1954年 空と夢を託す彼ら ~テキサン来校編~

第48話 1954年6月①

 ──1954年6月──


 梅雨明けと夏は突然に訪れた。いくら天井が高く、日影であるとはいえ風の通らない格納庫は、さながら蒸し風呂の様相を呈していた。


 この蒸し風呂を仕事場としている同僚たちは、その命あるまで、扇風機のある詰め所でくたばっている。ここ数年で暮らし向きがよくなったとはいえ、扇風機なんていう贅沢品が使えるのは、流石米軍基地といったところだった。


遠くから、連続的な騒音が聞こえてくる。セミの合唱にはまだ早い季節だ。


正体を考えるまでもなく、徐々に大きくなるその音──複数の回転音が近づいてくる。彼らが帰ってきた。


少し背伸びをし、安全帽を被る。詰め所に戻って、同僚たちに仕事の合図を知らせに行く。


「なんでぇ、今日はやけに早いな」


「機械故障だけはやめてくれよ、俺もう米兵さんに囲まれて説教されんのやだよ」


「まあ故障なら十中八九お前の機だろうな。機付長なんてするもんじゃねえよ。」


同僚たちはぐちぐち言いながら、出勤していく。最後、誰もいない詰め所の扇風機を誰も消していないことが分かって、ため息をつきながら消しに戻った。


動力を失い、キュルキュルと音を立てながら、4枚羽は徐々に速度を失っていく。


「お前ぐらい簡単についたり止まったりしてくれりゃ楽なんだけどなあ。」


 そう言いつつも、喉の奥では「まあ、それはそれでつまらないけど」との音が引っ込んでいる。


 すっかり夏模様となった空を背景に、鮮やかな黄色い機体が8つ、左右にフラフラ揺れながら誘導路を進んでいく。


 旧来の尾輪式──機首側にエンジンが搭載されていて、前方に重量が偏っているため、機首側に逆三角形に車輪が配置されている飛行機は前方視界性が悪く、真正面が見れない。左右から覗き込む形になるので、たかだか数10時間程度の飛行時間しかない学生は、真っ直ぐ進むことができなかった。


 それを見て、同僚たちは意地悪く茶化していた。


 「なんでまた、今日はあんなにふらついてるんだ?」


 手近な一人に話を振ってみる。

 

 「そりゃ隊列の先頭が、今日初めて飛んだ奴だからだろ。後ろがおっかなびっくりして前の動作をまねてやがんだ」


 「鴨の親子だな」


 素直な感想を述べると、それで冗談言ったつもりか、と馬鹿にされてしまった。


まるで酔っ払いの千鳥足のような足取りで、黄色の機体たちが格納庫に入ってくる。


自分たちの班が整備を担当する機体が所定の場所に停止し、エンジンを停止する。安全が確保されたことを確認し、班員に指示を出した。


機体の前席からは、フラフラの学生が、後席からは、一切の疲れを感じさせない、長身の米兵パイロットが、それぞれ機体の左右から降りてくる。


米兵パイロットと満身創痍の日本人学生が、英語でいくつかのやり取りをした後、米兵が学生を先に帰した。


「オサム。」


米兵パイロットが、班長である自分に声をかけてくる。


『操縦桿が他の機体より硬い。パイロットが余計に疲れる。ワイヤーのテンションを下げろ』


『わかりました。他に何か心配事はありましたか。』


『いや、よく整備されている。英語の話せるエンジニアがほとんどいないからな。機付長としていい仕事をしている。』


『ありがとうございます。サー。』


事実、英語が話せることのアドバンテージは大きかったし、班員にも機械好きが多いから、恵まれている。それでも、自分のやりたかった仕事で、働きが褒められて悪い気はしなかった。


「ウズラ!洗浄始めていいか!」


やり取りが終わったのを見計らって、班員が訪ねてきた。


「ああ、さっさと終わらそう!それとウズラと呼ぶな!米兵さんまで呼び始めたらどうすんだ!」


「へいへい分かりましたよ、鶉野うずらの機付長殿!」


このやり取りをした回数を数えることはもうやめた。ため息をつきながら、整備マニュアルを開く。


機体の過熱具合を確かめるために、ボディに触れる。触れる程度の熱は、まるで巨大生物の体温のようだった。


側面に大きな「083」の文字。ノースアメリカン社製 初等練習機 T-6G TEXAN。保安庁が名付けた日本名称は””。


戦後初めて、日本の空を飛んだ──”日本”が飛ばした飛行機。


アルミ合板でできたモノコックボディをバン、と叩く。083号機担当・鶉野班の傾注の合図だ。


「今日もいつも通り2時間以内にチェックリストを終わらせること!それとフラップワイヤーの張力を少し下げておくようにとのご要望だ!仕事始めるぞ!」



──────────────────────────────────────



 大戦に敗北してから10年足らず。未だ連合軍の統制下にあった日本。


 ”航空禁止令”──航空関連組織の結成、航空機関連機器の開発設計製造、設備の所有、教育、研究、そのすべてが禁じられ、日本の空は閉ざされていた。


 しかし1953年、朝鮮戦争の終結によって、日本は東西陣営の最前線に立たされることとなる。自由主義陣営に自衛力の強化を求められたことで、戦後初、日本初の航空組織、”保安庁保安隊松島臨時派遣隊”が結成されることになる。


 1954年。宮城県、「キャンプ松島」。


 彼らの任務は、米軍より供与された練習機──T-6テキサンで、戦後初のパイロットを養成すること。

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