30. 答えられない

“矢賀崎さんは、独身のはずです”


 彼女の言ったことが、真実だとしたら。


“たまに私がいても、どこかに飛んで行くでしょ”


 夢想家、と彼は称された。とんだロマンチストもいたものだ。

 どれだけ家捜ししても、瀬那の気に入っていた大皿が見つからないはずだった。そんな人間は始めからいなかった。


 認めたくない、絶対に違うと自分の中で強弁するほど、その反証も次から次へと浮かんでくる。瀬那との出会いも、彼女の葬儀も忘れたのではなく、架空の話だった。


 滲んだ視界に映る葉っぱの山へ、亨は拳を叩き付ける。自分は妄想に生きる異常者ではないか。丘に登っている場合ではなかった。


「俺に必要なのは……やっぱり医者じゃないか」


 瀬那の声だって、こうなると怪しい。幻聴だと言われたら反論しづらい。彼女について覚えていることなど、一つも無いと認めざるを得ない。一緒に行った場所なんて無い。食事を共にしたことも無い。一度だって彼女の姿を見たことは――。


「――最期。最期は病院だった。それは覚えてる」


 白いシーツの上に横たわる瀬那は、寝ているだけのようにも見えた。別人にも感じたのは、元々いもしない人間と比べたからか。確かめるために、彼女の左手を取って……。


 頬の皮を突っ張らせて、亨はシャツの左腕の袖口をつまむ。指先が細かく震え、袖のボタンが上手く外せずにまごついた。苦労しながらもボタン穴に通すことに成功し、一気に肘まで捲り上げる。


 爛れた皮膚のよじれ。腕の内側には、今もくっきりと火災で負った傷痕が残されていた。

 火傷があるのも、亨だった。魚を作ったのも自分。瀬那は自分自身のこと。


 彼女を亡くした喪失感は妄想男の一人相撲だった、そんな結末にもはや嗚咽も出そうにない。徐々に身体を二つに折り、土下座するように土間へ額を擦り付ける。


 ただただ、虚しい。これが街を彷徨い、溺れかけ、炎に焼かれて得た真実だった。これを魚たちは彼に伝えたかった。

 横から額に触れる冷たい感触に、彼は頭を起こす。


「そう言えば、お前は逃げなかったんだな」


 ダイニングにあった青い小魚が、知らぬ間に腹を晒して床に転がっていた。まさか励ますつもりではあるまいと思いつつも、胸ポケットに収めた魚の確かな重さが再び彼の気力を呼び覚ます。


“また、間違えたのね”


 丘の上で聞いた声は、自作自演の幻聴で説明できる。それでも、これは山の、瀬那の意志から出た言葉だと信じたかった。


 金木犀の枯れ葉に背を向けて、ダイニングへと歩き出す。

 厚いドアを開いた時、固定電話のベルが鳴り続けていたことを知った。早歩き程度でも受話器を上げるのに間に合ったのは、呼び出しの終わる気配が一向に無かったからだ。


 知らない声で用件を告げられ、電話を切った亨はタクシー会社にかけ直す。財布を持ち、腕時計を巻くと、今度は弾かれたように外へ飛び出した。





 難しい顔で黙る亨へ、営業熱心なタクシーの運転手が気遣う。


「痛そうですね。急ぎましょう」

「あ、いや……そうですね。お願いします」


 丘では堪えていた雲り空も、今は景気良く雨をばら撒いていた。降り出した雨、痛みを増す頭。妙な既視感は、真波総合病院についてから更に激しくなった。


 濡れた髪の毛を掻き上げながら、救急受付けの職員と言葉を交わす。苦痛を訴える先客を横目に、ベンチに腰掛けて呼び出しを待った。


「痛いんじゃ――」


“晩飯のあとから”、彼はそう心中で老人と言葉を合わせる。腕時計の時刻は十時四十二分。秒針は動いているし、│今回は《・・・》この時間で正確だろう。


 看護師に案内され、若い医師が登場する。再演だらけのこの状況で、医師の説明は初めて聞くものばかりだった。


 交通事故による重症者が、約二時間前に病院へ担ぎ込まれる。衝突を起こした車に、大型トラックが突っ込んだ二重事故だ。最初の衝突による挫傷は、大したものでなかったものの、玉突き事故が連鎖して爆発が発生したと言う。患者の容態を悪化させた原因は、この火災だった。


 ほとんどの所持品は燃え、焼け残った財布に入っていた名刺から亨の家へ電話を掛けたらしい。ナンバープレートから岬摩衣の名前が判明し、実家にも連絡はされた。亨が一足早く到着したため、本人確認をして欲しいと頼まれる。


「残念ながら、つい先程、亡くなられました」

「顔が見たい」

「火傷が酷いため、確認が難しくなっています。ショックを受けられないように」


 取り乱さないように釘を刺し、医師はICUへと彼を連れて歩く。まだ摩衣と決まったわけではないため、医師も悔やみを言うことはしない。確定できそうになければ、後に到着する両親に任せるようにと忠告された。


 摩衣が死んだ実感などこれっぽっちも湧かないが、別人とも思えない。先に葬儀を経験したのは、彼には悪趣味な予行演習となってしまった。


 ベッドの上の摩衣は身体も顔も白布で覆われている。亨たちが来たのを受けて、看護師が丁寧に頭部の布を捲った。

 医者が忠告したように、この爛れた顔で誰かと判断するのは酷というものだ。黒髪は半分以上が焼失し、左目の回りは膨れ上がって原形を留めていない。


 これは摩衣なのか、瀬那なのか。それとも、なのか。

 グロテスクな成れの果てに、彼は一歩、そしてまた一歩と進み寄る。近付く程に、およそ生き物とは無縁の塩素と錆びた鉄を合わせたような匂いが鼻をついた。


 ベッドに乗り出すように遺体を見下ろすと、天井のヘクタライトが遮られ、亨の作る影が薄く顔に落ちる。

 亨には分からない。火傷のせいではない。これが誰か、俺には答えられない。


 彼の胸から、白い魚が飛び出す。遺体の上を泳ぎ回った魚は、首元に貼られた大きなガーゼへと溶けていった。


「これは間違った欠片かけら

「瀬那?」


 怪我のマシな右目が開き、彼を黒い瞳で見つめる。焼けた唇は動いていないが、透き通った声が亨の頭に響いた。


「もっと集めて。何度でも」

「何を? 何をしろと言うんだ」

「あなたがどこに行くか、私には答えられない。魚が連れて行ってくれる。あなたたちが生んだ魚だもの」

「瀬那には会えないのか?」


 部屋が深い青に染まる。プルシアンブルーの大きな塊が、天井からゆっくりと降りて来た。ガラスの巨体を透過した照明光は、四方に拡散して室内を青く満たす。


欠片かけらを混ぜてはいけない。私を呼んではダメ」

「カケラって何だ。記憶のことか?」

「違う。割れたのは、あなた自身よ」


 さらに降下した濃紺が亨の頭も呑み込み、集中治療室は海の底に沈んだ。

 体の中から、魚の群れが一斉に溢れ出す。一度は取り込んだ魚たちが、各々の欠片に彼を誘うべく跳ね回った。


 銀が鼻先を掠め、紫が足元を旋回する。一匹が光の渦から泳ぎ出て、身を翻したかと思うと亨の額に目掛けて突き進んだ。


 頭に潜る赤い欠片。先ず彼を導いたのは、深紅のサザナミハギだった。

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