第20話 月夜と彼女の記憶
「ごちそうさま!」
めずらしく夕食のスープを平らげて、上機嫌でルトが立ち上がる。いつにもまして能天気な様子だ。
「ルトガ完食トハ、明日ハ雨、イヤ雪カ」
森の木々の隙間から見える空を軽く見上げながら、サームが言った。
月が見え隠れする、雲の多い夜だった。暗い夜空の中でも、灰色の雲ははっきりとした輪郭を持っていた。
「ジャガイモは僕の好物だからね。僕はイモと菓子で生きていると言っても過言ではないよ」
ルトが誇らしげに胸を張った。
「まぁ、おいしいですからね。ジャガイモ」
この菓子ばかりを食べる偏食の激しい中年を生かすイモは偉大だと思いつつ、シャラーレフはサームの作ったジャガイモのスープをおかわりした。
一口大に切られたジャガイモとミートボールが入った、澄んだ色のスープだ。
歯ごたえが残る程度に火が通ったジャガイモに、固めにこねられたミートボール。しっかりと存在感のある具材のもたらす満腹感に、シャラーレフは満足げにため息をもらした。
二杯目三杯目で食べ終えるとシャラーレフは焚き木の前で座り込み、食後の眠気にうとうとした。ぼんやりとした頭で編み物をしながら、ルトからサームへの一方的な会話に耳を傾ける。
「ね、この仕事が終わったら、サームは報酬で何買う?」
「……ツナ缶」
「僕は新しいブーツ欲しいんだよね。踏み抜き防止用の金属板入っててもちゃんとお洒落なヤツ。何色がいいか迷ってて」
「……黒ガ、イイト思ウ」
「で、それが出発前カークトゥースで茶色の超格好良いブーツ見つけちゃってさぁ。売り切れが心配なんだよね」
言葉の少ないサームと対照的に、ルトはずっと喋りつづけた。
(こんだけ自分の好きなように話すなら、サームに意見聞くのはいらないんじゃないですか?)
サームの返事が見事に反映されない会話の流れに、シャラーレフはときどき突っ込みを入れたくなってしまった。
そうこうしているうちに一時間半が過ぎた。
もうそろそろ本当に寝ようかなとシャラーレフが思ったそのとき、夜の見張りのために夕食時も馬車で寝ていたキルスが現れた。
「もうそろそろ見張りを始める時間か?」
目をこすりながら、キルスはサームの隣に座った。サームが温め直したスープを、キルスに渡す。
ルトは立ち上がると、大きくあくびをして言った。
「うん。僕らはもうそろそろ寝るから、おやすみ」
「わかった」
キルスはスープを食べながら、本を開いた。
ルトとサームは、焚き木から少し離れた場所に寝袋を敷いた。
「じゃあ私も、おやすみなさい」
シャラーレフは荷台へ行きトランクから鏡と櫛を取り出すと、髪をほどいた。
(そういえば、今日はキルスが見張りでしたね)
ふと髪を梳く手を止めて、シャラーレフは考えた。
国境までは、あと数日である。キルスが見張りの夜はもう来ないかもしれない。
(では、キルスと二人っきりになるなら今夜ということですか)
シャラーレフは旅が終わるまでに一度、キルスとちゃんと話したいと思っていた。自分の考えをわかってもらいたかったし、どちらが考えを曲げるかの賭けの清算もしたかった。
しばらく悩んだ後、シャラーレフは見張り中のキルスに話しかけることを決めた。
シャラーレフは寝袋に入って横になりながら、他の二人が寝静まるのを待った。寝ないように注意し、どんな話をしようか頭の中で考えた。
寝返りをうち、キルスの少し遠くの後ろ姿を見る。焚き木の影になる背中は、あまり大きくはない。
三十分もしないうちに待ちきれなくなって、シャラーレフは寝袋を抜け出した。コートを着て、キルスに近づく。
「キルス」
シャラーレフは静かにその名前を呼んで、キルスの後ろに腰を下ろした。冷え込んだ夜だが、緊張しているせいか寒さは気にならない。
そして、キルスが怪訝そうな顔で振り向く。
「……深夜に何だよ」
「あの、私の話を聞いてほしいんです」
シャラーレフはまずは下手にお願いした。
「あんたの話を?」
ますますキルスの表情が嫌そうなものになった。眉をひそめて、疑うような視線でシャラーレフを見る。
「はい。私の国の話です」
シャラーレフはむりやり押し切ろうと、キルスの隣ににじり寄った。身を乗り出して、緑色の目で真っ直ぐにキルスに向かう。
うっとうしげにシャラーレフから顔をそらし、キルスが深いため息をついた。焚き木の方に座ったまま、仕方がなさそうに本を閉じる。
「あんたの身の上話なんか別に聞きたくないが、朝までは暇だ。仕方がないから、付き合ってやる」
嫌々といった様子だったが、それでも拒否はしないあたり良い人なのだな、とシャラーレフは思った。
「ありがとうございます」
シャラーレフは深々と頭を下げると、丁寧にお礼を言った。きちんとキルスの方を向いて座り直し、焚き木の火に照らされたその彫り深い横顔を見つめた。
言いたいことがたくさんありすぎて言葉に迷う。キルスに自分のことを知ってもらいたい、考えを伝えたい。そういう気持ちを、シャラーレフは強く持っていた。
逸る心を静めるように、シャラーレフは深く深呼吸をした。キルスの真摯さに対して精一杯の真心を込めて、祖国について語り出す。
「……私の国セフィードは、弱い国です。資源はあるのですがそれを生かす力もないほど貧しかったので、隣国ゲルメズに侵略され負けました。この国アーザルの内戦よりもずっと一方的で短い戦いだったので、戦争で死んだ人は少なかったのではないかと思います。私の幼いのころのことなので、詳しいことはわかりませんが」
いつもより柔らかいシャラーレフの声は、風の止んだ音一つ立たない森の中で静かに響いた。
編まずにおろした金色の髪が、小さく揺れる。
キルスは何も言わず、何か言いたそうなそぶりも見せずに黙って聞いていてくれた。シャラーレフは安心して話を続けた。
「私はその国の、北の果てにある中くらいの郡に生まれました。父は地下資源のある土地の領主で、ゲルメズとの取引で少しは稼いでいました」
「だからその子である私もそこまで苦労をせずに育ちました。セフィード自体が弱小国ですから言うほど豊かではありませんが、少なくとも食べるものに困ったことはありません。一番上の姉は政府の高官と結婚しましたし、二番目の姉も似たような未来が待っているのだと思います。都の学校で学ぶ弟も、立派に父の後を継ぐことでしょう」
母が王族の出であることは、まだ伏せた。キルスを信頼していないわけではないが、何となく言いたくなかった。
シャラーレフは話しながら、今はもうほぼ縁を切った実家のことを思い出した。それなりに仲の良い一家ではあったが、懐かしいだけで特に戻りたくはなかった。
シャラーレフは家族の中でどこか浮いた存在だった。離れていた方が、心が落ち着いた。
両親や姉弟は自分を少しは心配してくれているだろうが、やがていつかは忘れてもらえると思った。彼らはそういう人たちであると、シャラーレフは知っていた。
シャラーレフはそっと声を落とした。
「でも私の屋敷の外の世界に住む人々は、そう良い暮らしではありませんでした。収穫のほとんどを租税としてゲルメズに納めなくてはならない農民の生活は苦しく、飢えてたくさんの人が死んでいました。ゲルメズから派遣された役人に騙され、土地を奪われた農民もいます」
寒すぎて腐らない死体が積み上がった道端。凍った死体は燃やすのが結構難しいらしいことを、シャラーレフはその光景を見たときに知った。
ゲルメズに支配されたセフィードは、生きている人間も、死んでる人間と同じように暗い目で生気がなかった。痩せ細った貧しい人々が住む場所を馬車で通るとき、母はいつもカーテンを閉め切ってシャラーレフに外の様子を見せなかった。
だけど隠されても、自分の国がゆっくりと殺されていることをシャラーレフは感じていた。
キルスの表情は、いつしかやるせなさをこらえたように変わっていた。痛ましげに伏せられた目の、まつげが震える。
迷いを隠すように、キルスは首に巻いたスカーフを上に上げた。
シャラーレフの祖国セフィードの現状にきちんと思いを馳せてくれているキルスの真面目さが、シャラーレフの胸に染みわたる。シャラーレフは自分がキルスのその誠実さに甘える卑怯な人間であるような気がして、後ろめたくなった。
それでも、キルスには自分がなぜ故郷に武器を密輸するのかを知ってほしかった。
シャラーレフはためらいながらも、たくさんある故郷の記憶から、一番大切でつらいものを差し出した。
「……私の屋敷にはナハールという女の子が小間使いとして仕えていました」
その名を口にしたとき、シャラーレフの心が震えた。キルスが眠れない理由に触れられることを嫌がったように、シャラーレフも彼女の話をあまりしたくはなかった。
だがしかし、シャラーレフはキルスに一番深いところにある気持ちを明かすことにした。それはシャラーレフからキルスへの、ある種の誠意や落し前のようなものであった。
「ナハールは家族想いの子で、家の本業である農作だけでは弟妹を養えないので私の家に働きにきていました。身分に上下がありましたが齢が近く趣味も合ったので、彼女は私の仲の良い友達になりました。ナハールの仕事の合間をぬって、私たちは二人で刺繍をしたり本を読んだりして遊びました」
シャラーレフは、脳裏にナハールの姿を思い描いた。濃茶の髪を三つ編みにして、いつも同じエプロンドレスを着ていた友達。目が大きくて、夏に日焼けしていると何かの小動物のように見えた。
彼女と過ごした年月が数年でしかないことが不思議なくらいに、その記憶はシャラーレフにとって大きかった。
シャラーレフは、雲で星の見えない空を見上げた。
「彼女の方も私を友達だと思っていてくれていたのかどうかはわかりません。雇い主の娘だから付き合っていただけかもしれません。それでも私にとっては、ナハールといるときが幸せな時間でした」
ナハールと自分は本当に思い出通りの関係だったのか、シャラーレフは確信が持てなかった。今となっては無意味な問いだが、ナハールも自分を大切に思っていたと言ってしまうのは傲慢な気がした。
話の行方を察しているのか、キルスはうつむいて焚き木の火を見つめていた。焚き木はパチパチと音を鳴らして、燃えていた。
「しかし、そういう日々も長くは続きませんでした。ナハールの家はゲルメズに土地を奪われ、住む場所を失ったのです。彼女の父親は抗議のために焼身自殺しましたが、何も変わりませんでした。残されたナハールとその家族はゲルメズによる強制移住政策で西方へと連れていかれました」
シャラーレフは淡々と事実を述べた。
もっと湿っぽくなってしまうかもしれないと思っていたが、話してみると案外冷静に話せていた。
「移住の行程は厳しく、飢えや過労で多くの人が途中で死んだそうです。私は彼女がその後どうなったのかを知りません」
別れは突然で、気づいたら彼女はいなくなっていた。
泣く時間を与えられることもなく、シャラーレフは一人の友達を永遠に失ったのである。
最初は戸惑った。次に悲しかった。
そして、ごく普通の善良な子供だったナハールがなぜ消えなければならなかったのか、それを理解するにつれて感じたのは怒りだった。
「私の家族は彼女の家の不幸を他人事だと思い、忘れていきました。屋敷の外で死に続ける人々を見ずに、自分たちの安全だけを守りました。あの人たちは、戦争には負けたが今は平和だからましな方だと言います。そういう人間が、今のセフィードの貴族の大半です」
落ち着いていた声に、徐々に激しいものが混じっていく。
シャラーレフの心には、ナハールがいなくなった時からずっと炎が燃えていた。その火は敵だけでなく、自分の家族を含む他人の苦痛に鈍感な全ての人々に対して燃えている。
弱者を虐げるゲルメズ人も、犠牲を見ようとしないセフィードの富裕層も、またそういう人間を生み出す理屈で動く世界も、何もかもが許せなかった。
「私は彼女を忘れません。忘れていく人々を認めません。彼女のような人々の存在を、必要な犠牲なんて言葉で終わらせることは、私にはできないんです」
争いや報復を望まない死者もいる。
ナハールも恐らくそちら側の人である。だがシャラーレフ自身は、生きている自分が抗わなくては死んでいった人々に申し訳ないような気がしていた。
真っ直ぐに切り揃えた金色の前髪が、熱を帯びた緑色の目を隠すように揺れる。
見上げた空からキルスへと向き直り、シャラーレフは思い詰めた表情ではっきりと言った。
「だから私は、セフィードに武器を密輸します。話し合いなんてものは、結局のところ妥協です。誰かがやっぱり犠牲になります。戦わなければ、本当の平和は来ないんです。同じように死ぬなら、黙って殺されるよりも戦って殺される方がいいと、私は思います」
あくまで敬語は崩れなかったが、その心は苛烈で激しいものだった。
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