第8話 宵の草原
首都カークトゥースを発ってから、数日ほどは特に何もなく順調に旅は進んだ。天候も大きくは崩れず、道も整備されており良好な状態である。
シャラーレフはサームとルトの隣に交互に座りながら、一日中馬車にガタゴトと揺られた。
たまにしんがりの馬車の後ろに腰掛けて、赤土に覆われた草原の中の道が地平線に消えてゆくのを見る。乗り物酔いはしない方だったのでその点では楽だったが、それでも連日の移動にはくたびれた。
そして、今日も夕方がやってきた。シャラーレフはサームの隣に座り、進行方向を黙って見ていた。
西の空には丸く大きな夕日が浮かび、あたりをぼんやりと淡いまぶしさで照らしている。黄金色に染められた草は、きらきらと綺麗に輝いた。
前を走っていた馬車が止まり、ルトが横からひょっこり顔を出す。
「ね、お嬢さん。もう疲れたよね? 近くにため池あるし、今日はここらへんでもうお休みにしようか?」
だいたい、休憩や野営を切り出すのはルトであった。シャラーレフを気遣うような感じのことをはさんでくるのが、ちゃっかりしている。
「まだ明るいし、次の地点くらい余裕で行けるだろう」
後ろを走っていたキルスが、御者台からうんざりと半ばあきらめた口調で言った。
「でも、お腹ぺこぺこでしょ?」
馬車を降りたルトがてくてくと近づいてきて、座ったままのシャラーレフを見上げた。
(お腹がすいたのはルトでしょうに。まぁ、今日の晩ごはんが気になってそわそわする頃合いにはなりましたし、私は問題ないのですけど)
シャラーレフは白い手袋をした両手をぱん、と合わせた。
「いいですよ。ここで野営にしましょう」
「決まりだね。じゃ、馬車を止めるよ」
ルトが笑顔で、自分の馬車に戻る。
「了解」
キルスはいつもの不機嫌な返答で、従った。
シャラーレフの隣のサームは、無言で手綱を操り、他の二台を器用に避けながら道の脇に移動した。そして馬車を止め終えると、サームは馬を馬車から外し、空の水樽を括り付けてさっさと少し離れたところに見えているため池へと向かった。
「じゃ、僕も馬に水やってくるね。キルスは後で。お嬢さんと仲良く話して待っててよ!」
ルトもひらひらと手を振って、馬を引いていく。
(わざわざ、私とキルスを二人っきりにしていきましたね)
シャラーレフはため息をつき、焦げ茶のスカートをつまんで馬車から降りて体を伸ばした。まだ辺りは明るく、風が草原に不思議な文様を作って揺らしていくのがよく見えた。
キルスの馬車の様子を伺うと、馬たちは早速草を食んでいた。この草原の草はそれなりの高さがあるので、エサには困らないのである。
キルスはというと、御者台に座って本を読んでいた。
手持無沙汰なシャラーレフは、キルスに話しかけてみることにしてみた。
できれば避けていたい気持ちも変わらずあったが、それでも同じ旅をする仲間としては仲直りをしたかった。
(賭けがあるからと言って、四六時中対立するのも非生産的でしょう)
草を踏みしめそっと近づく。草の上はさらさらと歩きやすかった。
帽子をとり、シャラーレフはキルスのいる御者台を見上げた。
なるべく自然な声色で、話しかける。
「キルスは本が好きなんですね。意外です」
「どうせ俺は文字も読めない可哀想な奴とでも思ってたんだろ」
邪魔するなとでも言いたげに、キルスは本から顔を上げずに言った。だが下にいるシャラーレフからは、キルスの苛立った顔が良く見えた。
「別にそこまでねじまげて返すこと、ないじゃないですか」
シャラーレフは少しだけ本気で傷つき、緑色の目をうるませた。
(私はただ、どんな本読んでるかとか聞きたかっただけです。それを……)
何かを言い返したかったが、キルスは沈黙していた。
シャラーレフは余計に傷つき恥をかく前に、立ち去ることにした。キルスはページをめくる以外に動くことはなかった。その仏頂面をにらみつけて、シャラーレフは踵を返えして自分の席に戻った。
数分もすると、馬の背にいっぱいになった水樽を載せたルトとサームが戻ってきて、今度はキルスが馬に水をやりに行った。
戻ってきたルトとサームは馬車から外した馬の前足二本と後足一本に足かせをはめて固定し、脱走しないようにした。馬を繋いでおける木が存在しない草原では、このようにして馬を止めるのである。
そして、サームはてきぱきと火をおこし、夕ご飯の準備を始めた。
サームは三人の中で誰よりも火を起こすのが速く、また料理の腕も抜群であった。
ルトの方は自分の馬車から折り畳みの椅子を引っ張り出して、サームのおこした火の周りに並べると、自分は座ってうたた寝を始めた。
(そういえば、今日の見張りはルトでしたね)
どっちにしてもルトはサームにすべてを任せることが多いのだが、完全に寝に入る日はたいてい夜の見張りをすることが多かった。
かくいうシャラーレフもこの時間は、たまに自分の衣類の洗濯をする以外はおおむね暇であった。家事ができないわけではないが、やることがないのである。
最初のうちはうろうろしていたが、結局はお客様らしく邪魔にならないよう離れた場所にいることにした。
そのうちにキルスが戻ってきて、サームを手伝った。二、三十分後に準備が済んだと呼ばれて、シャラーレフは焚き木の前の椅子に座った。
先ほどまで明るかった空も今はほんのり赤く染まり、徐々に薄暗くなっている。肌寒さを感じたシャラーレフは、赤く燃える焚き木に手をかざした。じんわりと温かさが身にしみる。
「デキタ」
サームが火にかけられていた鍋を持ち上げ、ふたを開けた。
中身はトマトベースのシチューだった。具はベーコンとたまねぎとにんじんとひよこ豆。にんじんは短時間でも火が通りやすいように、かなり薄めに切られていた。
「アト、コレネ」
サームはステンレスのお椀にシチューをよそいつつ、固めの黒パンを切り分けた。
「ありがとうございます、サーム」
まず最初に、シャラーレフがもらった。次にルトとキルス。そして最後にサームが自分の分を準備した。
「今日もおつかれ! それじゃ、いたただきまーす」
ルトの言葉で、食事は始まった。
「イタダキマス」
サームがガスマスクの下部だけを器用にずらして、食べ始める。
「いただきます」
シャラーレフも金属製のスプーンで、熱々のシチューを口に運んだ。
(美味しい……! サームは今日も良い仕事をしましたね)
数十分煮込んだだけとは思えないほど、とろとろのシチューであった。
どの具もトマトの味がよく染みわたっており、柔らかい。トマトの瓶詰をそのまま使用しているようであるが、それを感じさせないほど、甘みや酸味、塩気の加減がちょうど良かった。
添えられたパンは堅かったが、シチューに浸して食べるとまた美味しかった。
シチューとパンを交互に食べているうちに、お椀の中はすぐに空になった。
食べ終えて周りを見てみると、平らげたのはシャラーレフが一番早いようであった。
ルトに至っては、まだ半分ほど残っているのにも関わらず、手が止まっている。
「ルト、もう食べないんですか」
「んー、このごろあんまりお腹に入らなくて……」
「調子が悪いのですか?」
「まぁ……そんなところで……」
シャラーレフが言及すると、ルトはもごもごと口ごもった。
向かいに座るキルスが、シチューを食べながら横目でルトをちらりと見た。
「いい年して偏食が激しいだけだろ。豆が使われた日に残さなかったこと、あったか?」
「えー、だって僕……」
ルトが甘えたような声で、言い訳を言おうとする。
「三十過ぎて、だっても僕もないだろバーカ」
キルスが慣れた相手用の辛辣さで、ばっさりと斬る。年下らしい、意地悪な顔だ。
「え、ルトって結構年いってますね」
シャラーレフが驚いて声を上げた。キルスが内輪ではきついなりにふざけることができるのも意外だったが、ルトの年齢はそれ以上の衝撃だった。
(今までルトのことを青年だと思ってきましたが、中年だったんですね)
ルトへの認識を改めるシャラーレフ。
「あ、ヒドイ。お嬢さんの前では二十代で通そうと思ってたのに」
悔しそうにルトは、じと目でキルスを睨んで責めた。
キルスはうっすらと笑いをこらえている。
しかしキルスがからかっても、ルトはいっこうにひよこ豆に口をつけようとはしなかった。
(大人げない人ですね)
シャラーレフはルトに向き合うと、小さい子供を諭す気持ちで食べるようにうながした。
「もったいないですよ、このシチューすごく美味しいのに。子供じゃないんだから食べたらどうです?」
「……いらない」
ルトはまだ中身の残ったお椀にスプーンをからりと置き、すねたようにそっぽを向いた。
三十を過ぎた中年の男の偏食は、手強かった。
「しょうがないですね。私が食べます」
シャラーレフはどうしようもないので、残りを食べることを申し出た。食糧事情がよくない国で生まれ育ったせいか、シャラーレフは料理を残すことへの抵抗が強い。
そしてさらに正直に言うと、食べ足りない気持ちもあった。
「え、いいの?」
ルトの顔が一瞬で明るくなる。最後の最後で自分で食べると言うことを期待していたが、無駄だったようであった。
「いいですよ」
シャラーレフはルトからお椀を引き取ると、残りを食べた。
シチューは変わらず美味しかった。
「あんた、よく食べるんだな」
キルスが不思議そうにシャラーレフを見た。
「よく食べちゃ悪いですか? 別にあなたの分までとって食べる気はありませんよ」
シャラーレフは食べながらも、キルスには喧嘩腰でいた。
「悪イノハ、食ベナカッタ、ルト」
一連の会話を黙って聞いていたサームが、ぽつりと超低音でつぶやいた。いつものたどたどしい言葉ではあったが、どうやらルトに怒っているようであった。
「あはは、ごめん。サームの料理が悪いんじゃないから! 豆が悪いだけだから!」
ルトが謝罪のつもりなのか、サームを後ろからぎゅうと抱きしめた。
黒い大きなぬいぐるみのようにルトの腕の中におさまるサームは、少しだけ可愛らしく見えた。
「悪いのは豆じゃなくてあんただって話だっただろ」
すかさずキルスが突っ込みを入れる。
だが、その言葉は嫌いなものを避けられて上機嫌のルトの耳からは通り抜けたようだった。
このような調子で、食事は終わった。
その後は、それぞれが思い思いのことをした。
キルスは読書で、ルトは仮眠。サームは明日の朝食の仕込みをしていた。
シャラーレフは編み物をした。長い旅の中で暇になることも多いだろうと思い、編み棒は故郷から持ってきたのである。
娯楽の少ない故郷では、手芸や物づくりがシャラーレフの趣味だった。とりあえず現在作っているのは自分用のセーターだ。
パチパチと燃える火の向こうにいる、三人の護衛の存在を感じながら、シャラーレフは毛糸を編み続けた。そのうちに、眠くなってきたので寝ることにした。
「じゃあ、私もう寝ます」
就寝時間を決めるのは、シャラーレフのこの言葉らしかった。
「ん、わかった。見張りがんばる」
ルトが仮眠から起きて、よだれを拭きながら背伸びをした。寝ていたせいか、くせ毛にさらにくせがついている。
「それじゃ、俺も寝る」
キルスが寝袋を取りに馬車へ行く。
サームはただ、暗闇の中で静止していた。
シャラーレフは編んだ髪をほどいて梳き、コートを脱いでトランクにしまうと、寝袋を取り出した。そして、ルトが見張りをする焚き木からほどよい距離感の場所に陣どり、寝袋の中に入った。
カークトゥースを出るときに買ったその寝袋は、重さはあるがなかなか暖かい。
「それじゃ、ルトよろしくおねがいしますね」
シャラーレフは横を向いて、ルトを見た。
「了解了解! 絶対寝ないから大丈夫だよ!」
ルトはパズルの載った本とペンを持って答えた。
ルトの暇つぶしは、パズルであることが多かった。
わざわざ絶対寝ないと宣誓するあたり、かなり眠いのだろうとシャラーレフは推測した。
シャラーレフは寝返りをうって、空を見上げた。
藍色の空に、丸い満月が浮かぶ。
空気も匂いも違う異国でも、月の色は故郷と同じだった。
横に目を向けると火の光が届く範囲以外は真っ暗で、文字通りの漆黒の世界。
耳を澄ませば、ざわざわと風が草を揺らす音が聞こえた。
(不思議です。旅が始まったころは毎日野宿は無理かもしれないと思ってたのに、今はこうして普通に嫌だとも思わずに寝ている……)
シャラーレフは寝袋の下の堅い地面を感じながら、すぐに眠りについた。
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