第一章
第2話 ホテル・ディールーズ
灰色に暗い空に、ごつごつとそびえ立つ峻厳な山々。
深い谷の間を流れる、激しく澄んだ水の流れ。
それがシャラーレフの祖国・セフィードの国土の大半である。
人々は山の端にある狭い平野を耕し、質素に暮らしていた。
冬は雪深く、春と夏は短く涼しい四季である。中でもシャラーレフが一番好きなのは、麦が実り村が活気づく秋であった。
シャラーレフはその故郷の秋を、今もよく夢に見る。
屋敷の二階の窓から見える麦の穂は金色に夕日に照り映えて美しく、それを刈り取る村の人々の顔には笑顔があった。
収穫を祝う歌声は明るく、にぎやかだ。秋の日は短く、やることは多い。
だが、その忙しさこそが豊作の証であり、幸福であった。
◆
(だけど、あの実りも今はゲルメズのものなのでしたね……)
その朝もまた、シャラーレフは故郷の夢を見て、東の異国・アーザルの首都カークトゥースのホテルのベッドの上で目を覚ました。
ゆっくりとまぶたを開ければ、ベージュの壁紙に覆われた天井が目に入る。
白いシーツのかかったマットレスから身を起こし掛け布団から抜け出ると、ひんやりとした空気が身にしみた。締め切った天鵞絨のカーテンの隙間から漏れる光は薄暗く、外は曇りのようである。
シャラーレフは目をこすりながら部屋を見回した。
今滞在しているホテル・ディールーズは、武器商人として格好をつけるために選んだそれなりの格のある宿である。部屋数の少ない小規模な施設ではあるが、その分天井は高く、調度品も高価で繊細な装飾がされていた。
優美な曲線を描くランプシェードに、深い焦げ茶の磨き上げられた木のテーブル。
ベッドは人が二人寝てもまだ余裕があるくらいに大きくて、掛布団を覆うカバーも壁紙に調和したブラウンで落ち着いていた。
何週間も住んでいるためさすがに新鮮味はないが、それでも故郷の屋敷にはないその豪華さには今でもしばらくじっくり見てしまうものがあった。
シャラーレフは軽く背伸びをすると立ち上がり、ネグリジェの上に長めのガウンを羽織って、ベッドのサイドテーブルに置いてある水差しから水を飲んだ。
水の冷たさに、ぼんやりとした頭が覚めていく。
(私がセフィードを旅立ったのも、もうずいぶん前のことになりました)
つい昨日のことのように思い出せるものの、記憶は確実に遠い昔のことになっている。
柔らかい布張りのソファに腰掛けて目を閉じ、シャラーレフは故郷に思いを馳せた。
◆
シャラーレフの祖国・セフィードが西の大国・ゲルメズに侵略を受けたのは、シャラーレフが七歳のころであった。
ゲルメズはセフィードの山岳地帯に眠る地下資源を狙い、攻めてきたのである。
国力のないセフィードはすぐに敗北し、ゲルメズの属国となった。
セフィードはゲルメズに徹底的に搾取された。
資源は根こそぎ奪われ乱開発され、農作物も税として取り立てられ、その他の富もすべてゲルメズへと流れた。国民すら、その収奪の対象となった。
あまりにゲルメズの支配が厳しいので、国民の中にはゲルメズに抵抗する反乱軍に入る者もいた。
だが、ゲルメズが属国の抵抗を許すはずがなかった。
ゲルメズは反乱軍の手に武器が渡るのを防ぐため、セフィードに大々的な禁輸を実行した。武器以外の商品の輸入も禁ずる厳しいその政策でセフィードは牙を抜かれ、完全に無力な存在となった。
(そう。だから私は、武器商人になったのです。国を取り戻すための武器を、セフィードにもたらすために)
ゲルメズの武力に対抗し得る、最新鋭の武器の密輸。
それこそがシャラーレフの使命である。
シャラーレフは領主の父と先王の孫娘の母にもつ、それなりに恵まれた生まれであった。先王の血を引く人間は多くたいした価値はないが、それでもシャラーレフを姫と呼ぶ人間はいた。
また父も領地にある地下資源を利用しゲルメズと関係を深め成功を収めていたので、属国となった後のセフィードの中でもシャラーレフの実家の暮らしは悪くはなかった。良家の子女としては申し分のない未来が、シャラーレフには待っているはずであった。
しかしシャラーレフは、祖国がもはや自分たちのものでないことを受け入れて敵国から与えられた幸せを選ぶことができるほど、割り切った人間にはなれなかった。
(戦争が終わっても、ゲルメズは私たちをゆっくりと殺していきます。今のセフィードは平和だ、多少の犠牲は仕方がないという人もいます。でも、私は許せません。それが本当に平和だったとしても、私は抗います。ナハールが消えた日に、そう決めたんです)
決定的にシャラーレフを反乱へと駆り立てたのは、親友でもあった使用人・ナハールとの別れであった。
今も昔も、シャラーレフにはわからないことが数多くある。
姿を消したナハールがどうなったのか、その答えをシャラーレフは持たない。
だが、ただ一つはっきりしていたのは、彼女がいなくなったのはゲルメズの支配が原因であるということであった。ナハールは、労働資源としてゲルメズに強制移住させられたのである。
そしてシャラーレフは見過ごせずに、叛逆の道を選んだ。
武力のない祖国のために武器商人を志し、数年前に家を出た。反乱軍の力を借りて資金を手に入れ、アーザルに武器を仕入れに来たのが数か月前である。
一度始めてしまえば、結果は案外簡単についてきた。少なくとも武器を仕入れるところまでは、順調であった。
◆
シャラーレフはソファを離れて洗面台で顔を洗うと、銀色の飾りで縁取られたドレッサーの前に座った。
はっきりと鏡に映る自分の顔を見る。整ってはいるものの幼すぎる顔だ、と思う。
(だけど私が女であることは、密輸を取り締まる官憲の目をかいくぐるのには好都合でした)
くすりと笑って、櫛を持つ。
シャラーレフにとって、身だしなみを整える時間は特別だった。 着飾ることで、ただの無力な人間から頭の切れる女武器商人へと変身できる。そんな気がしていた。
シャラーレフはまず、髪を梳いて編み上げた。細くくせのない金髪はかなりの長さがあり、自慢であるが手入れはなかなか面倒である。
次にファンデーションを手に取って肌に薄くをのせ、頬に桃色のチークをブラシで少々濃い目に入れる。仕上げにくちびるに赤い口紅を塗れば、少し大人びた自分がいた。
そして、クローゼットの前に立った。
ネグリジェを脱ぎ、袖のふくらんだブラウスと丈の長い紺色のフレアスカートに着替える。白と青のコントラストが、シャラーレフの金髪に良く映えた。
姿見鏡の中の自分にシャラーレフはつぶやいた。
「では、行きましょうか」
(――と、格好つけてはみても、まず行くのは食堂ですが)
祖国のために良家の子女としての幸せは手放したシャラーレフだが、衣食住に関する幸せまでは捨てられなかった。
唐草の彫刻の入ったドアから出て鍵を閉めると、シャラーレフは肩で風を切って食堂へ向かった。
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