第28話 二人だけの戦場

 シャラーレフを抱えたキルスは敵をうまく避けながら洞窟へと進んだ。

 そして辿り着いた洞窟は、幸運なことに誰もいなかった。


 入口から射しこむ白っぽい外の光に照らされた洞窟は薄暗かったが、地熱の効果なのか外よりは寒くはなかった。灰色のごつごつした岩に覆われているものの広さはそれなりにあり、身を隠すには丁度よさそうである。


 キルスはシャラーレフを一番平らな場所に下ろすと、頭と地面の間に枕の代わりに自分の鞄を挟んで寝かせた。生暖かい血の匂いが、洞窟に広がっていく。


「あっ……う……」

 暗い影になった洞窟の上部を瞳に映し、シャラーレフは喘いだ。

 傷口は焼けるように熱いのに、手足はひどく冷たい。


 肩の傷はまだ血を流しており、キルスの巻いた布はすでに意味を成していなかった。脈打つように噴き出た血は、灰色のざらつた岩肌に血だまりをつくっている。


 血を吸って重くぐしゃぐしゃになったブラウスには、もはや白い部分はほとんど残っていなかった。ねっとりと赤く張りついた布の下で、白く薄い胸が血にまみれて弱弱しく上下している。


 キルスは血でべたついた手で、呼吸がしやすいようにシャラーレフの気道を確保した。

 シャラーレフの青ざめた額から、冷汗がぽたりと零れ落ちる。キルスは清潔な布で、そっとその汗をぬぐった。


「……ありがとうございます」


 シャラーレフはキルスを目だけで見上げて、つぶやいた。だが、焦点がだんだんあわなくなってきているのか、その顔はぼやけて良く見えなかった。


「あんたを死なせないのも、バルディア将軍に頼まれた仕事のうちだ」


 キルスの答えには焦った響きがあったが、冷静であろうとする努力のあとが感じ取れた。

 シャラーレフはキルスの声を聞いていたかったので、途切れ途切れに話しかけ続けた。


「……そういえばどうして、あなたが来て……、くれたんですか?」

「帰り始めたとき、山のふもとでたまたまこの村の連中が軍事訓練みたいなことをしているところに出くわしたんだ」


 キルスは地面に座り、新しい止血用の布をポーチから出しながら言った。


「隠れて様子を見てみたら、会話の内容からどうもあんたから武器を奪って隣の村を襲う予定らしいってことがわかった。俺はどっちでも良かったんだが、ルトがこの情報をバルディア将軍に売れば金になるっていうから会いに行った」


「よく間に合いましたね。バルディア将軍のいる、ジャヴァーンは遠いのに……」


「たまたま視察か何かの用事で近くに将軍がいたんだ。だからこうしてすぐにこの村に来ることができた」


 話すことも手当のうちだと思っているのか、キルスはいつもよりもより真面目に受け答えていた。


「動かすぞ」


 キルスはシャラーレフの体を持ち上げて、自分に引き寄せた。

 ぽたぽたと、ブラウスから血がしたたり落ちる。腰まで伸びた長い金髪も、血まみれになって汚れていた。


 糸が切れたようにぐったりしたシャラーレフは、なすがままに動かされた。重力に抗えず重い体が、キルスの胸に抱きとめられる。いまだあふれ出る鮮血が、じわじわとキルスの黒いシャツにも染み込んだ。


「う……っ……」

 キルスに動かされたことで生じた痛みに、シャラーレフは小さく啼いた。


「あんたは本当に馬鹿だな」

 キルスはシャラーレフの肩に新しい止血用の布を巻きながら、もう一度言った。

「……そうですね」

 こうして死にかけているとなると、反論したくてもできなかった。


「だから言っただろ。武器を手にしたところでその結果はろくでもないと」

 キルスは同情と厳しさの入り混じった声で、シャラーレフをたしなめた。


 そして、傷のある肩と反対側の腕にも布を通し、血に染まりきった一度目の止血の布の上からしっかりと巻いた。


「う……くっ……」

 傷口を強く締め上げられ、シャラーレフは歯を食いしばってうめいた。

 スカートからのぞく足がびくんと震えて、青白い顔が苦悶に歪む。


 キルスは深く傷を負って苦しむシャラーレフをやるせない表情で見つめた。


「あの男だけがこういう結果を招くわけじゃない。他の仲間との行く末もきっと似たようなものだ。武器は弱者のためなんかには使われないし、増えるのは死体だけで、世界も変わらない。敵も味方もいつかあんたを殺す」


 一見ひどい言葉であったが、そこには切実にシャラーレフを想う気持ちが濃く滲んでいた。

 キルスは仕上げにきつく布を結び、腕の中のシャラーレフの顔を見つめた。


「それでもあんたはまだ、正義の戦いなんて幻想信じるのか」


 キルスの黒い瞳は、シャラーレフの身を案じるように翳っていた。

 シャラーレフはゆっくりと、キルスを見上げた。金色の前髪が流れ、目にかかる。


「……どうしても、あなたは人を疑うんですね。それが正しいのかもしれない、とは思います。でも私は信じたいんです。醜い戦い以外の結果があると」


 キルスを安心させたくて、シャラーレフは小さく微笑んだ。

 だがその弱弱しい笑顔は余計にキルスを心配させた。


「どうしてあんたは、そう無理なことばかり信じるんだ」


 キルスは語気を強めると、シャラーレフの冷たくなった体に再び自分のジャケットを被せた。

 その優しい温もりに、シャラーレフは少し体が楽になった気がした。重くなった頭の中が揺らいで、ついよくわからないことを言ってしまう。


「信じるのに、そんなに理由が要りますか? 何度裏切られても、私はあきらめません。結局、誰かが信じなければ、誰も信じないんです。たとえ、この世界で、誰もが人を信じなくなったとしても、私は信じます。あなたの分まで……」


 同志だったはずの人間に殺されかけたシャラーレフには、以前のような無条件の仲間への信頼はない。だがそれでも、同じように正しさを求めている人は必ずいるはずだという気持ちは消えなかった。

 その人はシャラーレフとは立場や境遇が違うかもしれないし、そうではないかもしれない。だがどちらにしろシャラーレフが信じなければ、相手もシャラーレフを信じないのである。だからシャラーレフは、人を信じ続けることにした。


「……人が忠告してやったのに、物分りが悪い女だ」

 あきれた様子でキルスは顔をしかめた。だが暗い洞窟の薄暗さの下で、その瞳は真摯にシャラーレフに向けられていた。

「その物分りが悪い女の私を信じて助けてくれて、ありがとうございました」

 キルスは嫌そうな顔をするだろうなと思いつつも、シャラーレフは構わずお礼を言った。


「俺はお前を信じてなんかいない」


 想像した通り怒ったような顔をして、キルスは声を震わせて否定した。

 シャラーレフは静かに、キルスの黒い巻き毛の前髪の下の瞳を見つめた。


「……いいえ、あなたは私を信じたんです。あなたは人を信じないけど、本当は誰よりも信じたがっているから」


 自分にも世界にも絶望したキルスが、シャラーレフのために来てくれた。それがシャラーレフには、どうしようもなくうれしかった。

 キルスは、シャラーレフが自分の意思に背くくらいなら死を選ぶ人間だと確信していたからこそ、助けに来てくれたのである。


 シャラーレフのことを本当に意味で信じてくれる人間なんていないと言い続けてきたキルスこそが、シャラーレフを信じてくれている人間だったのだと、その時やっと気がついた。

 キルスは心の奥底では、シャラーレフが目指す世界が実現することを期待している。ただ深く傷つきすぎて、そういう感情を押し殺してしまっていた。激しい否定の裏にある切望は、シャラーレフが愚直なまでに想いを伝え続けた結果引き出された。


 少なくともシャラーレフには、そう思えた。


 キルスのぶっきらぼうな信頼に、シャラーレフは強く勇気づけられた。

 信じてくれたことを裏切らない人間でありたかった。


「お前は本当に、大馬鹿だな」


 横を向いて表情を隠しながら、キルスはシャラーレフに馬鹿と言った。それは本日三回目の言葉で、しかも今回はただの馬鹿ではなく大馬鹿だった。

 シャラーレフは、キルスにそう言われるのは初めてではないことを思い出した。同時に、二人の間にある賭けの始まりの記憶も蘇る。


「……最初に会ったときも、私を大馬鹿って言いましたよね」


 シャラーレフはほとんど吐息に近くなってきた声でささやいた。満足に息をする力もなくなったようで、いくら吸っても肺が空っぽのままのような気がした。浅い呼吸の中で、シャラーレフは喘いだ。

 シャラーレフのかすかな声を聞くために、キルスは顔をずっと近くに近づけた。かすれてぼやけたシャラーレフの目にも何とか、その浅黒い顔に浮かんだ厳しさの中に憐憫を感じさせる表情が見えた。


「賭けは延長戦ですね。私が死ぬまで志を貫くことができたら……、謝ってくれますか? ……あ、でも私が死んだら、謝罪が聞けませんね……」


 よくよく考えれば今現在すでに、自分が死に向かっているということにシャラーレフは気づいた。だが、言ってしまったものは仕方がなかった。

 シャラーレフ自身はもうどうでもいいような気持ちだったが、キルスの方はそうではなかったらしい。


 瞳に涙を滲ませて、キルスはシャラーレフを抱きしめた。二人の背はあまり変わらなかったが、シャラーレフの華奢な体はキルスの腕の中にあっさりおさまった。

 キルスの黒いジャケットの下で、血に濡れたブラウスがシャラーレフの肌に押し付けられる。本来なら肩に痛みが走るはずだが、もう神経が麻痺しているのかキルスの腕の温もりしか感じなかった。


 混濁した意識の中で、シャラーレフは目を閉じキルスの腕に全てを預けた。

 その力強さは、シャラーレフをめいっぱい切ない気持ちにした。目の奥にも熱いものが込み上がって、息苦しさとは違う理由で胸が詰まる。


「死ぬとか言うな。俺はお前に、死んでほしいわけじゃない」

 キルスの声はかなりうわずっていて、今にも泣き出しそうに震えていた。

(私みたいな女が死のうが何されようがどうも思わないけど、死んでほしいわけじゃないんですね……)

 数日前に言われた暴言を思い出して、シャラーレフは小さく笑った。


 他人の、しかも憎むべき生業である自分のためにここまで心を砕いてくれるキルスに、シャラーレフは何とかして報いたいと思った。シャラーレフのことを想って泣いてくれるなら、その涙はシャラーレフ自身で止めたかった。


「キルス、あなたは優しい人ですね」

 シャラーレフは目の前にあったキルスの耳にささやいた。

「違う、俺は……」

 我に返ったキルスが、シャラーレフから顔を離す。


 キルスの瞳からは一筋の涙が流れていた。


 シャラーレフはその瞬間を狙って、最後の力を振り絞ってキルスのくちびるに自分のくちびるを重ねた。


 その口づけは血の味がした。

 軽く触れあうだけのものだったが、一瞬息を止めただけでただでさえ苦しい息がさらに苦しくなった。だが、達成感はあった。


 言い訳を言おうとしていた口をふさがれ、キルスは目を白黒させた。だが、すぐに状況を理解し振り払ったので、それは長くは続かなかった。

 青ざめて乾いたシャラーレフのくちびるにわずかな湿り気を残し、キルスのくちびるは急いで離れた。


「何するんだ、馬鹿か!」

 相手が怪我人だということを忘れかけた勢いで、声を荒げるキルス。

 その表情は、戸惑い、慌てていた。


 シャラーレフは咳きこみ、空気を深く吸った。そしてくすりと笑って、かすれた声で謝った。


「すみません。つい」

「ついって何だよ。つまらない冗談はやめてくれ。こういうことはもっと大切な奴とするものだろ」


 キルスは顔を真っ赤にして、シャラーレフを叱った。

 どうやら本気で説教したいらしい。


 だが、シャラーレフにとってはその反応がうれしくてたまらなかった。とどめにもう一言、シャラーレフは言った。


「私にとってキルスは、十分大切な人です」


 それは茶化したわけでもなんでもなく、本当のシャラーレフの気持ちだった。


 キルスの瞳が、また泣き出しそうに潤んで揺れる。

 シャラーレフの血に汚れた冷たい頬を、キルスはそっと暖かな手で包んだ。そして、必死で耐えた表情でシャラーレフに毒づいた。


「……あんたは賭けが成立しないくらいの大馬鹿だよ、武器商人」


 強がってはいるものの、真心を隠しきれずに声は震えた。


 その言葉に、シャラーレフはとても救われたような気がした。自然と笑みがこぼれる。できればもうしばらくはこうしてキルスの温もりを感じていたいと思った。


 だが、終わりの時は近づいていた。


 キルスの腕は暖かいのに、シャラーレフの体はどんどん冷たくなっていた。

 息を吸ってもひゅうひゅうと音がするばかりで、肺は酸素を求めて押し潰れる。心臓も小刻みに痙攣するようにしか脈打たず、鼓動が弱くなっているのが自分でもわかった。


「――はっ、あっ……、ぁ……」

 シャラーレフは喘ぎ、必死で空気を吸おうとした。

 窒息していくような感覚の中で、シャラーレフの体が反射的に震える。


「死ぬな、シャラーレフ」

 苦しむシャラーレフをキルスはきつく抱き寄せ、手と手を絡めて握りしめた。

 堅くて乾いた、キルスの手。その力強い温もりがシャラーレフの細く白い手を包む。だがシャラーレフは、その手を握り返すこともできない。


 暗さが増していく視界の中で、キルスがシャラーレフの顔をのぞきこむのが見えた。その黒い瞳は真っ直ぐにシャラーレフを見つめていた。

 シャラーレフもその目に応えていたいのに、どうしてもまぶたが重くなる。


(申し訳ありません。キルス……)


 シャラーレフはもう声に出して伝えられない謝罪の言葉を心の中でつぶやき、目を閉じた。キルスがシャラーレフの死に責任を感じないように努力したつもりだが、

あまり上手にできた気はしない。


 真っ暗な世界が目の前を覆い、キルスの体の暖かさがどんどん遠ざかる。キルスが必死で呼びかけてくれる声も、いつしか聞こえなくなった。

 幼いころに失った友を探した雪の日とは真逆の、音のない漆黒がシャラーレフを包んでいく。


(でも私は、後悔はしたくないんです……)


 そしてシャラーレフは、深い闇の底へと落ちた。

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