31. 迷宮

 信号の多いバスが停車と発進を繰り返す度に、吊り革がギシギシと音を立て、乗客同士で小さな謝罪が交わされる。荒い運転手に当たるのは、大学への路線バスによくある不運だ。


 ソバージュの髪を揺らせる女学生が、亨の隣で一心にスマホをいじくっている。片手は吊り革を握っているのはいいが、踏ん張りが足りていない。平然と彼の肩を支えにしてくるのに対し、普段なら舌打ちくらいは返しただろう。


 今の亨は、彼女のマナーが悪かろうがどうでもいい。その左手の指が狂ったようなスピードで文字を打ち込んでいるが、実に器用なものだ。彼女の離れ業にも関心は無い。彼が注視したのは、その手にしたスマホを保護する外枠、真っ赤な塗装が施された樹脂製のカバーだった。


 彼女の目は液晶画面に釘付けで、亨もまたその画面を斜めから覗く。液晶から突き出したハギの顔が、彼を見つめ返していたからである。


 バスが舞台とは先が思いやられる。事故に繋がるなら、逃げ場が無い。

 これまでなら魚が彼を救ってくれたものの、危険が迫っていると思えば身構えてしまう。スマホから視線を移動させた亨は、窓の外や他の乗客を観察する。


 停留所で急ブレーキを踏まれ、乗客たちは大きく傾いだ。こうも荒っぽいと、交通事故の心配も絵空事ではない。起こりうる衝突に備えつつ、もし無事に大学へ着くようなら彼女を尾行することにした。


 緊張する彼の予想に反して、バスはその後も順調にバス停を消化し、次は大学前というところまで進む。美大で一番背の高い中央棟が、車窓からも見えた。心配し過ぎたかと亨が肩の力を抜いた時、深紅の魚が宙に跳ね上がる。


 空中で器用に反転したハギは、道中、電源を入れっぱなしだったスマホへ垂直降下した。勢いよく体当たりされた衝撃で、女学生はスマホから手を放す。


 きゃあっと叫ぶ彼女の足元へ、魚とスマホが転がり落ちた。拾おうと腰を屈める彼女よりも早く鈍い爆裂音が車内に響き、びっくり箱のように液晶パネルが本体から弾け飛ぶ。


 一瞬、亨の膝近くまで炎が立ち上がり、彼も女学生も距離を取ろうと後退った。満員のバスで、すかさず避難するのは難しい。本来なら衣服に延焼してもおかしくなかった。


 窮地を救ったのはまた魚だ。火に絡み付いたハギが、光の粒となって床に撒き散る。炎は魚と一緒に、焼けたスマホだけを残して消え去った。


 大学前に到着したことを告げるアナウンスが流れ、バスが減速する。

 バスのフロアから顔を上げた亨は、駅に滑り込もうとする列車の中にいた。





 次は高校……いや、中学かと亨は見て取る。

 同じグレーのブレザーでも、ポケットの位置やボタンが違った。停車した電車を降りて真波駅に降りた亨は、自分がいつに飛ばされたのかを考える。


 ぼやけた頭でも、これが中学三年の時だと自信を持って言えた。決め手になるのは服装でも駅の電光掲示板でもなく、左手に持った黒い筒、賞状入れだ。美術コンクールの一般部門で入賞した彼は、市民ホールで開かれた授賞式に一人で出席した。


 夜の式について来ようとする母を、何度も押し止めたのを思い出す。既に賞状を貰ったのなら帰り道だということ。しかし、帰宅途中に何か起きたのか、こちらの記憶は例によって甚だ不確かだった。


 ラッシュで混雑するホームを抜け、改札に向かおうとした彼を人波が妨げる。午後八時前となるとこれも仕方がないだろう。亨はホームの端に寄って、立ち並ぶ通勤客の前を歩いていくことにした。


 サラリーマンたちは点字ブロックのラインから離れて立っていたため、線路際を通り過ぎるだけの隙間がある。厄介だったのは大学生らしき五、六人の集団で、この早い時間から顔を赤らめ、列の先頭でふざけ合っていた。


 さっさと彼らの前を抜けようとした時に、運悪く次の快速電車の案内が放送される。振り返れば、駅に近付く濃いベージュの車輌が見えた。降りて来る人の流れに乗ればいいかと、亨はその場で到着を待つ。


 ゲラゲラと大声で騒ぐ連中が鬱陶しく、背を向けて列車の到着を見守った。その先頭車輌が、次第に激しく光り出す。車体と似た茶色だった光は、すぐにもっと美しい琥珀色アンバーに変わり電車から分離した。


 減速を始めたとは言えまだスピードの乗った電車を超す速度で、琥珀光が駅へと急接近する。近づく光はやはり魚、高速で泳ぐ姿が似合うカジキだった。


 どこへ泳いで行くつもりなのか見極めるべく一歩前に踏み出した亨の背中へ、じゃれてバランスを崩した大学生が倒れ込む。線路へなだれ落ちようかという亨と学生を、眼前で急ターンしたカジキの尾が薙ぎ払った。


 周囲の人間を巻き込みつつ、二人はホームの内側へ吹き飛ぶ。仰向けになった亨の耳に、電車が到着するブレーキの軋みが聞こえた。


 琥珀の光が、パラパラと彼の全身に降り懸かり、彼の見る景色はまた塗り替えられる。光が消えた時には、駅のトタン屋根も無くなり、ただ雨空が広がっていた。





 時代も場所もバラバラに、魚は亨を欠片・・から欠片・・へと連れ回した。


 小学校への通学路。ぬかるみで足を滑らせ、倒れた先には割れたガラス瓶が放置してあった。瓶を魚が弾かなければ、大怪我を負ったことだろう。


 大学を出て移り住んだ自宅では、当初中古の電子レンジを使用していた。叔父がくれたこのレンジは漏電を起こし、コンセントを抜かなければ感電したところだ。抜いてくれたのは、黄緑の魚である。


 感電は、勝手口の外灯でも経験しかけた。蛍光灯を取り替えようとカバーを外した瞬間、銀色の魚が灯具へ激突する。バチバチと空中に放たれた火花は、光の粉と共に散って消えた。


 どれほどの魚が、亨を危険から守ってくれて来たのか。守り続けてくれるのか。


 自転車でトラックと並走していた中学生の亨は、曲がり角の手前でクラゲに押し倒される。ギャラリーに向かった冬の朝、シャッターの前で凍った水溜まりは、サクラマスが体当たりして叩き割った。こうやって連続して再現されれば、嫌でも理解出来る。魚がいたから、致命傷を避けられたのだと。


 いつの出来事か容易に分かる欠片もあれば、どうにも判断できないものもあった。少なくとも、幼少から独り立ちするまで、常に魚と一緒に歩んで来たらしい。

 何十回と繰り返される救出劇を、亨は主役として演じ続けた。孤独な十代から、自立した二十代へ。大人の重い身体から、小学生の軽やかな姿へ。


 そして、セルロイドの人形を思わせる艶やかな小さい手に変わる。若いなんてものではない幼児――三、四歳くらいの掌を亨はぼうっと見つめた。


 手から自分の腹に視線を落とし、服が真っ赤に染まっていることにぎょっとする。痛みは無い。詳しく調べようとした彼を、後ろから大人の手が抱き寄せた。


「亨! ああっ……」


 斜め上に首を捻り、声の主に振り向く。

 泣き腫らした母の若さに、妙な居心地の悪さを感じた。離れたくても、回された腕の力が強くて身動きが取れない。そこへ父まで登場し、二人まとめて抱えたのだから尚更だ。


「信じられん! 生き返ったのか!」


 両親以外にもう一人、傍らに立つ人物がいた。その男を見ようと、母の肩越しに苦労して首を伸ばす。

 口を開け、間抜けな顔を作っていたのは佐路啓太郎だった。彼も相当に若いのだろうが、シルバーセンターで会った時の印象とそう変わりはない。


「俺……ボクは死んだの?」


 亨の質問に、母が体を離して目を見開く。


「いいえ。亨は死んでなんかいません。山が助けてくれたのよ」

「橙子……」


 父が彼女の肩に手を置き、小さく首を振る。あまり話すな、そう言いたげな目配せに応じて母も口を閉じる。何が自分の身に起きたのかは、周囲を見回せば亨も薄々察しがつく。


 一面に咲き誇る金木犀の花のせいで、最初はここがどこか理解するのに時間が掛かった。砂地の広場にはブランコやジャングルジムが設置され、公園だとはすぐ分かる。この遊具も、場所の特定を妨げた要因だ。金木犀も遊具も後の時代には撤去され、跡形も無く消えてしまった。


 いや、金木犀は一本だけ残っていたか。瀬那公園の入り口に立つ大きな樹形は、二十年以上前の姿でも十分に特徴的だ。


 衣服が血みどろの訳も、彼らの数メートル先に残骸を晒している。グローブジャングル――元は球状の回転遊具が、根元でへし折れて基盤から外れてしまったらしい。

 コンクリの基盤には支柱の一部だけが残り、地面にも散った血痕が窺えた。鉄パイプの球にも赤い斑点が付着しているようで、これらは亨が流した血であろう。


 球に取り付いて遊んでいる最中に、遊具が破断して彼が押し潰された、そんなところだろうか。血の量からしてかなりの重傷と思われたが、今の身体は快調そのものだ。


 事故で重傷を負った子を、傷痕も残さず治す。こんな真似が可能なのは――。

 立ち上がり、金木犀を見つめる亨へ、母が手を差し出した。母の右手には小さな青い魚が握られており、これは彼の物だと言う。


「この魚は特別。彼女の分身だもの、きっと亨を最後まで守ってくれるから」

「彼女って誰?」

「絶対に無くさないで。宝物よ、大事にするって約束できる?」

「あ……うん」


 二人の後ろで、父と佐路が話をしていた。

 佐路が話し込んだため、両親が亨から目を離したらしく、アマチュア研究者はそのことを深く謝罪した。瀬那山を調べに来て偶然出会ったようで、これが初対面という態度だった。


 遊具が潰れたのは佐路のせいではないと、父が頭を上げさせる。怒りをぶつける相手は、遊具の管理を怠った市の整備局だ。

 亨が治ってしまった以上、賠償させるのは難しいだろう。点検の徹底を約束させる。再整備の話が持ち上がっているので、これを機に遊具は撤去されるのではないか。母と手を繋いだ亨は、こんな会話に黙って耳を傾けた。


 母は何を山と約束したのだろう――見上げる亨へ、橙子が微笑み返す。

 どう問おうか迷う彼の手の中で、魚がピクリと尾を揺らして存在をアピールした。掌を開けた途端、青い魚が飛び上がり、勢いをつけて額に潜り込む。


 全ての始まりに立ち会った亨は、こうしてまた、要石の元へと戻って行った。

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