第26話 屋敷の地下室
意識を取り戻したときには、シャラーレフは重苦しいだるさの中にいた。
一瞬自分が置かれた状況を思い出せず困惑する。
だが、すぐにぼんやりと思い出した。
(そうでした。私はラースト村の人々に裏切られたのでした)
シャラーレフは椅子に座らされていた。
撃たれた左肩は熱を帯び、蹴られた腹部も息を吸うたび痛みが走る。長時間椅子に上にいたのだろうか、体の節々が痛かった。
顔を上げてみると、周りにはぼうっとした四角い暗闇が広がっていた。
どうやらどこかの部屋に閉じ込められているらしい。窓が見当たらず、暖房がなさそうなわりにそれほど寒くないことから地下室のような場所だと思われた。外の様子がまったくわからず、ダリュシュに撃たれて気を失ってから、どれくらいの時間がたっているのかも不明である。
少しでも楽な姿勢を探して体を動かそうすると、手足が満足に動かせないことに気がついた。手首と手足に触れる鉄枷の感覚に、シャラーレフは自分が拘束されていることを知った。
腕は背もたれの後ろに回されて固定され、靴を脱がされた足は床に届かない状態で椅子の下部に留められている。石か何かで出来ているらしい椅子は冷たく、まったく動きそうになかった。ほぼ頭しか動かせず、何をされても逃れられない状況である。
(やっぱり、自由と解放のための戦争なんて、世迷い事だったんでしょうか)
故郷に戻って早々に裏切られ、シャラーレフは自信を失っていた。
「ぅ……っ……」
銃で撃たれた傷の痛みと騙された悔しさでシャラーレフがうめくと、背後で扉が開く音がして誰かが近づいてきた。
「起きたな。シャラーレフ・ラフシャーン」
暗闇から浮かび上がるように、ダリュシュがシャラーレフの前に現れる。
眼鏡を外した灰色の瞳は、冷たく鋭い光を放っていた。
その顔を見た瞬間、シャラーレフの心に怒りが再びわき上がった。
「よくも、裏切ってくれましたね」
シャラーレフは気力をかき集めて、精一杯毅然とした態度をとった。顔を上げ、ダリュシュを強くにらみつける。
反乱軍の協力者のふりをしてシャラーレフから武器を騙し取り、自分の村のためだけに使おうとしていたダリュシュ。祖国のために武器を求めたシャラーレフにとって、彼は絶対に許せない人間であった。
ダリュシュは静かに近づき、手を伸ばしシャラーレフの火照った頬に触れた。
その乾いた指の冷たさに、シャラーレフは身を強張らせた。
影の中でシャラーレフを見据え、ダリュシュはささやく。
「私は目的のためなら手段を選ばない。お前のように自分を正当化してごまかす趣味はないからな」
「だから私を騙して武器を手に入れて、隣の村の人を殺して水を得るんですか?」
「この村の人間が飢えて死ななくてすむのなら、他人の死など犠牲のうちには入らない」
答えはすぐに返ってきた。ダリュシュの言葉に迷いはなかった。
その強い意志になるべく怯まないように、シャラーレフは声を上げた。
「そんなの、間違っています。同じ国に住む仲間を他人だなんて」
シャラーレフの批判に苛立ったのか、ダリュシュが真っ白な仮面のような顔を歪めた。シャラーレフの頬に触れていた手は首へと移動し、力が込められる。
「お前は恵まれて育った王族の娘だからそう言えるんだ。ゲルメズがこの国を支配するずっと前から、ここは貧しかった。人がまともに生きられないほどに」
ダリュシュは容赦なくその手でシャラーレフの首を絞めつけた。
気道を強く抑えられたシャラーレフは、息苦しさにむせた。
(私にとってゲルメズの人間が許せないように、この人にとっては自分たち以外の全てが許せない存在なのですね。この人には貧しい生活を送らずに育った私もまた敵なのでしょう。でも……この人のしようとしていることは……)
シャラーレフはダリュシュの考えていることが少しはわかった。
だが、それを認めることはできなかった。シャラーレフの目的も胸を張れるものではないが、ダリュシュは何かがもっと捻じ曲がっていると、そう思えた。
何か言い返したいが、首を絞められていては声が出ない。
喘ぐシャラーレフに、ダリュシュはより激しい調子で続けた。
「セフィードの政府もゲルメズ人も、私たちにとってはたいした違いはない。反乱軍もきっと同じだ。誰が上に立とうが、ここの人間は幸せにはならない。だからせめて私たちは、底辺の中では上に立って飢えずに生きたい」
返答を求めたのか、ダリュシュは言い終えると突き放すように手を放した。酷薄な無表情さで、白髪まじりの黒髪越しにシャラーレフを見下ろす。
気管を解放され、シャラーレフは咳きこんだ。
「……っ自分たちが弱くて、虐げられていて、苦しいからって、力を手に入れて今度は虐げる側に回るんですか……? そんなの、何も解決しないじゃないですか」
シャラーレフはかすれた声で、途切れ途切れの反論を試みた。
その言葉はよりダリュシュを灰色の瞳を鋭く光らせた。
ダリュシュはシャラーレフの髪を掴み、むりやり顔を上げさせた。ほどけて乱れた金色の髪が、ダリュシュの細い指からさらさらとこぼれた。
「では、お前たちのしようとしていることで何かが解決するのか? どうせお前たちがゲルメズに戦争をしかけたところで、皆が傷ついて死んで終わりだ。少なくとも私たちは生き残るぶん、私たちの戦いの方がましなんじゃないのか」
ずいぶん乱暴な理屈である。だが、結果だけ見れば間違ってはいないかもしれない部分もある。シャラーレフは半ば説得をあきらめていた。だが、相手の考えを変えるのが無理だからと、黙り込むことはできなかった。
力づくで頭をつかまれながらも、シャラーレフは真っ直ぐに目をそらさずダリュシュを見つめた。
「そんな方法で生き残って、本当に幸せなんですか? あなたたちは」
決して大きな声ではなかったが、その言葉は静かに響き渡った。
ダリュシュはそれを挑発ととらえ、シャラーレフの顔をむりやり自分に近づけた。
「本当の幸せなんて、嘘の幸せすら知らない私たちには意味のない言葉だ。お前の言うことは全部綺麗事ばかり。私はお前のような人間が一番嫌いだ」
「それなら、どうして私を殺さないんですか?」
シャラーレフは強い調子で問いただした。
ここまで迷いがないのに、シャラーレフを生かしておく意味がわからなかった。
ダリュシュは薄く笑うと、今度はシャラーレフの背後に回った。相手の姿が見えなくなったことで、シャラーレフの不安は増した。
シャラーレフの耳に息を吹きかけるように、ダリュシュはそっと後ろからささやいた。
「お前は先王の孫。もしも私たちに協力してくれるのなら、利用価値がないわけでもない」
そしてダリュシュはシャラーレフの撃たれた左肩を掴んだ。シャラーレフは、血がこびりついて肌に張りついたブラウス越しに、ダリュシュの手の冷たさを感じた。
傷口をこじ開けるように、ダリュシュはぐっと手に力を入れた。
「――うぁっ……!」
シャラーレフはその鋭い痛みに思わず声を上げた。
撃たれた時よりもずっと耐え難い感覚だった。かろうじて止まっていた血が再び流れ出し、シャラーレフの肌をつたう。
「銃で脅されても屈しなかった誇り高いシャラーレフ姫。拘束され自由を奪われた今も考えは変わらないか?」
「……っ、変わりません、ね」
シャラーレフは必死で言葉を発した。
気を抜けば、悲鳴を上げてしまいそうだった。
「では、こうしても?」
ダリュシュは冷たく言い放った。
シャラーレフの視界の端で、鋭い銀の刃がきらめく。
そして次の瞬間には、ダリュシュはシャラーレフの傷口にナイフを突き立てていた。
「――ぁああぁぁあぁっ!」
シャラーレフは、突然の激痛にこらえきれず絶叫した。
その叫び声は、薄暗い地下室いっぱいに響き渡った。
肉を掻き分け貫くナイフの感覚に、シャラーレフは目を見開いた。
びくんと弓なりに跳ね上がった身体は、鉄枷の拘束の中で軋んだ。
わずかな抵抗も許されないシャラーレフは、どんなに拒否しようとしてもその残酷な一撃を受け入れるしかなかった。
痛みに絶える術を知らない無防備な身体に、容赦なく鋭い切っ先が沈められていく。銃で撃たれた傷の苦痛を上塗りしていく、さらなる激痛。熱を発し感覚が鋭敏になってていた肩の傷は、刃によってより深く切り刻まれた。
「これでもまだ綺麗事を言うか? お姫様」
憎しみのこもったダリュシュの声が頭の上に降る。
(この人はきっと、別に私を仲間にしたいわけでもないんでしょうね)
息も絶え絶えに、シャラーレフは思った。
ダリュシュの行為からは、論理を超えた憎しみが感じられた。
(ただ行き場のない恨みを、王族の私相手に晴らしたいだけのような気がします。彼は正気のまま、狂っているのでしょう)
少しだけダリュシュに同情する。
だがダリュシュはそんなことは気にせず、シャラーレフの肩に突きたてたナイフを躊躇することなくそのまま捻じった。
「あ、ぐぅっ……!」
シャラーレフは歯を食いしばり、痛みに耐えようとした。
しかし、その苦痛はシャラーレフの想像を遥かに超えていくものだった。
ぐちゃぐちゃと音をたてて肉をかき混ぜ、シャラーレフの身体を不可逆的に壊すダリュシュのナイフ。神経や筋肉を断たれていく熱さに、脳が焼きついた。
切り刻まれていく傷口から血が勢いよく流れ出し、シャラーレフの白いブラウスを残すところなく真っ赤に染め上げる。大量の血が急激に失われたことで、その華奢な身体はがくがくと震えた。
死を感じさせる激しい痛みに、シャラーレフの目には涙が浮かんだ。心臓は狂ったように収縮し、壊れてしまいそうなほど激しく胸の奥で暴れていた。だが、シャラーレフは負けられなかった。
「……死んでも、私は、あなたたちを認めませんっ――」
シャラーレフは青ざめたくちびるを、精一杯動かした。
呼吸が乱れて、息が上手く吸えなかった。
「これ以上に辛いことは死ぬことだけだとでも思っているのか。世間知らずのお姫様は」
乱暴に、ダリュシュはシャラーレフの肩からナイフを引きぬいた。
「……っ――……」
さらに傷を広げながら、刃が身体から離れていった。
熟れた果実のように真っ赤な傷口が空気にさらされ、温度差に慄く。血が絶え間なくあふれ出し、紺色のスカートを濡らして流れ床に血だまりをつくった。床に届いていない足先は、びくびくと痙攣して宙を泳ぐ。
「か、はっ……」
もはやシャラーレフは、消耗しきって声も満足に上げられなくなっていた。
限界を迎えた手足は弛緩し力が入らず、強張らせて痛みをまぎらわすことすらできずにただ震える。
折り重なっていく苦痛に喘ぎ、シャラーレフは薄暗い天井を仰いだ。視界が赤く染まり、シャラーレフの意識は混濁した。
血と一緒に流れていく思考を懸命に手繰り寄せ、シャラーレフはたどたどしく言葉を紡いだ。
「し……、知らないことで、あなたに屈せずに済むのなら――、私はそれを、強さだと思います……」
消え入りそうな声で何とか言い終えると、シャラーレフは力尽きて目を閉じた。
身体は硬い石の椅子に縫い付けられたように動かず、もうどんな小さな抵抗さえできそうになかった。
「そうか。ならばその強さとやらを抱えて死ね」
まぶたの裏の暗闇の中で、ダリュシュの声がしんと響く。
ダリュシュは麻の袋のようなものをシャラーレフの頭に被せた。
さすがに顔が見えていると殺しにくいのであろう。これでまったく、シャラーレフは周りの様子が見えなくなった。
そして銃の弾倉が回る音がして、シャラーレフの後頭部に麻越しに銃が突きつけられた。
(私はここで死ぬんですね。目的を果たせずに)
冷たい銃口の感触に、シャラーレフははっきりと死を覚悟した。
どうにも自分が犬死のような気がして、寂しくなる。
どうせ死ぬなら最期くらいは良いことを思っていたいので、シャラーレフは自分の死に方にいいところがないか考えた。
(そうですね、私は多分、自分の意思は曲げずにすみましたよね)
シャラーレフは何とかして、自分の頑固さを誇りに思った。
意思を曲げなかったからこそ死ぬのであるが、ふっきれば少しは気持ちが楽になる。
犠牲となった人々に認めてもらえる人生だったかどうかはわからないし、ナハールに胸を張って報告できる結末ではない。
だが少なくとも死んでしまえば、もう誰もシャラーレフにこれ以上の苦痛を与えることはできないし、気持ちを変えることはできないのである。
その時、ふと脳裏にキルスの顔が浮かんだ。どちらが相手の言い分を認めるかで賭けをした、戦争や武器や暴力を憎んだ青年。
キルスの言っていた通り、シャラーレフと同じ理想を信じてくれる人間はいないのかもしれなかった。だからこそ、今こうして自分は殺されようとしているのだと、シャラーレフは思った。
キルスはきっと、今のシャラーレフを見たら「だから言っただろう。あんたは馬鹿だ」と言ってたしなめてくれるだろう。
死ぬ間際に思い出した存在が彼であることに、シャラーレフは少なからず動揺した。だがすべてを明かしたキルスが相手ならそれもいいかもしれないと思い、心の中で別れを告げる。
(あなたの忠告を聞けなくて、すみません。でも私は……)
シャラーレフは苦痛の中で死を受け入れ、最期の時に備えた。
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