明治横濱ものがたり

初音

明治横濱ものがたり




 夜が来る。山が、海が、街が、闇に包まれる。

 幼子でも知っている当たり前の事実。




 戊辰の戦から5年。

 そんな当たり前の夜の闇が、光に包まれる日がやってくる―――


 横浜生まれ横浜育ち。そう言うと、江戸――そうだ、もう東京って言うんだった。東京の人でさえ、羨ましがるだろう。


 ここには日本で一番新しいものが集まる。

 なんて言っても、全部異国から持ってきたものばかり。西洋では、そういうものが人々の生活に溶け込んでいるらしい。


 西洋西洋ってみんなうるさい。


 新しい”政府”っていう薩長さっちょうの人たちは「尊王攘夷そんのうじょうい」を掲げていたんじゃないの?

 だったら、早く異人なんか追い出してよ。





「Hi! Do you live in neighborhood?」


 ちょっとした買い物に行くだけでもこのわけのわからない言葉で彼らは話しかけてくる。鬼みたいに大きな鼻で、ぎょろりとした目で。

 知り合いでもないのに、馴れ馴れしいったらありゃしない。


 私は妹の千代を連れて一目散に逃げ出した。


「お姉ちゃん?どうしてそんなに走るの?」

「異人と関わっちゃダメ。特にああいう大男は、千代みたいな子供を取って食べるっていう噂よ」

「そうなの?でも父様は異人さんも悪い人ばっかりじゃないって」

「そのいい人と悪い人をどうやって見分けるの?とにかく、関わり合いにならないのが一番よ」


 千代は知らないのだ。異人の恐ろしさを。

 物心ついた時から当たり前みたいに異人がウロウロしてたわけだから、仕方ないと言えばそれまでだけど。

 でも、千代は私が守らなきゃ。


「あっ、ふみちゃんじゃない!お買い物?」


 友人の春ちゃんの声がした。しかし、振り返っても声の主はいない。


「こっちこっち!」

「えっ!春ちゃん?」


 私がすぐに気付かなかったのは無理もない。


 春ちゃんは、西洋風の着物に身を包んでいた。


「どうしたの?その格好」

「いいでしょ?ドレスっていうんだって」


 正直、似合っているのかわからなかったけれど、「へえ、素敵ね」と言っておいた。春ちゃんまで、異国かぶれになってしまった悲しさの方が大きい。


 ここ横浜に住む人間は他の地域の人より異人を実際に目にする機会が多いから、異人が好きか、嫌いか、はっきり別れる。もっとも、「嫌い」派は年々少数派になっているみたいだけど。



「最近、日本にもたくさんドレスが入ってきていて、私たちみたいな庶民にも買えるくらいの値段になってきてるのよ。ふみちゃんもどう?」


 嬉しそうに笑う春ちゃんに向かって、しかめ面が表に出ないように顔に力を入れる。私は「異人嫌い派」の最後の1人になっても、「攘夷」を主張してみせる。


「そうね。でも千代もまだ小さいし、私の着物にお金を回す余裕はないわ」

「そう。残念ね。でも、来月のガス灯の点灯は見に行くでしょう?」

「何?」

「知らないの?ガス灯の点灯よ。この、今周りに立ってる棒のこと何だと思ってたの?」


 クスクスと笑う春ちゃんをよそに、私はあたりを見回した。

 確かに、ここ最近この通りには整えられた木のようなものがタケノコみたいな速さで立っていた。でも、それが何かなんて気にしたことなかった。


「ねえねえ、がすとうって何ー?」千代が無邪気に春ちゃんに尋ねる。

「あの棒の上にびいどろの箱みたいなものが乗っているでしょう?あれに明かりが灯るのよ。行灯あんどんの何倍も明るいって言われてるんだから」

「へぇ!すごい!お姉ちゃん、わたし、”がすとう”が見たいよ!」

「ダメよ。夜は出歩かないって約束でしょ」

「大丈夫よふみちゃん。本当にびっくりするくらい明るいらしいから、夜でも外を歩けるのよ」

「お姉ちゃん、春ちゃんが大丈夫って!」


 私の着物の袖をぐいぐいと引っ張ってねだる千代の手を無理やり握ると、「とにかく、帰るわよ」と踵を返す。


「春ちゃん、その話はまた今度ゆっくり。私たちは急ぐからまたね」


 半ば強引に話を終わらせて、千代の手を引いて家路を急いだ。


 夜に外を歩く?冗談じゃない。

 だいたい、異人の作った明かりなんて、信用できるもんですか。



 私がこの世で一番嫌いなものは、異人と、夜の闇。


 思い出しても体がブルリと震える。





 13歳の時。ある夜、うちの近くで火事があった。


「おふみちゃん、お千代ちゃん!大丈夫?」


 近くに住むトキおばさんが様子を見に来てくれた。2人きりで暮らしている私たち姉妹のことをよく気にかけてくれる。ありがたい存在だけど、甘えすぎるわけにもいかない。母様の、お兄さんの奥さんという、血の繋がりのないおばさんだから。母様も叔父様ももうこの世にはいないのだから尚更だ。


「ここまで火が来るかもしれないから、私の家に来なさい。こっちなら、少しは火元から遠いから」

「それでは、千代を連れて先に行ってください!私は大事なものをまとめて追いかけます!」

「わかったわ!くれぐれも気をつけるのよ。お千代ちゃん、おいで」


 トキおばさんは千代を抱きかかえ、東の方へ走っていった。


 私は早くおばさん達に追いつこうと、急いで荷物をまとめた。母様の形見の着物、千代が大切にしている人形、それから、父様から送られてきたお金。本当は、まだまだ母様の形見の品を持っていきたいところだけど、持ちきれない。

 こちらまで火が来ませんようにと祈りながら、最低限の品々を風呂敷に包んで、よいしょと背負った。

 外に出ると、確かに西の方の空が夜だというのに橙色に光っていた。火消しの人たちが、目の前を走り去っていく。


 私は、火消しの人たちとは反対におばさんの家へと向けて走り出した。






 おばさん家は、どっち?


 火事の現場から離れれば離れるほど、あたりは暗闇に包まれていき、歩き慣れたはずの道で私は迷ってしまった。しかも、火事の明かりを当てにしていたから、自分の提灯を持っていない。

 どうしよう、どうしよう、と、だんだんと冷静に判断できなくなっていく中で、少し先の曲がり角から現れた人影に、私はすがるように駆け寄った。


「あの…!」

「Wow! What's up, girl?」


 どうしよう…。異人だ。


 異人の世話にはなりたくない。

 でも、背に腹は代えられない。

 でも、やっぱり異人に借りを作るなんて…。

 だって、異人は母様のかたきだ。


 悩んだ末、私は後で考えれば暴挙といえる行動に出た。

 2人組の異人のうち、片方が持っていた提灯を奪い、走り去ったのだ。


「Hey!What're you doing!?」


 何言ってるかはわからないけど男たちはとにかく怒っているようだ。私のことを追いかけてくる。必死に逃げたけど、男の人から逃げ切れるはずもなく、私は右腕を捕まれて動きを封じられた。


 提灯に照らされた異人の顔はこの世のものとは思えなくて、化け物みたいにおっかなくて、私は自分のしたことを後悔した。


「Return it!」


 たぶん、返せって言ってるんだ。

 暗闇に1人取り残される恐怖と、異人に何かされるかもしれないという恐怖と、どっちがマシだろう?


 私は、とにかく異人から逃げることを最優先にすることにした。

 捕まれている腕をぶんぶんと振りながら、どうせ通じないのだからと言葉使いなんて構わずに異人相手にまくし立てる。


「あなたたち2人で2つ持ってるんだから、1つくらいくれたっていいじゃない!異人のくせに!異人のくせに!」


 この2人の異人が何か悪いことをしたわけじゃないのはわかってる。

 むしろ、今悪いことをしたのは私だっていうのもわかってる。


 でも、でも……


「あんたたちさえ来なければ、母様はコロリで死んだりなんかしなかったんだ!!父様、だって、あ、あんたたちのせいで遠くでお仕事しなくちゃいけなくなったのよ!」


 最後の方はぐすぐすと泣きながら。そんな私を見て、異人たちは困ったような顔をして手を離した。その拍子に、私は持っていた提灯を取り落としてしまい、火が消えてしまった。


「Shit!What a strange girl!」


 異人たちは残り1つになった提灯を持って、去っていってしまった。


 結局、真っ暗闇に包まれてしまった恐怖と、異人への恐怖と怒りと、その他ぐちゃぐちゃした気持ちがわーっと押し寄せてきて、私はもういい大人にならなきゃいけないのに、そのまま真夜中の往来でわんわん泣き続けた。


 その後は、泣き声を聞きつけた近所の人が駆けつけてくれて、おばさんの家まで送ってもらった。私のいた場所が実はもうおばさん家の目と鼻の先だったって知ったのは朝になってからだった。ちなみに、自分の家も無事だった。







 呼び覚まされた忌々しい記憶に、私は身震いする。


「お姉ちゃん、どうしたの?」


 千代に声をかけられ、ハッと我に返った。


「怖い顔してるよ」

「そ、そう?なんでもないわよ」


 必死に笑顔を見せる。


 あの後どこかの家の後妻になったトキおばさんはもう頼れない。


 異人と仕事をするために横須賀に行ったきり月に一度しか帰ってこない父様には、お金のことしか頼れない。


 だから、私が千代のお母さん代わり。

 弱いところなんて見せられない。








 翌月、父様が横浜に帰ってきた。

 久々に家族3人で目抜き通りを散歩する。

 春ちゃんが言っていた「ガス灯」というものはなんだかまた増えている気がした。


「ふみ、千代、明日の夜、ここのガス灯に明かりが灯るんだ。見に来ような」


 この言葉に、千代は目を輝かせ、私は顔をしかめたのは言うまでもない。

 絶対行くもんかと思っていたところに、まさか父様から行こうと言われるなんて。私にしてみれば青天の霹靂と言って差し支えない。


「父様、ガス灯ってとっても明るいんでしょう?春ちゃんが言ってたの!」


 私の暗い気持ちをよそに、千代は繋いでいた父様の手を楽しそうに振っている。


「そうだよ。父さんの知り合いもこのガス灯の建設に関わっていたんだ。明日は大事なお披露目だから、ふみも、一緒に来てくれないか」


 父様はお見通しだ。私が断ることを見越しているようで、念押しするみたいな言い方をする。

 御一新の前とは別人のような、ざんぎり頭で洋装をしている父様と並んで歩くのさえ、私は心穏やかではないというのに。


「父様と千代で行ってきてください。私は留守番をしておりますから」


 最後の抵抗だ。


「ふみ。こっちだ」


 父様はいい、ともダメ、とも言わずに私を手招きして細い小道に入った。そこを抜けると、海岸に出る。


 海風でバタつくたもとを押さえ、海辺を歩く父様についていく。潮のにおいが鼻にツンと香ってくる。


 父様は、桟橋の近くで足を止めた。


「海は広いだろう?」父様は子供みたいに無邪気で、嬉しそうな顔をして言った。私はといえば、どうやったら断れるのか、抵抗しきれるのか、ということばかりに考えがいっていて、父様の問いかけには「そうですね」とぶっきらぼうな返事をしてしまった。


「ふみ。父さんはな、船を造ってるんだ。この広い海を、どこまででも渡っていける船を。もちろん、ふみが異人を嫌っているのはわかる。コロリは、異人が持ち込んだ病気だと言われているからな」


 それなら。どうして。

 頭によぎった言葉を口にする前に父様が続ける。


「だが、もう日本が江戸幕府の時代に後戻りできないこともわかるだろう?異国のものを受け入れて、前に進むしかないんだ。父さんの造った船は、メリケンやイギリスに行って、向こうの進んだ発明品を持ってくる。その一つがあのガス灯。秋に開通する陸蒸気おかじょうきもそうだ。それにこの先、遠くにいる人と話ができるようになったりもするんだよ」

「そんなものがなくても、今まで生きてこられたんですから、これからだってなくても困りません」


 私はぷいっと顔を背けた。

 異人がいなくたって、異国のものがなくたって、全然困らない。

 父様はわかってない。

 私は父様と千代と、望めないとはわかっていても、母様と、穏やかに暮らしたいだけだったのに。


「まあ、そう言うな。とにかく、明日はガス灯の点灯を見に行こう。お前の考えも少しは変わるだろう」







 翌日、暮れ六つ(日没30分後)を過ぎてから、父様と千代に半ば無理矢理連れ出される格好で、私たちは馬車道の通りに向かった。


「あら、ふみちゃんじゃない!なんだ、結局来たのね!」


 この前来ていたドレスに身を包んだ春ちゃんに出くわした。


「うん、まあ、ね…」


 私は気のない返事をすると、先を歩く父様からはぐれないよう、すぐに春ちゃんに別れの挨拶をして小走りして父様に追いついた。


 すると、父様は知らない異人と話していた。相変わらず何を言ってるのかはさっぱりわからないけど。私は情けないとはわかっていても、隠れるように千代の後ろに背を向けて立った。


「Tadayoshi, are they your daughters?」

「Yes, they're. Elder is Fumi, and younger is Chiyo.」

「Oh, they're cute and look clever.」


 父様はいつの間にか身につけていた異国の言葉で話していた。ふみ、と千代、だけは聞こえたから、たぶん私たちのことを紹介してるんだろう。

 異人との会話をさっさと終わらせて欲しくて、私は遮るように父様に話しかけた。


「父様、この人は?」

「ああ。父さんの仕事仲間でな、ロニーさんっていうんだ。ふみと千代のこと、美人で賢そうだって言ってるぞ」

「そ、そうなんですか…」


 異人に褒められたことなんかなかったから、私は驚いてしまってそんなことしか言えなかった。


「Now, they'll be turned on soon.You'd better turn it off.Bye-bye, Tadayoshi,Fumi,and Chiyo.」


 異人の男性は、なんだかわからないけど最後に私たちの名を呼び、手を振りながら去ってしまった。


「もうすぐガス灯が点くから、提灯は消した方がいいよ、だってさ」


 父様がそう説明してくれた。

 確かに、通りに集まった人たちは徐々に手持ちの提灯の火を消していて、同時に、父様のような西洋風の格好とはまるで反対の、股引に尻端折りをした男の人たちが何かの入れ物を持ってガス灯1本1本の前に立ち始めた。


 やがて、全員の提灯の火が消え、あたりは闇に包まれた。


 やっぱり来なければよかった、と後悔と恐怖に心の臓がざわつくのを感じた。私はとっさに父様の服の裾を掴む。


 もう暗闇の中で、1人になるのは御免。


 時間にすればほんの少し、けれど、私にはとても長く感じられる暗闇の時間。

 怖くて、怖くて、ぎゅっと目をつぶっても、同じように真っ暗で。

 このまま、目を閉じていよう。


 その時だった。


 目を閉じていてもわかる。

 瞼の向こうで、街が、光っている。


 私は、ゆっくりと目を開けた。


「嘘…本当に夜なの…?」

「お姉ちゃん、すごい!すごいよ!きれいだねー!」


 嬉しそうに、無邪気にぴょんぴょん飛び跳ねる千代に、私は同意せざるを得なかった。


「うん、すごいね」


 4尺か5尺くらいの間隔で通りの向こうまで立ち並ぶガス灯の明かりは、幻想的で、びっくりするくらい明るくて。

 お日様には敵わないかもしれないけど、月よりも、火よりも、星よりも明るい。


 夜なのに、提灯がなくても、父様の顔も千代の顔もはっきり見える。


「ふみ」


 父様が私に笑いかける。


「文明開化は、日常にある壁を越えさせてくれるんだ。暗くて出歩けなかった夜も、もう怖くない」


 自分でも意図せず、私は父様の言葉に頷いていた。


 人々の歓声が聞こえる。

 美しい光にため息を漏らす人もいる。


 私はその眩しさに目を細めながらも、ガス灯の光を真っ直ぐに見据えた。


 きれい。


 そう認めるのは、正直に言えば癪だった。大嫌いな異人の発明品なんて。


 あの火事の夜、暗闇に私を1人取り残したのは異人。

 今夜、その暗闇をこんなにも明るく照らしているのも異人。 

 

 認めたくはないけれど。

 もしかしたら、これから本当に、夜の闇に怯えずに済む時代が来るのかもしれない。


 そう思ったら、不思議と胸の中ですうっと霧が晴れていくような心地がした。


 あの火事の日の夜とは別の意味で、この日の夜を、私は時が経っても思い出すだろう。


 真っ白な明かりに照らされた人々の笑顔を見て、私もつられて微笑んだ。 

 


 

 

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