第16話 夜風の冷たさに

 木の引き戸を開け外に出ると、大ざっぱな造りの木の柵の塀に囲まれた庭があった。


 昨夜まで曇りだった空は晴れ上がりたくさんの星が瞬いていた。

 久々に見る星空は、いつになく綺麗だ。深い藍色の空に、散らばる星々の光。その一つ一つの光が、見る者の心を切なくした。


 冷たい風が音を立てて、シャラーレフの火照った耳を撫でていく。

 吐く息は白く宵闇に広がった。だが酔っているせいか、寒さは思ったほど気にならなかった。シャラーレフはコートの前ボタンを開けたまま歩いた。


 座る場所を探して周りを見回すと、少し離れた暗がりに人が立っていた。

 目をこらしてみれば、それはキルスだった。

 シャラーレフは驚かせようと思い、静かにキルスに近づいた。


 だがキルスはすぐに気づいて、振り向いた。


「やっぱりあんたか」

 だいぶ面倒くさそうに、ため息をつくキルス。

「ばれましたか」

 シャラーレフは笑ってごまかし、キルスの隣にあった椅子に座った。やはり、素人が玄人の後ろをとるのは難しい。


 酒の臭いを漂わせるシャラーレフに、キルスは身構えた。


「あんた、酔っているな」

「だから外に出たんですよ」


 シャラーレフはキルスを横目で見て、答えた。頭は痛いし、あまり気持ちのいい酔い方ではなかった。


「こんなににぎやか宴になるなんて、盗賊の彼らはそうとう嫌われてたんですね」

 家の外まで響く人々の喧騒を聞きながら、シャラーレフはつぶやいた。

「……そうだな」

 キルスはぼそりと返事をした。一人で外にいるところから察するに、人を殺した結果のわりに明るい宴の雰囲気が苦手のようだ。


 シャラーレフも盗賊であった彼らのことを良く知らないので、いまいち腑に落ちないものはあった。

 ティウの正直すぎる態度と言葉を思い出し、シャラーレフはキルスの考えが気になって、尋ねた。


「ティウさんは、盗賊の彼らを屑だと言っていました。時代が悪いと言うのは言い訳だ、屑はいつどこに生まれても道を踏み外す、と。でも私は、そうは思えません。キルスは、どう思いますか?」

「さあな。だがどちらにしろ、武器を手にした人間は結局ああいうろくでもない結末しか迎えないのだと、俺は思う」


 キルスは冷たく言い放った。前を見つめる瞳には、信じることを諦めたような厳しさがあった。


「それは……その銃で戦うあなたたち自身も含めて、ですか?」


 シャラーレフはためらいがちに、問いを重ねた。

 キルスの言葉の鋭さが、キルス自身にも向けられていることを、シャラーレフは理解していた。そしてそれは、最新の武器を祖国に密輸しようしているシャラーレフに対しても突き刺さる。


 シャラーレフの方を向くことなく、キルスは空を見上げた。


「多分な」


 それは簡潔な返事だったが、どことなく悲痛な響きがあった。いつかむごい最期を迎えることを覚悟した表情に、シャラーレフは思わず立ち上がり声をかけた。


「それが世界の全てっていうわけじゃ、ありませんよ」


 シャラーレフは目いっぱいやわらかい声で、キルスに言った。

 緑色の瞳に優しい色を浮かべて、キルスの存在を肯定する。そうしなければキルスが消えてしまいそうな気がして、嫌だった。


 だけどそういう感情を他ならないシャラーレフから向けられることは、キルスの心をひどく苛立たせてしまったらしい。キルスは眉をひそめて、シャラーレフをにらんだ。


「大義なんてものを信じて武器を買い、戦争を始めようとしてるあんたにとっては、そうかもしれないな」

 その声は苛立ち、棘があった。

「だけど、俺の家族を殺したのは他国から流された新しい銃を持った民兵だった」


 怒りを押し殺し震えながら、キルスは生い立ちを語り出した。その過去は、おそらくあまり人に話したくないことのはずである。

 だがキルスは、シャラーレフに心を開いて全てを明かすわけではない。それはシャラーレフを拒絶するための、吐露であった。


 キルスの狙い通り、『他国から流された新しい銃』という言葉は、鈍器のような重さでシャラーレフの意志を叩きつけた。


(あぁ、だからキルスは、最新武器を自国に密輸しようとしている私を嫌ったんですね……)


 自分がキルスの目にどう映っていたのかやっと理解したシャラーレフは青ざめ、身動きできずに固まった。動悸が速まり、頭がさらに重くなってぐらぐらと足下がふらついた。


 シャラーレフに追い打ちをかけるように、キルスはさらに続けた。あふれだした言葉は、キルスにももう止められないようであった。


「奴らは敵である東部軍から守るために来たと言って、俺たちの村に近づいてきた。村の人たちは人が良かったから、最初は仲間として歓迎した。だが奴らは味方面した悪党だった。現地調達だと言っては民家にむりやり押し入って食糧を取り立てた。抵抗する家があれば、皆殺しにして略奪した。俺の家族も、そうやって殺された」


 キルスのかすれた声が、深い闇の中に響く。

 仄暗い光を放つ黒い瞳が、星明りに揺らめいていた。凍った心の奥にくすぶりつづけていた炎が、激しさを増す。シャラーレフはキルスの絶望の深さを、ただ黙って眺めていた。

 キルスは一瞬目を閉じ、泣き出しそうな顔で言葉を続けた。


「俺は家族を殺したその銃を奪って、敵を殺し生き残った。母さんの顔を何回も撃ってぐちゃぐちゃにした銃で、俺はあいつを殺したんだ」


 本人にとっては許されない罪の告白なのだろう。声が切々と苦悩に歪む。

 キルスはここではないどこかを見ていた。陰惨な記憶の中にいて、囚われていた。


「その日からずっと俺は銃を握り続けている。あんたの見る世界は、俺には見えない」


 強い調子の言葉でなかった。だがそれでも最後の否定には、シャラーレフへのキルスの拒絶の意思がはっきりとこめられていた。

 何も言えないでいるシャラーレフを、キルスは巻き毛の前髪の下の鋭い目できつく見据えた。世界を責め、自分自身も責め、そしてシャラーレフを責めた。


 風が二人の間を吹き抜ける。黒い革のジャケットのポケットに手を入れて立つキルスの姿は、案外小さい。


 シャラーレフはその時、キルスの中に幼い少年を見出した。

 家族を殺され、初めて人を殺し、その罪の重さに立ちすくんでいる孤独な少年。一体誰が、その少年の罪を赦せるのだろうか。


 シャラーレフはその少年に手を差し伸べたかった。だが彼に軽蔑されるであろう罪を犯そうとしてるシャラーレフには、それはできないことであった。


(これはエゴイズムです。弱い子供が自分より弱いものを見つけて可愛がり、悦にひたる。きっと私がしたかったのは、そういうことです)


 キルスの弱さに抱いた感情がひどく傲慢なものに思えて、シャラーレフは自分を恥じた。


「私は、その……っ――……」

 それでも、とシャラーレフはキルスに言おうとした。だけどその続きは出てこなかった。声にならない言葉だけが、開いた口を通り過ぎる。


(駄目です。この人には触れられません……)


 シャラーレフは伝えられなかった何かを飲み込み、くちびるを噛んだ。キルスの姿はすぐ目の前にあるのに、心は遠く手が届かなかった。

 生い立ちや失ったものの種類。許せなかったことに選んだ道。すべてが違い過ぎた。


 行き場の失くした沈黙が、気まずく二人の間の溝を際立たせる。


 寒い夜空の下、二人は見つめ合った。


 しばらくして、キルスは我に返ったのか慌ててかぶりをふっていつもの不機嫌そうな顔をつくった。冷静をよそおって普段通りを取り繕い、シャラーレフを一瞥する。

 そしてキルスは背を向けて、何も言わずに塀の外へと走り去った。


 その暗闇に消えていく後ろ姿が脆くて弱いものに見えたので、シャラーレフは胸の奥を締め上げられたような気持になった。


 気づけば、シャラーレフの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。すぐに寒さで熱さを失うそのしずくを、シャラーレフは急いで手でぬぐった。


(私が泣いてどうするんですか。泣いてもいいのは、キルスでしょうが)


 涙をふきながら、シャラーレフはキルスとの賭けのことを思い出した。

 シャラーレフが考えを変えるか、キルスがシャラーレフを認めるか、お互いの謝罪を賭けたその賭けは、賭けたことを後悔するくらいにはシャラーレフが負けていた。


 しかし、それでもシャラーレフは諦められなかった。シャラーレフにはシャラーレフなりの、譲れない祖国への気持ちがあった。


(この国の戦後も、人々の痛みも知りました。ですが、私は……)


 シャラーレフは潤んだ瞳で星空を見た。澄んだ空気に瞬く星は遠く、果てがなかった。

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