第10話 グーシュト亭本館
バナフシェを通過して数日後、一行にやっと野宿ではなく宿で過ごせる夜がやってきた。
「今日はこの旅初めての宿ですね」
シャラーレフはひさびさの宿での宿泊に、声を弾ませた。
「別に普通の宿だよ? お嬢さんがカークトゥースで泊まってた所よりも全然安いし」
厩の馬丁に馬を預けたルトが荷物を背負いながら、うきうきしているシャラーレフに念を押した。馬車は鍵のかかった車庫に置いてある。
「見栄を張って高い宿を選んでましたけど、本当は私はこれくらいの場所の方が好きなんです」
シャラーレフは今日泊まる宿である、グーシュト亭を見上げた。
厩や車庫とは庭を挟んだ位置にあるグーシュト亭の本館は、二軒の家をつないだような大きなL字の形をしていた。外観からして古いところと新しいところが混ざっており、建て増しの結果と言う雰囲気を出している。
今シャラーレフたちがいるのは、トゥープ村という小さな村である。
トゥープ村は重要な道路が交差する場所にあり、宿場町としてはそれなりに栄えていた。他にとりたてて特別な産業はないので村以上に発展することはなかったが、田舎にしてはめずらしいにぎわいのある村なのであった。
今夜泊まるグーシュト亭もその恩恵を受け、なかなか繁盛しているらしい。明かりが灯ったたくさんの窓に、シャラーレフは目を輝かせた。
「食べて寝るだけの場所を、どうしてそこまで楽しみにできるのかわからんな」
先に庭で待っていたキルスが腕を組み、はしゃぐシャラーレフを一笑する。
「何事も嬉しく思えた方が幸せです。あなたみたいにいっつも冷めてる人には理解できないでしょうけど」
シャラーレフはトランクを地面に置き、そっぽを向いた。
顔を背けた先には、サームが薄闇の中で佇んでいた。どうやらサームも馬を厩に預け終わったらしい。
「じゃあ、揃ったみたいだし中入ろうか」
ルトが玄関を指さす。
四人はそれぞれの荷物を持ち、歩き出した。
玄関は建物の前に突き出した部分にあった。
軒の下には大きな看板が掲げられており、太く見やすい文字で店の名前が書いてある。屋根に取り付けられたランプが、その文字を明るく照らしていた。
寒い国らしく両開きの扉はしっかりと閉じられていたが、脇にある窓からは人々が談笑する様子が見える。
「こんばんはー」
ルトが扉を大きく開け、入店する。
シャラーレフもルトの後に入った。キルスとサームがさらに続く。
古びているが、明るく清潔感のある店内だった。がやがやとした人の笑い声や話し声が耳に入る。こんなに多くの人の気配を感じたのは、久しぶりのことであった。
「いらっしゃい。ご宿泊ですかい?」
店主らしき中年の男性が、使い込まれた立派なカウンターから声をかけた。
「四人泊まりたいんだけど、部屋はある?」
ルトが慣れた調子で空き状況を聞いた。
店主は禿げ上がった頭をかきながら、壁にかかっている宿泊状況が記された板を見た。
「四名様でしたら、二人部屋がお二部屋でいかがでしょうかね」
「じゃ、それでよろしく」
「へい。ではこちらに記入をしてくだせぇ」
「はいはーい」
ルトはペンと宿泊台帳を受け取ると、さらさらと必要事項を書いた。
「では、お部屋に案内いたしやす。おーい、フェー! お客さんをご案内しろ!」
店主は大声で給仕か誰かを呼んだ。客でごった返す隣の食堂の中から、もじゃ毛の男が姿を現す。
「ほい、旦那。どちらで?」
「二階の突き当りの二部屋だで」
「承知いたしやした。ではお客様、こちらへ」
男は壁から鍵をとると、カウンターの横にある階段を上った。
シャラーレフたちもぞろぞろと進んだ。
やや薄暗い廊下を案内されてついたのは、こぢんまりとした寝室だった。
二人部屋にしてはやや狭いが、白いシーツのかかった大きなベッドが一つにソファ、テーブル、洗面台とコート掛けと必要最低限の家具は揃っている。
「これが鍵ですだ。お食事はどうしやす?」
男がルトに鍵を渡しながら尋ねた。
「もちろん、お願いいたします」
ルトが話すよりも先に、シャラーレフが返事をしていた。
「食べる話のときだけ、反応が違うな」
キルスがぼそりと、馬鹿にした。
シャラーレフはキルスをにらんだが、キルスはしらじらしく無視をした。
二人のやりとりを気にせず、男はぺらぺらと説明を続けた。
「ほい。では、適当な時間に食堂に来てくだされば、お食事を用意いたしやす。あとでお湯はお持ちしやすが、一階の奥に別料金の風呂もあるでよろしければお使いくだせぇ」
ひとしきり話すと、男は忙しく一階へと戻っていった。
(お風呂があるんですか。楽しみです)
何日も入浴していないシャラーレフは、風呂と聞いてすぐに機嫌を直した。
「さてと。じゃ、部屋割りはどうしようか」
ルトが部屋を見渡しながら、三人に尋ねた。
(そうでした。二人部屋が二つということは私は誰かと一緒に寝なきゃいけないのでした)
シャラーレフは重大な問題に気がつき、困り果てた。
雇い主はシャラーレフであるから、命じれば三人と一人に部屋を割ることも可能ではある。だが、そこまでのわがままを言う気にはなれなかった。
ルトは、にこにことシャラーレフを見つめていた。サームは、相変わらずどこを見ているのかわからない。キルスは自分には無関係の話だと思っているのか、壁にもたれて違う方向を見ていた。
シャラーレフはふと、いつも冷たくされる仕返しにキルスを困らせたくなった。
それが自分も困る選択であることを忘れ、シャラーレフは言った。
「では、キルスと私、ルトとサームで分かれましょう」
気づけば、シャラーレフはキルスを選んでいた。
「は? 俺と?」
キルスが、不意打ちをくらったような顔をして驚く。調子を外して声を上げ、余裕ぶった態度を崩し身を乗り出す。
「めずらしいね。お嬢さんがキルスを選ぶなんて」
ルトが意外そうににやつく。
言ってみてから考えてみると、やめておいた方が良かったような気がした。
(まぁでも、キルスをこれだけうろたえさせることができたってことは、良い選択をしたのかもしれません)
シャラーレフは慌てるキルスに優越感を覚えた。これを機にキルスとの関係をはっきりさせておくのも悪くはないとも思った。
さらに翻弄にしてやろうと、シャラーレフは言葉を重ねた。
「私はキルスと仲良くなりたいんです」
室内の暖かさに赤く色づいた頬をゆるませ、ふわりと微笑むシャラーレフ。
「……俺の方はなりたくないね」
キルスが舌打ちして、不満顔でつぶやいた。
ルトは二人の様子にくすりと笑うと、サームの肩をぽんと叩いた。
「あはは、早く二人っきりにしてあげた方がいいみたいだね。サーム、僕らはさっさと退散しようか」
サームは何も言わず、こっくりとうなずいた。
「では、夕ご飯のときにまた会いましょう」
シャラーレフはルトに軽く手を振った。
「じゃ、後でね」
ルトはサームの肩を抱き、ちらちらと振り返りながら隣の部屋へと移っていった。
バタンとドアが閉まる。
それから、シャラーレフとキルスは本当に二人っきりになった。
キルスは何も言わずに荷解きを始め、沈黙がしばらく続く。
シャラーレフもトランクをベッドの脇に置き、コートと帽子をハンガーにかけた。そして、洗面台の上に置いてあるタオルを手に取った。
「あなたと仲良くなる前に、私はまずはお風呂に行ってきますね」
最初に話したのは、シャラーレフの方だった。
不機嫌なキルスを前にしても、入浴のことは忘れなかった。
「風呂でもどこでも勝手に行けばいいだろ」
キルスはソファに腰掛け、しかめっ面で本を開いていた。
「では勝手にさせていただきますから」
シャラーレフはそう言い残すと、タオルを持って部屋を出た。
◆
シャラーレフは階段を下り、大勢の人でにぎわう食堂の横を抜けて一階の奥へ進んだ。いくつかの部屋の前を通り過ぎると、つきあたりにある浴室の札のかかった部屋の前に着く。
「風呂をご利用ですかね?」
後ろから、従業員らしき女性が現れた。ポケットのついたエプロンを着た、背の低いおばあさんである。
シャラーレフは少し目線を下げて尋ねた。
「はい。中に入ってもよろしいですか?」
「お客さんが使うときにお湯を張るで、まだ無理ですな。ここに座ってしばらくお待ちくだせぇ」
おばあさんは廊下に置いてある椅子をシャラーレフの前に運ぶと、浴室に消えて行った。
シャラーレフは背もたれのない木の椅子に腰掛け、そわそわと待った。おばあさんはその間、浴室と客室を行ったり来たりして忙しくしていた。
それからしばらくたった後、浴室から出てきたおばあさんがやっとシャラーレフに声をかけた。
「お客様、お風呂の準備ができやした」
「はい、ありがとうございます」
シャラーレフはがたんと椅子から立ち上がった。
おばあさんはエプロンで手をふきながら、手短に説明をした。
「鍵は中からかけられるようになっておりやすだ。せっけん等はご自由にお使いいただけやす。入浴が終わったらおらでも他の従業員でも誰か呼んでくだせぇ。片付けやすで」
使用中の札をドアにかけ、おばあさんは去った。
(ふぅ、待ちくたびれました)
シャラーレフはさっそく、浴室のドアを開けた。
改築した部分なのか、想像していたよりもずっと綺麗な場所だった。
タイル張りの床は欠けたところがなく、壁のしみも少ない。バスタブもオレンジ色のランプの下で、まるで新品のように白く輝いていた。
(嬉しい驚きです。これは長湯ですね)
シャラーレフはドアの鍵をかけ、ブーツから置いてあったサンダルに履き替えた。
鼻歌を歌いながら後ろでまとめた三つ編みをほどくと、くるくるとくせのついた金髪が広がる。そして服を脱ぎ、きちんと折りたたんで入浴後用のタオルや着替えと一緒に隅に備え付けられた棚に置いた。
(さて、お湯はどんな具合でしょう?)
シャラーレフはタオルを体に押し付けて、バスタブに近づいた。バスタブの中では、透明感のある湯が、湯気をふわふわとたてていた。
そっと、片足を入れてみる。するとじんわりとした温もりが、つかれた体に広がった。
(ふふ、最高です)
思わずため息をもらし、シャラーレフはざぶりと一気に肩まで浸かった。ストーブか何かで焚いた湯をバスタブに移しただけの原始的な風呂であったが、湯加減は丁度良かった。
汗やほこりが流れていくのを感じながら、シャラーレフはぐぐっと体を伸ばした。バスタブは足を曲げなくても入れるくらいの余裕はあった。
湯気でけむる天井を見上げ、今後のことを考える。シャラーレフは風呂で考え事をすることが好きであった。
(このまま順調に行けば、数週間後には私はセフィードに戻っているはずなんですよね)
計画上では、シャラーレフはキャラーグ商会とは国境付近で別れて、セフィードの東の端にあるラースト村に住むダリュシュという反乱軍の協力者の力を借りて副都市ジャヴァーンに向かう予定であった。
ジャヴァーンは反乱軍の中心地で、シャラーレフの支援者で依頼人であるバルディア将軍の拠点でもある。シャラーレフが武器を将軍に届けた後、反乱軍は一斉に蜂起する予定であった。
戦争になる。そう思ったとき、シャラーレフの脳裏にバナフシェの光景がよぎった。
アーザルの内戦のような結果にはならないと信じてはいた。だが、シャラーレフの持ち帰る武器で人が死ぬことになるのは、間違いないことである。
(でも、それは必要な犠牲のはずです)
シャラーレフはゲルメズに奪われた民や土地のことを考えた。取り戻すために人の血が流れたとしても、シャラーレフはそれらをあきらめることはできない。
同時にキルスの瞳を思い出す。シャラーレフに向けられた軽蔑と怒り。そして戦争への深い憎しみ。それはシャラーレフの知らない感情であった。
今夜はそのキルスと同室である。
シャラーレフは湯を手ですくい、そこに自分の顔が映るのを見つめた。
(私は、キルスのことをわかりたいから、同じ部屋を選んだのかもしれません。キルスを理解できなくては、賭けに本当に勝つことはできませんから)
結局は意地の張り合いで、たいした意味のある賭けではない。
だが、だからこそシャラーレフは負けたくなかった。負ければ今自分のしていることの価値がなくなってしまうような、そんな気がしていた。
シャラーレフは手ですくった湯をバスタブに戻した。ちゃぷんと円形に、水面が揺れる。
やがてまだ体を洗っていないことを思い出したシャラーレフは、バスタブの縁に置いてあるせっけんに手を伸ばした。
こうして、シャラーレフの入浴は、さらに続いた。
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