第12話 毛布に包まって
暗い空気にすっかりデザートを食べる気をなくしたシャラーレフは、フェーを呼んで銀紙に残ったパイを包んでもらって寝室に帰った。
他の三人も押し黙ったまま、一緒に戻る。
部屋のドアの前に着くと、ルトが思い出したようにシャラーレフとキルスを見てにやにやした。
「じゃ、お嬢さんとキルスは仲良く二人で過ごすんだったよね」
「そうですよ。明日の朝には私はキルスのことをたくさん知っている予定ですから」
気持ちが沈んでいたシャラーレフだったが、切り替えて余裕の笑みを浮かべてみせた。
「お前に話すことなんか何もないよ」
キルスが見るからに嫌そうに言った。
「あはは、じゃあまた明日ね」
ルトは好奇心に満ちた目で二人を振り返りながら、サームと二人で部屋に消える。
シャラーレフも鍵を開けて部屋に入った。ドアを開けたまま振り返り、少しでもキルスを馬鹿にしてやろうと尋ねる。
「そんなに私と一緒が嫌なら、ルトたちと同じ部屋へ行って寝ますか?」
キルスはシャラーレフをにらみつけ、ドアを越えた。
「お前から逃げたと思われるのはしゃくだからな。一応つきあってやる」
「言いましたね。じゃあ、ソファ禁止で同じベッドですよ」
「望むところだ」
挑発するように腕を組むシャラーレフを、キルスが真っ直ぐに見据える。
売り言葉に買い言葉で、シャラーレフとキルスはお互いあまり望んでいないことをすることになった。
無言でドアの鍵を閉め、二人は就寝の準備をした。
だが、シャラーレフは風呂にも入っており、あらかじめそのまま寝られるようにやわらかい生地でできたゆったりとしたワンピースを選んで着ておいたので、あまりすることはなかった。
キルスも、寝るときに着替えるようなことはなく、荷物の整理をする以外にやることはなさそうである。
「では、私はこちら側に寝ますよ」
シャラーレフは牽制するように、靴を脱いでベッドの上に腰掛けた。
白いキルトのカバーのかかった掛け布団は、中が羽らしくふんわりと軽い。
少し間を置いて、キルスはシャラーレフの反対側に座った。
「半分よりこっちに来たり、するなよ」
ランプの光を消し、キルスが言う。
ふっと暗くなった室内に、キルスの姿がぼうっと浮かび上がった。
ベッドが広いせいか、思ったよりもキルスは遠い。これならなんとかなるだろう、とシャラーレフは少し安心した。
「あなたこそ、私から離れようとして、ずり落ちないように注意してくださいよね」
シャラーレフは言い返し、掛布団の中にもぐり込んだ。キルトのカバーは洗い立てで、洗剤の香りがかすかに匂った。
横を見ると、キルスはベルトに手を伸ばしてシャツの裾で隠してあった銃を取り出していた。そしてそれをサイドテーブルに置き、ベッドに横たわった。
一応気を使ったのか、掛け布団ではなくベッドの隅に畳んであった毛布を使ってくれた。
背を向けて寝ているキルスの後ろ姿を、シャラーレフは見つめた。黒いシャツを着たその背中は、近くて遠い。
(好きでもない男と同じベッドで寝たなんて、母様や父様に知られたら叱られるでしょうね)
故郷にいる両親の顔を思い出す。
シャラーレフ自身、自分の今の状況は信じられないものがある。だが、キルスのことは気に入らないなりに、ある種の信頼を置いていた。そのせいか、シャラーレフはすぐに眠気に襲われた。
すぐに寝てしまっては面白くない、何かキルスと話してから眠りたいとも思ったが、ひさびさのベッドの感触は心地よい。
シャラーレフは寝返りをうち、キルスと背中合わせになって目を閉じた。
ふれあうほどの距離もないが、なぜか背中がこそばゆい気がした。
しかしそれでも眠いことには変わりはない。そしてシャラーレフはぬくぬくと布団に包まれ、幸福な睡眠の中に落ちた。
◆
深夜、シャラーレフはのどが渇いて目を覚ました。
布団が暖か過ぎたのか、少し汗をかいている。布団から抜け出し起き上がれば、冷たい空気が気持ちよかった。
水差しを探して横に目をやると、キルスの姿がないことに気がついた。
(あれ、キルスはどこでしょう?)
ぼんやりとした頭で暗い部屋を見回すと、窓辺にキルスは立っていた。
窓の外の三日月は、藍色の空の中で冴えわたり透明な光を放っていた。ガラス越しの月明かりが、空を見上げるキルスの彫りの深い横顔を照らす。
「寝ないんですか?」
シャラーレフは、目をこすりながら尋ねた。
急に声をかけられたキルスが、驚いた顔で振り返る。
「起きていたのか」
「今起きたんです。のどが渇いて」
シャラーレフはベッドの上に座ったまま、壁にかけておいたガウンを羽織った。
「私がいるから、寝れないんですか?」
自分が原因かもしれないと思ったシャラーレフは、少しばつが悪い気持ちでキルスを見つめた。窓に背を向けたキルスの顔は、逆光で若干見えにくい。
「そういうわけじゃない」
キルスはいらいらした声で言うと、再び窓の外を見遣った。
その苛立ちは、シャラーレフではなく自分自身に向けられているように思えた。
唐突に、シャラーレフの脳裏に食堂で戦争神経症の男を見たときのことが頭をよぎった。
あの男を見るキルスの表情。それは同種を見る目だったとシャラーレフは今気づいた。より救いようのない同種への共感と、そして負い目。
(そうですか。キルスもまた、戦争から戻ってくることができない人なのですね……)
直感的に、シャラーレフはキルスの傷を理解した。
心の中で、それに触れてはいけないと警鐘が鳴る。
だが同時に、掴みとってみたい欲求も湧き上がる。
もしもキルスの心の傷に踏み込んだなら、シャラーレフはさらに嫌われることが必須である。ただでさえ戦争を知らないと軽蔑されているのだ。この問題にシャラーレフが首を突っ込むことは、許されない。
しかしそうであったとしてもシャラーレフはキルスのことを知りたかった。
そもそもシャラーレフはキルスを理解するために、同室を選んだのである。たとえそれがひどく無神経なことだったとしても、やるべきだと思った。意地か使命感かわからない気持ちが、頭の中に広がる。
そしてシャラーレフは、こらえきれずに聞いた。
「……もしかして、戦争の夢を見るとか、ですか?」
問いかけはつぶやきに近かったが、静まりかえった室内に残酷なくらい響いた。
その瞬間、キルスの黒いシャツを着た背中が凍った気がした。
窓に映った黒い瞳が月明かりに揺れる。
(あ、図星っぽいですね)
自分が意図したとおりに相手が隠そうとしている脆い部分を暴いたことを、シャラーレフは確信した。罪悪感がじわじわと心臓を締め付ける。言った端から、後悔した。
キルスはゆっくりとシャラーレフの方を向いた。その目には、暗闇の中でもわかるほど強い怒りがこもっていた。他人に、しかもシャラーレフに勝手に痛みを悟られたことは、キルスにとっては何重の意味でも耐え難いことであるようだ。
「俺を憐れみの目で見ることができて、嬉しいか?」
窓から音もなく離れ、キルスはベッドの上のシャラーレフを見下ろした。その声は今までで一番冷たく、鋭い響きのものだった。
憤りを内に秘めながらもまだぎりぎりのところで自制したキルスの姿に、シャラーレフはぞくりと見惚れた。慌てて、思ったよりも厳しい反応に言い繕う。
「憐れみだなんて……、私はただ……」
だが、場当たり的なシャラーレフの言葉はキルスを逆上させただけだった。
「いいから黙れ、武器商人。これ以上まだ同情ごっこを続けるようなら……」
キルスは声を荒げてシャラーレフをベッドに押し倒し、その口をふさいだ。
シャラーレフの金髪が、白いシーツの上に広がる。
思わず怯んだシャラーレフは一瞬目を閉じた。
キルスの吐息の感覚が、自分のすぐ上に来るのを感じる。口元を押さえるキルスの手は冷えていた。
恐る恐る目を開けると、ごく至近距離にキルスの険しい顔があった。浅黒い肌も、巻き毛の前髪もあと少しで触れてしまうほど近い。
深く怒りを宿した暗い瞳に見つめられ、シャラーレフは胸の動悸が高まるのを感じた。体が火照って、熱かった。
乱暴ではあったが、息ができなくなるほどの力で押さえられたわけではなかった。
しかし、シャラーレフは緊張してうまく呼吸ができなかった。もがいてキルスの手から抜け出し、シャラーレフは喘ぎながら言った。
「わかりました。わかりましたから、怒らないでください」
『続けたら、どうするつもりですか? 私を襲うんですか?』と突っかかってみたい気持ちもあったが、やめておいた。キルスにこのままどうこうされるとは思わなかったが、さすがにそこまでの度胸はなかった。
息を切らしたシャラーレフを見てやりすぎたと思ったのか、キルスはきまりが悪そうな顔になりかけた。しかしすぐに踏みとどまり、
「なら寝てろ」
と、冷たくシャラーレフの耳元に吐き捨てた。
手を放して体を起こすと、キルスは手荒くシャラーレフに布団を被せた。シャラーレフの視界が、キルトのカバーに覆われる。
それから、キルスがベッドから離れ、部屋から出ていく音がした。
布団に頭まで包まったシャラーレフはその音を聞きながら、ほっと息をついた。
キルスのことをわかりはじめることができたという達成感と人をわざと傷つけた罪悪感が混ざり合った妙な感情が、そこにはあった。
息を整えながら、キルスのことを考える。
今夜垣間見た、キルスの弱さと脆さ。今までずっと人を殺したことを夢に見て、眠れない夜を過ごしてきたのだろうか、とシャラーレフは想像した。
ずきんと胸の奥に鋭い痛みが走る。もしかしたら、本当の意味でキルスが戦場から戻れる日は一生来ないのかもしれない。
激しい怒りの中でもその手はどこか優しかったのを、シャラーレフは思い出した。
その優しさが、キルスを苦しめる。
それはきっと誰にも、少なくともシャラーレフには救えない。
シャラーレフはそのときやっと、自分のしようとしていることの重大さに気づきはじめていた。
自分が祖国に持ち帰る武器も、誰かをキルスみたいな気持ちにさせる。どんな言い分があったとしても、武器は必ず人を不幸にするのだ。たとえ死ぬのが敵で少数だったとしても、殺したり殺されたりする当事者にとってはそれがすべてである。
そのことを、シャラーレフは初めて実感した。
(私は今夜のキルスを前にしても、戦争を人を殺すことは大義のために必要なことだと言えるのでしょうか)
今までの自信が揺らいでいくのを、シャラーレフは感じた。
だが、かと言って武器を放って帰ることが正しいとも思えない。
答えの出ない思考がぐるぐると頭の中をめぐり、シャラーレフはその後なかなか寝付くことができなかった。
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