第11話 食堂の献立

 入浴を終えたシャラーレフは、パタパタと走っていた従業員のおばあさんに声をかけ、上機嫌で浴室を後にした。次の使用者が現れなかったので、かなりの長湯となってしまった。


 ゆったりとした深緑色のワンピ―スに着替え、入浴のついでに洗濯した服の入ったかごを抱えて二階に戻る。

 洗って真っ直ぐに戻った髪は、一つに結んでまとめておいた。

 体はほかほかと温かく、さっぱりとしたよい気分であった。


 部屋の前についてみると、キャラーグ商会の三人がドアの前で立っていた。


「もしかして、食堂に行くところですか?」

 シャラーレフはにこやかに尋ねた。

「あんたを呼びに行くところだったんだよ。風呂に一時間半とか長過ぎだ」

 開口一番、キルスが毒づく。


「いいじゃないですか。今、七時でしょう? 晩ご飯には丁度いい頃合いです」


(せっかく良い気持ちで帰って来たのにこれですよ)


 シャラーレフは少々気分を害され、眉をひそめた。

 むっとした顔のシャラーレフに、ルトはにこにこと声をかけた。


「お嬢さん綺麗になったし、キルスもそんなに怒らなくてもいいのにねぇ」


 何気なく自然に、ルトは口説くような調子だった。

 ルトにほめられたところでうれしくもないが、その揺るぎのない色男らしい姿勢にシャラーレフは少し怒りを忘れた。


「早ク、食堂、行コウ」

 サームがぼそぼそとガスマスク越しにくぐもった声を発した。どうやら無口で黒ずくめなこの男は、めずらしく声を出すほど腹をすかせているらしい。


「そうだね。お嬢さんも戻ってきたわけだし、もう行こうか」

 ルトがうなずき、一行はぞろぞろと下に向かった。シャラーレフも急いで部屋に服を干し、後に続く。


 食堂に降りてみれば、宿泊客だけでなく地元民も来ているのか先ほどよりもさらに混み合っていた。

 四人で入口に立っていると、フェーと呼ばれていた給仕の男が食器を運びながら声をかけた。


「今そこらを片付けますで、少々お待ちくだせぇ」

 せわしなく動き回るフェーを眺めていると、じきに席に案内された。


 食堂の中は、移動させやすいように軽い造りになっている四角い木のテーブルと長椅子が並んでいた。赤々と燃える暖炉と隅に置かれたランプが、部屋を明るく照らしている。

 酒の入った男たちの活気に満ちた、騒がしい雰囲気の場所であった。


 その中で四人が通されたのは、窓際のなかなか良い席だった。

 外は真っ暗で田園以外の何かがある気配はなかったが、高さのある張り出し窓からは三日月が良く見えた。


 四人が適当に座ると、フェーはテーブルを拭きながら尋ねた。


「本日のメニューは塩漬けきゅうりのスープとひき肉のカツレツ、白りんごのパイですだ。よろしいでやすか?」

「うん、それでお願い。あとビールが一つと……」

「私もビールです」


 ルトが飲み物の注文をしたので、シャラーレフも便乗した。


「俺は水でいい」

「同ジク」


 キルスとサームは質素な答えを選んだ。


 しばらくすると、机いっぱいに熱々の夕食が並んだ。素朴な家庭料理ではあったが、どれも野外での調理では難しい手の込んだ品である。

 カツレツの肉や焼きたてのパンの香りに、シャラーレフは思わず唾を飲んだ。


「じゃ、僕まずこれもらうね」

 ルトが真っ先に、デザートであろうパイを皿に切り分けた。

「偏食の激しい甘党の中年は見苦しいな」

 キルスは冷たい目で、ルトをとがめた。


 しかしルトは気にせずに、幸せそうにビールを飲みながらパイを頬張った。


「空腹にビールと甘いものは最高だよ。キルスも試せばいいのに」

「俺は遠慮しとく」


 キルスがあきれた様子で、木の器によそわれたスープに口をつけた。

 サームの方は何も言わずに、カツレツを粛々と胃に収めている。


 シャラーレフはルトとキルスの会話を半分聞きながら、食べることに集中した。


 グーシュト亭の夕食は、想像していたよりもずっと美味しかった。

 きゅうりのスープは自然な塩加減で、いくらでも飲めそうな薄めの味である。

 逆にカツレツは、しっかりと固められたひき肉が食べごたえがあった。パン粉にたっぷりしみ込んだバターと肉汁が混ざり合い、香ばしい。つけあわせのザワークラフトも、丁度良い酸味である。


 出来立ての柔らかいパンと軽い口当たりのビールをときどき間に挟みながら、シャラーレフは口を動かし続けた。サームの料理も美味しいが、基本質素である。

 がっつりと食べることができる機会は貴重なので、思う存分食べた。


 他の三人も同じことを考えたのか、普段よりもよく食べていた。

 だいたいの皿が空になり、シャラーレフは最後にパイをもらおうとした。


 その時、食堂に一人の男が入ってきた。

 ぶかぶかのシャツに薄汚れた上着を着た小汚い男が、入口のドア付近に立っている。年は三十前後だろうか。痩せ細り、落ち窪んだ目には生気が感じられない。

 元々は男前だったようにも思える顔立ちであるが、今はもうただみじめにしか見えなかった。


 楽しげな空間に不釣り合いな人物の登場に、一瞬店内の空気が冷える。だが、フェーの接客は変わらなかった。


「へい、こちらの席にどうぞお座り下せえ」

 部屋の奥の人の少ないところを指し示すフェー。男の反応は薄かったが、黙って案内されていった。

 誰に対しても図太く接客をするフェーに、シャラーレフは少し尊敬の念を覚えた。


 おぼつかない足取りで移動する男は、机の角にぶつかりながらシャラーレフたちの座る机の横を通った。周りの客は怪訝そうな顔をしていた。


 シャラーレフは横目でそっと男を見た。何故か、男は小刻みに震えていた。うっすらと嘔吐物のような酸っぱい臭いもした。


 男の暗い瞳が、ゆっくりと動いてシャラーレフをとらえる。ばれないように見ていたつもりだったのに目が合い、シャラーレフはぎょっとした。慌てて、目をそらす。


 やがて男は通り過ぎ、背の曲がった後ろ姿しか見えなくなった。


 シャラーレフの後ろに座っていた地元民らしき青年が、小さく舌打ちをして席を立った。


「神経症のできそこないの兵士が来たんじゃ、酒もまずくなる」

 ぼそりとつぶやき、青年は苛立った様子で立ち去った。その同席者の女性も、青年の後に続く。女性は憐れみの目を、通り過ぎた男に向けていた。


「ご注文の品はこちらでやすな」

 男を案内していたフェーは、蒸留酒の瓶とグラスを置いて立ち去った。そして一人用の椅子に腰掛けた男は、かなり早い調子で酒を飲みだした。


「あの人は病気でしょうか? 隣の人は神経症だって言ってましたけど」


 シャラーレフはちらちらと男の様子を伺いながら、三人にささやき声で尋ねた。

 他の客は、男を触れてはいけないもののように扱い、無視してにぎやかさを取り戻しつつあった。


「多分、あの人は戦争神経症だ」

 キルスが目を背けながら、低い声でつぶやいた。


 いつもはよく喋っているルトの方は、これは不得意な話題らしく気まずそうに黙っていた。

 サームは、残ったザワークラフトを食べている。


「戦争神経症、とは?」

 聞きなれない言葉に、シャラーレフは聞き返した。後ろに座っていた青年が、男のことをできそこないの兵士だとも言っていたことを、思い出す。


 少し説明に困ったようで、キルスは言いよどみながらゆっくりと答えた。


「戦場での殺人や他人の死、自分の身の危険が忘れられず、頭がおかしくなる……みたいなものだな」

「はぁ」


 シャラーレフは、いまいちよくわからないまま相づちを打った。

 ただ、男がとても気の毒な人だということだけは理解した。


 ルトがため息まじりで、補足説明をする。


「戦争でいろいろあって憂鬱になって暗くなったり、アル中になったり、妙に攻撃的になったり、自殺しちゃったり……そんな感じだよ、ね。銃とか大砲とかが進化して扱いが楽になって、簡単に人を殺してしまえるようになったせいかな? 最近は変になる人が多いんだよ」


 早く話題が変わることを期待しているように、ルトは話を切り上げるような調子だった。


(あの人は確かに、憂鬱で暗くなってアル中のようでしたが……。あんなふうになってしまうというのは、一体どんな気持ちなんでしょうか)


 戦場を知らないシャラーレフには、それはまったく想像できなかった。


「戦争に行って生き延びても、そこから戻れない人間もいる」


 キルスは視線を落とし、ぽつりと言った。

 それは同情や憐れみというよりは、どこか負い目のある言葉に聞こえた。


 その意味するところを理解することはできなかったシャラーレフは、重いものを感じ取り口をつぐんだ。目を上げて、部屋の端に座る男の様子を遠くから見つめる。


 時折男はびくっとしては、怯えるように周りを見渡していた。

 幻覚か何かが見えているのだろうか。飲めば飲むほどその様子はひどくなるのに、男は飲んだ。飲まなければ息を吸えないかのように、それは続いた。


 シャラーレフは胸の奥に鈍い痛みを感じた。振り払っても消えない嫌な感覚が、心に広がる。


(あの人は生きてはいるけど、死んでいます)


 見てはいけないものを、見たような気がしていた。


 これからふとした瞬間にこの男を思い出して嫌な気持ちになるだろうという予感を、シャラーレフは持つ。決して忘れることのできない暗く重い光景として、その男の姿は記憶の奥に染みついた。

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