1時間の記憶

凩 さくね

第1話

「ふぅ……」


 いざ一人暮らしとなってみると、週に一度は必ず掃除をしないと部屋が荒れてしまう。一体どうしてこんなにモノが散乱するのか、たぶんそれは誰もいないという状況に気が緩み、ついつい後で後での繰り返しをしてしまうからだろう。どれだけ気心知れた仲でも、たとえそれが家族でも同じ空間を共有しているならば、配慮をし、そうやって物は散乱しないようになっているのだと俺は思う。


 床散らばった洗濯物を拾い集め、まとめて抱きかかえ洗濯機へと放り込む。やっと床のフローリングの一部に日が当たるようになった。


「お次は……っと。」と部屋の隅に固まっている、小説とCDの山が目に入り手を伸ばした。積み上げられていたそれらを一枚一枚、一冊一冊分別していく。すると一枚、とても思い出深い一枚が数年ぶりに姿を現した。


「あぁ、そういえば」


 手に取って眺め、懐かしい雰囲気に捕らわれると、ふと十四の夏に交わした約束の事を思い出す。交わした人数は自分を含めて五人だったか。八月十四日、夜の九時、十年ごとに卒業した中学校前に集い、四十キロ先にある海沿いの丘を目指そうという、そんな一風変わった少人数の同窓会の様な約束。


 先日猛暑が続くとぼやいてめくったカレンダーは、今日が八月十日であることを私に伝えた。


 ずいぶんと久方ぶりに地元に帰ることになりそうだ、と俺は呟き、また小説とCDの混合物を片し始めた。





 約束の地へと、約束された日取りで来てみると、もうそこには中学校の姿はなかった。もう取り壊され、買い手が決まらないのだろう残骸と思わしき瓦礫と平地だけが残っていた。


 さてさてもうすぐ、午後九時を回る。愛車と共にここを発とう。そう決め古く少しだけ錆びの付いたドアを開けた。


 大学生時代に中古で買ったこの車が私は好きだ、もう旧型も極まって不便も多い、ナビゲーションもついていない。ワンセグなんてもってのほかだ。電気自動車が主流となった現代では経由で走るこの車の維持費は通常の物より少し高い。それでも後部座席に広い空間を有していることはそれらの弱点を帳消しにしてしまうほどの利点だろうと私は思う。

大学時代には、よく大学の仲間とこの車で海へと出て行ったものだ、夏休みに身一つ車一つで旅をしたことだってある。勿論後部座席を倒してこの車で寝泊まりをした。天井の一部がガラス張りになってそこから星だったり、雨空だったりを眺めていた気がする。限られた枠に収まった世界の一部。まるで季節や天気によって移り行く絵画のようで、私は好きだった。


「さぁ、行こうか」


 娯楽少ない車内で、雰囲気を作るためにプレイヤーへ先日見つけた懐かしいCDを入れた。


「よっし! やっぱみんな集まったな!」と男声がする。


「あったりまえだろ?」とか「当然じゃん」と男女混じった陽気な返答が返ってくる。そんな様子に変わってないなと笑みを一つ零し私はエンジンをかけた。


「桐原、車ありがとな。二十四にもなって中学の時みたいに汗だく筋肉痛になるとこだった」


 四十キロの道のりは決して近いものではない。ましてや車も持ち合わせていない十四の私たちにとってはそれは途轍もなく遠いものだった。時間にしてだいたい十時間ほどだっただろうか、午後八時に出た私たちが目的地に着くころには丁度、太陽が昇り始めていた。


 それはとてもいい思い出で、しかも翌日参加した五人全員が筋肉痛に陥り、貴重な夏休みの数日を無駄にしてしまったというオチもちゃんとつき、大学でできた友人との話の種としてしばしば使わせてもらっていた。


 私の中学時代と言えば、真っ先にこの出来事が出てくるはずなのに、つい数日前までずっかり忘れてしまっていた。なんだか申し訳なさを通り過ぎて、少々恥ずかしさを覚えてしまう。


「ねぇ、ちゃんと宣言すること、みんな考えてきた?」と女の声がする、たぶんこの声はセナの方だ。「もちろん」と落ち着いた女の声がした。たぶんこちらがカエデなのだろう。


 朝日とタイミングよく出くわした私達は、その美しさに感化されたのか各々の十年後に対する誓いを立てた。誓いと大きく言ってもそんな大層なモノではなく夢物語だったり、ふざけた願いだったはずだ。もう誰が何を願ったのかすら、覚えてはいないのだけど。それでも一人一人が海に向って叫ぶ様子は印象的だったな、と今は思い返せる。


「よし、それなら次の十年に対してのみんなの宣言は後でのお楽しみということで」と何かとまとめ役で、この約束の言い出しっぺのシュンが話し始めた。


「反省会をしよう、ここ十年の。もしくは成功発表会。どう? みんなは十年前の誓いって達成できた?」


「俺の誓いは金持ちになる、だったかな」とシュン。

「俺のは彼女を作る、だった」とハヤト。


「お互い達成できないまんま十年経っちゃったな」と笑い交じりに小突き合いでもしているのだろう、ガタゴトと雑音が聞こえた。


「桐原の誓いは憶えてるぞ? 丘に着いたとき皆へっとへとだったじゃん? それを見かねてお前は、俺のここ十年の目標は大型免許取ることだな、そしてみんなが喋れるだけの体力が残った状態でここまで連れてきて、今度は昔話に花を咲かせながらこの朝日を見ることだ、って言ってくれてたよな!」


 ハヤトは嬉しそうにそう口にした、私はもう自分で言った誓いさえ覚えてはいないのだけど。


「あぁ、そうだ。だからちゃんと感謝しろよ?」と私の少しだけ笑みの混ざった声が鳴った。


「セナはどう? 叶った? っていうか何を誓ったんだっけ?」ハヤトが女性陣へと話題を振る。


「どーせ誰にも憶えられてませんよー」とセナはハヤトが憶えてくれていない事へ、中学生のように悪戯っぽい不満を漏らした。


「えっと……セナは大学進学だったよな?」と自信がなかったのだろうか、小さく男の声がした。


「そうそう! よく憶えてるね」とセナの拗ねた口調が一転明るくなる。


 これがモテるシュンと、モテないハヤトの差なのかもしれないな。と内心で勝手な比較をして小さく私は笑った。


「もう卒業しちゃったけどさ、入学するまで最後の最後まで受験勉強で踏ん張れたのって宣言したおかげだったと思うんだ。なんかね、一緒に宣言したみんなが支えてくれてるみたいで、とっても心強かった。大学に合格したおかげで将来を一緒に生きていきたいなって思える恋人も出来たし……」


 おぉ! と車内が沸く。「どんな人?」だとか「どんなところに惚れたの?」とか「イケメン? イケメンだよね!」とか、セナは他三人から様々なことを根掘り葉掘り質問責めにあっている様だった。


 慌てて赤面するセナの顔が容易に想像できる。


「カ、カエデはどうだった? 自分のお店を構えることだったよね!」


 質問責めから逃れるようにセナが話題を逸らす。


「憶えててくれてありがとう!」と上機嫌なカエデの声が聞こえた。


「実はみんなに報告があるんだ!」と聞こえ一同が「何々?」と少々の疑問を口に出す。少しだけ勿体ぶったように間をあけた後、カエデの声が聞こえ始めた。


「来月から、駅前に記念すべき一号店が開店します!」


「おぉぉぉ!」とか、「やったじゃん‼」とか「さすがだね!」とか、まるで、それが自分の事かのように皆が騒ぎあげるものだから、車内は相当に騒がしくなった。それ程に彼女を心から祝福したのだろう。去年までずっとフランスのパティシエの元で修業を積んでいた、と彼女は告げた。


 夢が誰しも叶うとは限らない、寧ろ叶わない人間の方が大半を占めるだろう。誰しも妥協の誘惑にそそのかされ、適度な具合でその妥協を受け入れる。自分に限界を作り、その自分に納得してしまう。


 最後の最後まで夢を見続け、自分を信じ続けたからこそ、大きなそれこそ誰もが一度は見る夢の様な大きな夢を叶えることができたのだろう。


「また十年後へ今日宣言するわけだけど、カエデなら何でも叶えちゃいそうだね!」とセナの祝福のこもった声がした。


「じゃぁ、今度は白馬の王子様が来ますようにって、ねがってみようかな」と彼女は今時存在する数ある願いの中でもたぶん、最高難易度を誇る物を易々と、おどけた口調で語ってみせた。


 カエデなら本気でやりかねない、という意見で皆が合致してまた車内が騒がしくなった。





 出発し、四十分が経とうとしていた。随分と錆び廃れ明り一つなくなった住宅街が優占していた景色にやっと切れ目が見えた。


「お! もう住宅地抜けるんだ。十年前なんかここに来るだけで四時間以上かかったのにね」とカエデが言うとハヤトの声が返る。


「そうそう、ここから山道でみんなヘトヘトでさぁ、誰もしゃべれなかったよなぁ」


「え? そうだったっけ?」とセナの間が抜けた声が上がった。大よそ自分が憶えていた記憶とハヤトの証言に何らかの差異、もしくは違和感を覚えたのだろう。


 嘘をつくなとシュンの声が聞こえ、また男二人のじゃれ合う小突き合いの音が聞こえた。


 若干、ホモホモしい会話は全て聞き流す。


「あー、思い出した。山登ってた時ってさ、ハヤトの恋愛相談とかしてなかったっけ?」

「そうそう、ヒメカワだっけ? 同じクラスだった奴。そいつのどこに惚れたのかとか聞いたりして、そしたらハヤトがやたらいいリアクション取るからメンバー総手で弄ってたよな」

「うん、ハヤトの告白の台詞とかみんなで考えたな~」

「ごめんなさい、嘘ついたことを謝るから掘り返さないでください!」


 羞恥に飲まれ台詞には勢いがあった、ハヤトのそういう顔は割と簡単に想像できる。たぶん、十四のここを通った時も同じような顔をしてたんだろうな、とか思った。


「俺たちがそこまでしたのに、結局告白当日きょどり過ぎて伝わらなかったんだったよなー」と私の声が鳴った。


「あぁ、もうやめてくれ! そこは俺の黒歴史だから! 勘弁してください!」


 また、どっとにぎわった音が聞こえてきて、運転中だった私も思わず声を上げて笑ってしまった。


 夏の夜風が、全開にした窓から心地よく吹き込み、私の頬を撫でる。昔感じたすべての物を一瞬だけ取り戻せたような気がした。鳥肌が立つほどの爽快感が体の芯を貫いたような。一体こんなものを感じたのは何年ぶりだろう。


「あ! あの木憶えてる? あそこの大きな木」

「忘れれないだろ……」とシュンが苦笑交じりに吐く。


「一休みしようとしたらイノシシ出てきてみんな死に物狂いで逃げたとこだよね、シュンが一番危なかったっけ?」


 そう、あの時は死ぬかと思った。とかビックリしたよね、とか。ハヤトが今ならあのイノシシに勝てそうな気がする、と言い出したのでダチョウクラブ顔負けの譲り合いの精神で、どうぞどうぞとハヤトが車から降ろされそうになる。そんな茶番の様な実に微笑ましいやり取りが聞こえてきた。


 改めて自分が仲間に恵まれていたのかを思い知る。これだけ奇怪なそして愉快な仲間とともに時間を過ごすことはもう、後にも先にも無いだろうな、と感じる。


「そういえばさ、カエデ。さっきから何弄ってるの?」

「あーこれね、実はみんなの会話最初っから録音しておいたんだ。ほら、今度十年後に集まった時にさ、こんなこと言ってたなーとか聞いて楽しめるじゃん?」


 私は彼女に心底感謝をした。


「ちょっと待って! 俺の恥ずかしい過去掘り返されたんですけど⁉ もしかしてそれも入ってる……?」


「もちろん」とカエデの嬉しそうな声が聞こえた。


「まぁ、いい思い出になるさ。十年後」とシュンがハヤトを励ましているのか、笑い声が混じっている辺り茶化しているのか。


 それからは、下らなくも掛け替えのない会話がとめどなく流れた。運転中というのに腹を抱えて笑ってしまうくらいのモノもあった。


「お! みえたね」「見えたな」「やっとだな」「着いたー!」


見晴らしのいい丘、そこから見える漆黒の海。私たちの約束の場所。ようやく、長い時間を掛けて私はこの場所に戻ってきた。


「桐原、運転お疲れ様」「ありがとな。十年後は俺が大型取ってくるから!」「今度うちのお店でご馳走してあげるから、期待しててね」「ごめんね、みんなで騒がしくしちゃって。ご苦労さま、運転お疲れ様」


 各々が私に感謝を投げかけてくれたところで、プツッとスピーカーから流れていた全てのものが止まった。


 ふぅ、と一つ息をつき、重い腰を上げドアを開ける。


 六十年前、二十四歳になった私達は約束通りに全員がここに集った。そして各々の思いを叫び誓いを立てた。そして朝まで喋り明かした後、カエデの実家に行き五枚のCDが焼かれ一人一人に手渡された。私は翌日仕事が入っていたのですぐに都心のアパートへととんぼ返りをしたのだが、私以外のメンバーは実家に数日止まるとのことだった。


 八月十五日、それは奇しくも終戦記念日と全く同じ日時の出来事だった。


 南九州四国大震災。またの名を南海トラフ地震。その地震でマグニチュード八・二を私の地元は記録した。沿岸部は勿論、内陸部でも壊滅的な打撃を受けた。ただでさえ少子化が進行していた私達の中学時代を過ごした町は、規模が小さかったこともあり、他の県や町へと大半の人が移動していき、復興が諦められるほど寂れ切った。


 今現在、この町に住んでいる人は一人もおらず、数年前、地図から町名が消されたらしい。


 震災で中学校は崩壊し、誰も使用しなくなった道路はひびが入ったままの状態で残っている。四人はその震災で命を落とした。


 俊、隼人、瀬奈、花楓。忘れまいと思っていたのに、私がぼけてしまったのか、薄情にも忘れてしまっていた。全く老化が極まってきたのか。だから老けたくはないものだ。


 家内が五カ月前に他界し、それを機に私の心の中にはふっと思い出したように蟠りを覚えていた。なにか、しなければいけないことが残っている気がする。


 老い先短くなった今。死期が迫ったのを感じ取ったのかもしれない。


 今年が最後のチャンスだと体はわかっていたのだろう。


 何をなすべきか、私はやっとはっきりさせることができたのだと思う。その意志をもって素子相応の覚束ない足取りで黒く染まった海へと進む。


 一人称が俺から私になり、家庭を持ち、妻を失い、友を失い、髪は白くなり、腰は曲がり、故郷を失い、最後にここを訪れてから大きく変わってしまった私が、今回宣言すること。


「ありがとう」


 誰もいないこの場所を愛しみ、ただ眺める。


 私は伝えたかったのだ、六十年前友が死んだあの日からずっと。


「お前たちに出会えて、私は幸せだったよ」



 そう言って、私は海へ大きく笑って見せた。

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