、やがて口を開いた。「とりあえず、今はきみにはまだ言えないかな。この施設がどういう場所なのかは説明できるし、するつもりだけど、具体的にどこに位置しているのかは、言えない。他に知られたらまずいからね」


 大きなガラスの自動ドアをくぐり、真っすぐ廊下を進んでいく。


「なんでまずいかって、今頃キリを探している連中がたくさんいるに違いないから。きみには、実感がないだろうけど……」


 キリを探している人間なら、一人だけ知っている。


 あの、テトという人物だ。この国でそれなりに顔が知られている芸能人。ググだって見たことがあった。そんな彼と生体情報を交換し、いつでも連絡をとれる状態になっている。彼のプロフィールも確認することができる。ただ、キリとの関係性はわからない。


 キリを探している人間――テト――のことは今はまだ言わないほうがよい気がしたので、ググはそのまま黙ることにした。喋るにしても、ジュノのほうからもう少し詳細を語ってくれてからだと判断した。


 それからまず到着したのは、食堂だ。


 円形の窓があり、そこからは海岸が見える。ということは、地下ではないのだろうか。ますますここがどこなのかわからなくなってしまう。


 すでに人がちらほらいて、四人ほどのグループになって食事をしている人や、一人で黙々と食事をしている人もいる。全体的に年齢層は若めのように見えた。


 壁に設置されたモニターから希望する料理を選ぶと、モニターの下がパッと開いて、すぐに料理が出てくる。料理の種類は豊富で、各々好きなものを選んだ。


 そして目の前にキリ、ジュノ、ユナの並びで座り、ググはユングの隣に座る。


 ググは冷麺を食べることにした。


 盆の上に乗った冷麺を見て、何か毒でも入っているのではないか、騙されているのではないかと勘繰ってしまうが、朝から何も食べていないこともありすぐに銀の箸に手が伸びてしまう。


「「「いただきまーす」」」


 キリ、ユナ、ユングが揃って言う。


「……いただきます」


 冷麺を凝視したのちに、ググも三人に続いて食事を始めることにした。


 食事を始めた四人だったが、残る一人、ジュノの席には料理が置かれていない。ジュノは携帯端末を開いて、何やら作業を始めた。


「……食べないんですか?」


 それとなくググがジュノにそう聞くと、ジュノは顔を上げて、


「ああ、食べられないからね。食べようと思えば、食べられるけど」


「と、言うと……」


「――ちゃんとした自己紹介がまだだったね」ジュノは、開いたばかりの携帯端末を閉じた。「改めて、ぼくはジュノ。正真正銘のキリの兄。本当に三十歳。職業は、色々。首爾有能三徳学園の理事長、カン・ドウォンの秘書、それからそこの芸能芸術学科のボイストレーナー。あと、たまに医者。あとは、ここの管理人みたいなかんじかな」


 有能学園と言えば、この国で一番大きく、世界的にも有名な、有能力者専門の学園。


 そして、キリが逃げてきた場所だ。


「ぼくが食べるのは、みんなと同じものじゃないんだ」


 ググは、ふと、三人に連行される前のことを思い出した。ユナがググについて「これが肉になれば先生のご飯になる」と言っていたことだ。


 ググが、まさか、と思ったところで、ジュノが続ける。


「ぼくが食べるのは、人間の肉。飲むのは、人間の血」特にこの事を言うのを気にしていないようで、ジュノはさらっとそう言い切る。「それが動力にも能力にもなるんだ」


 まあ、お酒は飲むんだけどね。

 ジュノはそう付け足して笑ったが、ググは目のやり場に困り、とりあえずキリのほうを見る。


 以前屋台飯を食べていたときのように、キリはまた何もきいていないようで、食べることのほうに集中していた。


「安心して。ぼくは善人のことは食べないよ」


 ジュノが微笑み、ググはこくこくと頷く。そのままワカメスープを飲んでいると、


「キリの血は飲んだけど」


 ジュノがそう言ったので、ググは噎せ、スープの椀を一旦置く。


「兄妹だから当たり前なんだろうけど、キリの血は異様にぼくの体に適合するんだ」ジュノは、手を顔の前で組んで言う。「キリが不老不死なように、キリの血を飲んだぼくももうここから老いることはない。若返ることはここでストップしたけどね」


「……情報量が多すぎて、頭がおいつきません……」


「だろうね」ジュノは笑った。「ここらへんは話すともっと細かくなるから、別の時にしようか。特にキリについては、かなり長くなる。けど、きみがこうして関わってしまった以上、ぼくたちのことは話す必要があるかもしれない」


 それから、ジュノはユナとユングを見て、


「二人の紹介もするね。二人は、学園のぼくのレッスン生のうちの二人。有能学園芸能芸術学科の二年生。二人は特に学園内で優秀な生徒で、能力も他の子たちより秀でてるんだ」


 ジュノの言葉にユングはにこにこと嬉しそうな様子で、ユナのほうはというと、どことなく照れ臭そうな様子だった。


「ユングは、人の感情や考えが読み取れる。この能力を持っている有能力者はなかなかいないし、開発小板チップがプライバシー保護のために制御している部分もユングの前では効かないくらい。ユングには、嘘はつけないよ」


 ジュノの紹介を聞いて、ユングは、ググにこそっと小声で言う。「逆に言えば、それ以外には大したことがないんです、僕」


「……ユナの説明は、ちょっと難しいかな。ユナはなんていうか、『固める』のが得意なんだ。物と物をくっつけるのも得意だし、今朝のきみみたいに、体とかね。

 二人はそういうとこに特化していて、あとは二人共世界の有能力者ができることは低ランクから高ランクのことまでできるかんじかな」


「ちなみにジュノ先生は、高高高高ランクまでできるかんじです」


 ユングがそう言ったが、そもそもググは有能力者のできる「低ランク」のことすらどういうものかわからないので、まるで見当がつかない。


「お兄さんは?」ユングが目を輝かせて隣のググを見た。「お兄さんは、何ができますか?」


「ぼく?」ググは自分を指さし、「ぼくは無能だから……何もできないんだ。小板とリンクしてること以外は、全部手動。だから、有能の人がうらやましいよ」


 それを聞いたユングは、なぜか不思議そうに首を傾げた。


「ほらね、言ったじゃんー」目の前のユナがユングに向かって言う。


「ん? 何が?」と、ジュノ。


「ユングが車の中で、この人は絶対に有能だって言ってて。わたしは絶対に違うって言ったんです。なんとなくそう見えるし。でも、ユングの言うことだからそうなのかなって思ってましたけど、やっぱり違いましたね」


「珍しいね、ユングがそういうの外すなんて」


「うーん……」


 ユングは、銀のスプーンを手にしたままググを見つめる。どうも腑に落ちない様子だった。


「本当に、無能なんだ、ぼく。なんか期待させたなら、ごめんね」


「……はい、僕、わかります。お兄さんは嘘をついていません。……でも、納得できません。お兄さんからは、僕たちと同じがしますから」


「もー、あきらめなよ、ユング」ユナが自分の皿から箸でニンジンの輪切りをつまり、それをユングの皿にうつす。「にんじんあげるし、元気だして」


 ユングはそれをすぐに口へ運ぶも、「ユナが食べたくないだけでしょ」と口を尖らせた。


「……さ、今度はググに自己紹介でもしてもらうか」ジュノが手と手を合わせて言う。「どうせ生体情報のプロフィールじゃ物足りないだろうしね」


「ぼくは、皆さんと比べると薄い人間ですけど――まず、名前は、イ・ソンググって言います」


「ググ、っていうのは、あだ名だったんだ。にしても、珍しい名前だよね」と、ジュノ。


「はい。姓は母のもので、『ソンググ』は、国が成るって書いて『成国ソンググ』なんですけど、父が出生届を出すときに読みを間違えたみたいで、そのままこれになったらしくて……普段これで名乗るのが面倒なので、わざわざプロフィールにあだ名のほうを書いてそっちで呼んでもらうようにしてます。『ググ』だけでも、十分呼びづらいですけど」


「そうだったんだ。キリがググって呼んでたから、ぼくもそれで呼んでたけど。母の姓を名乗ってるのはいつから?」


「父と離れてからですね。小学生になる前に母と二人で第二新釜山プサンに越して来たんです。父の連絡先も知らないし、どうしてるかも母は教えてくれないし、写真すらないので、父のことは顔すら思い出せないんですけど――」


「第二新釜山の前はどこで暮らしていたの?」


「新大邱テグです。出生地がそこなので、そこかと。でもあんまり記憶がなくて」


「そっか」ジュノは腕を組む。「ググの生い立ちについて調べてみたら、なんだかおもしろくなりそうだね。ちなみに、お父さんの名前は?」


「あ……それも知らないんです。調べるなって母から言われてて。それに、戸籍を見たら、父のところだけ消されてるんです。一緒に過ごしてた幼少期の数年間、ぼくも母も名前で父を呼んでなかったから、思い出せなくて……」


「戸籍から消されてたって、本当に? 役所がそんなことしたとは思えないし、外部の人間がやるにしても、ぼくクラスの有能でさえできないことだよ。ぼくの義父クラスなら、できるかもしれなけど……」


 あ、義父ってあの学園の理事長のことね、とジュノは付け足す。


「ぼくも目を疑ったんですけど、本当に消されてたんです。

 父の名前は思い出せないけど、多分外国人だったのかなって思ってます。日本人とか、中国人とか。母と比べるとカタコトっぽかったような気がするし、そのせいでぼくの名前もこれになったのかなって」


 それを聞いて、ジュノは顎に指先を持っていって考え込む。


 急にジュノが黙ったので、ググはなんとなく申し訳ない気持ちになりながら、


「……あの、妙な話しちゃってすみません」


「いいや、大丈夫だよ」


 ジュノはググににっこりと笑ってみせた。


「ところで、ググは大学生だよね?」


「え、あ、はい」


「ここに居てもらうのがいつまでになるかわからないけど、出席や単位のことが不安だろうからさ。きみからここに巻き込まれにきたわけではないだろうし、大学については全部ぼくがなんとかしておくよ。大学名は?」


「か、海七道大学です」


「わかった。じゃあ、そこの人と話をしておくからね。大学のことは、心配しないで」


「あ……ありがとうございます」


 本当かはわからないが、ジュノの口ぶりは信用できそうだったし、心配してくれるだけでもありがたいと言えばありがたいので、ググは頭を下げて礼を言った。


 ふと、二人のやり取りを聞いていたユナが、じっとこちらを睨むように見てきていることにググは気が付く。


 慌てて目を反らしたところで、ジュノがググに微笑んだままたて続けに口を開く。


「ググはお酒飲める?」


「あ、はい。一応……」


「じゃあ、今日の夜に一緒に飲もう。場所はここの中ならどこでもいいし。その時に、もうちょっと詳しい話をしようと思う。別に、雑談したっていいしさ」


 ユナの眉間にしわが寄り、箸を握る手に力が込められたのがわかった。


 が、自分をよくしてくれようとしているジュノの誘いを断るわけにもいかず、


「わかりました」


 と、ググは返事をした。



   ■



 胡座をかき、手を膝につき床に向かい合って座るユングとキリの間には、ちょうど顔の目の前あたりで白く薄い正方形のタイルが浮いている。


 それをボードにして、その上を白いビー玉のようなものがキリのほうとユングのほうを往復して転がったり、飛んだりしている。ググがやっと目視できるほどの速さだ。


 ググはもちろんこんなことはしたことがないが、どうやら有能力者の間では割とメジャーなゲームのようで、キリもやったことがあるらしい。二人の手はずっと膝の上だが、ボードを浮かせるのも玉を投げ返すのも全て手をつけずに能力で行なっている。


 それなりの集中力が必要らしく、キリは食事中並みの静かさでボードと玉に食いついており、ユングもまた、真剣な眼差しをしていた。


「あっ」


 ユングが小さく声を上げる。キリの返した玉を受け止めきれず、玉がボードからユングのほうに落ちた。


「またキリのかち!」


 そう言ってキリが立ち上がった拍子に、キリとユングのボードへの力も消えたのか、白いタイルのボードが床に落ちた。


「キリさん、強いです」笑いながら、ユングが自分の頬を掻く。「僕、勝てません」


 まるで、どこかのホテルのような一室。シングルベッドに小さな冷蔵庫に電子レンジ、四人までなら座れそうなソファ、テレビモニター。衣服が十分入る収納。ジュノがググのために用意してくれた部屋だ。


 食事後ここに案内され、そのままここにキリも居るのはともかく、なぜかユングとユナもいて、ユングはキリと遊びはじめたし、ユナはソファで一人で携帯端末の画面を見ている。ひょっとすると、二人は自分の監視役でもしているのだろうか?


 ググは、キャリーケースを開けて自分の荷物を整理している最中だった。


 ジュノは、食堂で四人の食事を見届けググをここに案内した後は、仕事があるからと言ってどこかにある彼の自室へと向かった。


「ググもやろーよー」


 ググにひっついて、キリがググの腕を引っ張る。


「ぼくはできないよ」


「なんで?」


「ぼくはキリたちとは違うんだ」


「ちがくないよ、おなじだよ、だからやろーよー」


「できないんだよ」


 ググが言うと、キリが頬を膨らませてしかめっ面になる。


「ごめんね、遊んであげられなくて」


 ググがキリの頭にぽんぽんと手を置くと、それでキリは許したようで、「いいよ」と言ってググに背中をあずけて寄りかかった。


 そのままキャリーケースから服を出していると、ユングが「そういえば」と口を開く。


「お兄さん。ジュノ先生のことは、信じてくださいね」


「え?」


「半信半疑でしょう? 大学のこと。先生は本気でググさんのことを気にかけていますから、大学のことも、本当になんとかしてくれるつもりです。ググさんが思っているより、先生はずっとずっとすごいひとです。ですから、大学のことも絶対になんとかなります」


「そっか。それならありがたいな……ちょっと申し訳ないけど。それに、きみが言うと、やっぱり説得力があるね」


「はい、僕の言っていることは、本当ですから」ユングは、胸に手を当てる。「お兄さんがあのとき、不安だったのも知っています。でも、もう安心してくださいね」


 ユングが嘘をついているようにも見えないため、一旦は、ユングの言う通りジュノを信じることにした。


「先生は、あまり人と仲良くならないんです。そこまで、他人に奉仕する人ではないですね。ここまで僕たちの面倒を見てくれているのも、結構レアケースだと思います。だから僕、先生がググさんによくしているの、びっくりです。先生はググさんを気に入っています」


「そんな。気をつかってくれているだけじゃないかな。キリのことを保護してたやつだから、っていう理由で」


「それももちろんあります。けど、他に理由もあるみたいです。そこらへんは僕には読み取れませんでしたけど」


 ユングは肩を落とすそぶりを見せて、


「僕は、いろんな人の感情や考えがわかりますが、ジュノ先生のものは曖昧なものだと読み取れないんです。先生が恐らく壁のようなものを作っています」


「壁……?」


「うーんと、説明が難しいですけど、他人から受ける能力を自分の能力で弾いている、ってかんじですかね。あ、もちろん、並大抵の有能力者ではそんなことはできないですし、僕だってできませんよ。というわけで先生がググさんを気に入っているのは本当ですけど、どういう理由かっていうのは、キリさんのこと以外にわかりません」


 ちゃんとお役に立てずにすみません。そう言ってユングは頭を下げたが、ググがそれを止める。


「いや、いや。むしろ、教えてくれてありがとう。安心できたよ」


「それなら、よかったです」


 ユングが目を細めて笑った。


「……にしても、お兄さんのことがうらやましいです。僕も先生とお酒飲んでみたいです。けど、僕は未成年ですから」


「みせいねんってなに?」


 ググの前に座り、ググがキャリーケースから出した服をぐちゃぐちゃにしていたキリが、ググの顔を見上げて聞いた。


「年齢が二十歳になっていない人のことだよ」


 服をたたみ直しながら、ググが答える。


「なってるひとは?」


「成人、って言うね」


「じゃーキリはみせいねんだ!」


「キリさんって、成人じゃないですか?」ユングがキリを見つめて口を開く。「確か先生と十歳くらいの差だったと思いますし。見た目だけならお二人とも未成年でもいけそうですけど」


「どっち?」


「まあ、先生やキリさんには、もはやそういうのって関係ないような気がします……」


 すると、ソファでくつろいでいたユナが、すっと立ち上がり、不機嫌な様子で部屋から出て行く。


 ググがそれを目で追っていると、ユングがじっとググを見つめて、


「ユナのことが気になりますか?」


「嫌われてるかな、と思って……」


「はい、僕、わかります」笑顔のまま、ユングは言う。「ユナはお兄さんのことが嫌いです」


「…………」


「あ、ちがいます、言い方が悪かったですね」目を細めたググを見て、ユングが首を振る。「嫌い、じゃなくて、気に入ってない、みたいです」


「似たようなもんだ」


 ググがたたみ直した服を頭に載せ、キリがググを見た。


「ユナがググきらい?」


「そうみたい。なんとなく理由は想像つくけど……」


「キリはググすきだよ」


「ありがとうね……」


 ふと、キリは誰かを嫌いになることがあるのだろうかとググは思う。


「おはなししてみたら?」


「ん?」


「ユナと」


 頭に載せていた服の袖が垂れ、その服の袖を掴んでキリが笑う。


「……そうだね」キリの言うことは、妙に納得ができた。「一回、ちょっと話してみるよ」


 何話したらいいかあんまりわからないけど。言って、ググは立ち上がり、部屋から出た。


 本来一人用の部屋に四人もいたためか、部屋には熱気がこもっていて、ドアを開けて廊下を出ると少し温度が下がったように感じる。


 薄いライトブルーの壁に、同色の床の廊下の突き当たりに、映える赤髪の横顔を見つけた。ユナだ。


 彼女は携帯端末を手にし、誰かと通話をしているようだった。


「……嫌です。行ったらきっと、今より我慢できなくなるし……」


 数秒の間があった後に、ユナはぽろぽろと涙を流して泣き始める。


 指でその涙を拭いながらも、ユナは通話を続けた。


「……どうして? ……ユナだけのなのに」


 あまり見たり聞かないほうがいいかと思い、一歩後ずさるも、ユナがその足音に気づき、ハッとした様子で振り返る。


 ユナの赤い髪が舞い上がる。ユナは、すぐに通話を終了させた。


「……待って!」


 去ろうとしたググのほうへ、ユナが手を伸ばす。


 すると、ググの足首から足の裏にかけてが床に固定されたかのように動かなくなる。上体は動くものの、足がこれでは踵を返すことができない。


 つかつかとユナがググのほうに歩いてきて、目に涙を滲ませたまま、険しい顔でググに言い放つ。


「……今の、誰にも言わないでください。ユングにも」


「今のって、」


「先生のこと、パパって呼んでることです」


 そこで初めて、ユナの先ほどの通話相手がジュノだったことを知る。


 言おうか言うまいか迷ったが、ググは口を開いた。


「……ユナ」


「……なんですか?」


「今の、言われなかったら、ぼくはそれがジュノさんだって気づかなかったよ」


 ググが正直に言うと、ユナの両頬がカッと赤くなり、髪の色に近づく。


 そこでググの拘束が解け、足に力を入れていたために、思わずググはよろめいた。


「……わたしは、先生のこと、『先生』とも思ってますけど、パパだと思ってるんです」


 小さな声で、腕を組み、目に涙を浮かべたまま眉をひそめてユナはググに言った。


「別に、先生がわたしにパパって呼ばせるようにしてるわけじゃないですからね。わたしが勝手に呼んでて、先生がそれを許してくれてるんです。先生を悪く思わないでください」


「わ、わかった、けど」


「けど、なんですか?」


 ユナがググを睨むので、ググは思わず目を反らしながら、


「……ジュノさんって、若くない? 実年齢が三十歳にしても、父親だと思うには――」


「わからないですか?」ユナがググに顔を近づける。「あの『パパ感』が」


「ど、どうだろ」ユナはいたって真面目なようなので、ググも真面目に会話に参加することにした。「言われてみれば、そうだな、わかる気も――」


「先生の手って、ごつごつしてるんです」


 ユナは、赤いままの自分の頬を両手で包む。


「顔、幼いのに手がごつごつしてるんです。いつもにこにこしてるけど、真顔になったときにすごく年相応に見えるんです。先生、ビールが大好きなんです。お腹気にしてるんです。わたしが悪いことすると叱ってくれますし、いいことをしたら褒めてくれます。わたしにたくさんのことを教えてくれます。まさに『パパ』じゃないですか?」


 この廊下に一人だけでいるような気分になった。が、また足を不自由にされるのも困る。ググは、「うん」と返事をして頷き、ユナが次にまた喋るのを待った。


「なので」彼女は咳払いを一つしてから、「あなたみたいな人に、いきなりパパをとられたくないんです。それで、さっき思わず電話したら……」


 ユナの大きな瞳から、また涙がじわじわと溢れてくる。


「先生は優しいから、『ユナだけのパパだよ』、って……でも、あなたは絶対先生のこと取る気じゃないですか……」


「そんなことない、そんなことない!」頭が取れるんじゃないかと思うくらい、ググは必死に首を振った。「ぼくは、仲良くなりたいなと思ってるだけだよ。を取るつもりは微塵もないよ」


「そうですか……?」


「そう。ぼくはジュノさんともユングとも普通に仲良くしたいと思ってるし、それと同じようにユナとも仲良くしたいと思ってるだけだよ」


 ユナが涙を拭って、腕を組み直す。


「無理です。仲良くできません」ユナがググから顔を背ける。「朝、ググさんにひどいことしたし」


「気にしないよ。もう終わったことだし」


「それに、ググさんが先生のこと取らないってわかってても、嫉妬します。先生がキリさんを大切にするのはわかるけど、なんでググさんのこと――無能だし、ユナのほうが優秀なのに――」


「確かにいろいろとよくわかんないけど」ググが肩を落とす。「ごめん」


「まあ……いいですよ」ユナは前髪をかき上げ、「よくよく考えたら、ググさんは悪くないし」


 二人の間でしばらく沈黙が流れるが、ここで去るのもおかしなタイミングなので、ググはそこで突っ立っている羽目になる。


 ユナはググから目を反らしたまま天井を見て何かを考えていたようで、ふと、何かに気付いてから独り言を言うかのように口を開く。


「……パパ、ユナのこと嫉妬させたくて、わざとやってるのかな」


「…………」


「かわいい、パパ」


「…………」


 ユナがググに向き直る。


「今、わたしのこと変態って思いました?」


「いや別に大丈夫そんなことない」思わず早口になる。


「こういうとき、ユングがいたら……まあいっか」


 ユナは溜息を一つついた。


 それから、携帯端末をまた開き、一つの写真を呼び出す。拡張視界によって、画面から立体の写真が浮かび上がり、ググにもそれが見えるようになった。


 端末をググに近づけ、ユナはググに写真を見せる。


 そこには、今と姿の変わらないジュノと、有能学園芸能芸術学科の制服を着た少年少女がいた。


 少年のほうは髪が現在燃えるような赤ではなく黒色のユングだったが、少女のほうは見たことがない。


 黒髪で、肌は白いが、荒れている。背が高く、少しぽっちゃりとしていて、鼻は低くて瞼は黒目の上半分を覆っていて、とても美しいとは言えないような少女だった。


 何かの記念撮影だろうか。写真の中のユングはピースをしていて歯を見せて笑い、ジュノも微笑んでいる。が、少女の方はと言うと、口角すら上がっていない。


「それ、わたしです」


 ユナの台詞に、ググの目が思わず見開いた。写真とユナを見比べるも、今のユナにこの頃の面影は全くない。


「ずっとずっと、見た目のことばっかり言われて生きてました。誰も仲良くしてくれませんでした。歌をがんばっても、見た目が悪いからお前は歌手になれない、だとか。オーディションも全然受かりませんでした。

 それでも、こんな見た目でも、唯一仲良くしてくれたのがユングで、わたしのことを褒め続けてくれたのが先生です」


 だからわたしには、二人しかいないんです。

 ユナはそう続ける。


「先生はそのままでいていいって言ってくれたけど、周りがそれを許さなかったし……自分のためにも、わたしは顔を変えました。施術してくれたのは、先生です。先生は手術前に泣いてましたけど、全部完成してからは、もっと綺麗になったねって、褒めてくれて……

 みんな急に優しくなったり、わたしの悪口をやめたり、手のひら返しでした。けど、ユングだけは変わりませんでした。ユングは初めからわたしに優しかったから。変わったわたしに、驚きもしませんでした。いつも通り、『ユナおはよう』って」


 ユナが目を伏し、長い睫毛が頬に影を落とした。


 ググが何と言おうか迷っていると、彼女が顔を上げる。


「二人のこと、とらないでくださいね」


「わ、わかった」


 ググの態度に満足したようで、ユナは、肩に垂れていた赤く長い髪を退け、また口を開く。


「仲良くするだけなら、いいですよ。わたしと友達になりたいのなら、頑張ってなってあげます。ユングしか友達がいないから、枠がいっぱいありますし」


「……わかった。じゃあ」


「なんですか?」


「甘いのでも、食べに行く?」


 ググが言うと、ユナがちらりとこちらを見る。


「さっき食堂で甘いもののメニューもいっぱいあるの見たけど、ひとりだけ頼むの恥ずかしかったから、食べたいのに食べられなくて」


「……甘いの好きなんですね」


「うん。ユナは?」


「大好きです」堪えきれなくなったようにユナはにやけて、「ユングは甘いの苦手だし、まず先生は食べないから。ちょうど一緒にそういうの食べる人が欲しいって思ってたんですよ」


「じゃ、行こうか」


 ユナの目が輝き、年相応の笑顔を見せる。


 ググが先に歩き出すと、ユナはググの腕を掴んでついていった。

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