29. どこで、間違えたのか

 目が覚めたら、石柱の前で俯せに倒れていた。

 当たり前だろう。別の場所や時間に普通はいきなり飛ばされたりはしない。至極当然の結果ながら、彼の失望は大きかった。


 冷えた岩に縋っても、もう沈黙だけが返るのみ。広場をふらつき回ったところで、声が聞こえたり魚を見つけることは無い。

 丘の天辺で、一時間は過ごしただろうか。無益な行動に疲れ果て、足先に痺れまで感じ始めると、ようやく亨も出口へと向かった。


 一体、自分の何が間違ってると言うのか――瀬那に反駁する気は無い。自分が誤っているなら、それを正したいのだ。


 なぜ、彼女は何も教えてくれないのか――こちらは拗ねた子供がする駄々に近い。魚ではなく、瀬那本人が導いてくれればいいのにと、彼は心でなじる。甘えた感情を抑えようとはせずに、思うままに彼女へ訴えた。強く願えば、彼女が聞き入れてくれると言わんばかりに。


 山を降り、家に戻る道すがら、ずっとこんな調子で足を淡々と動かす。周囲に気を配る余裕など無く、自宅を通り過ぎそうになる始末だった。


 勝手口までの横道は墨を流したように暗く、突き出た雨樋に足を引っ掛けてしまう。思い切り半身を壁へぶつけ、亨は小さく呻いた。


 ドアの前まで何とか辿り着き、肩を摩りつつ鍵束を出そうとして、そんなものは持っていないと思い出す。焦るあまり、彼は鍵など掛けずに家を飛び出していた。シャワーでも浴びて、摩衣の言う通り朝まで寝るべきだろうが、未だ瀬那を想い高ぶったままだ。


 写真が無いのは、どういう加減か自分で消してしまったからだろう。彼女が削除したことも有り得る。墓が石柱に入れ替わったのは、記憶が混濁したせいだ。そうと自分自身へ説明していく。


 自分の妻が人に在らざる者であることは、亨も認めて構わなかった。“瀬那山”に纏わる超然たる存在で、要石へと還って行ったというところか。魚は彼女に従う眷属で、彼を導く役割を持つ。どこへ? もちろん、瀬那の元へだ。


 魚の力を借りて彼女との思い出を辿り直せば、もう一度呼び出せるのだと、彼は考えた。天女には天女のルールが有るのだろうが、自分でも努力して悪いことはあるまい。写真も墓も駄目なら、他に何が残っているだろう?


 瀬那の作品。彼女が制作に勤しんだアトリエを、調べるべきでは。ガラスの魚は無くても、道具やスケッチ、ひょっとしたらメモも見つけられそうだ。今までそこに思い至らなかった自分を責めながら、亨はアトリエに繋がる扉へ向かっていった。


 居住スペースとアトリエは、厚い木製のドアで仕切られている。多少なりとも防音の効果を狙って、後付けした扉だ。ノブを回し重い扉を押し開くと、最近は放置気味だった作業場が現れた。


 ドア横のスイッチをパチパチと弾いていけば、天井に並ぶ直管の蛍光灯が室内の闇を払う。手前がイーゼルと平台の置かれた亨の使用場所で、奥、つまり家の表側が瀬那のスペースだ。


 低融点のガラスを素材にする場合、大きな炉は必要としない。ガスバーナーでの作業が主体で、コンプレッサや鉄製のやっとこが床に転がって――はいなかった。


 奥に進んだ亨は、自分が目にした物を理解するのに、結構な時間を要する。大学にもガラス工芸を専攻した学生はいたし、好奇心から覗いたこともあった。だが、そこで見たような機材は、アトリエには皆無である。


 蛍光灯が照らすのは特徴に乏しい土間。そして、その上に堆く盛られた枯れ葉の山だった。余りに異様な光景から、やっとの思いで目を離し、部屋の隅にある小さな丸テーブルに歩み寄る。


 テーブルの上には、スケッチブックと芯の軟らかい鉛筆が何本か。彼は茶色い表紙を捲り、中を検めた。作品を構想するラフな描線と、タイトルの覚え書きが延々とページを埋める。


 内容を見て、一枚ずつ薄い紙を繰る動きは、裏表紙近くまで続いた。どの絵も何を描いたものかは、一目で判別できる。流線型のボディに、鰭を示す突起――ガラスの魚であった。それ自体は、奇異ではない。アトリエには付き物の構想集エスキースであり、彼も存在を期待してこの部屋に来たのだ。


 スケッチ毎に書かれた文字の並び、これが示す事実を亨の脳が拒絶する。ナマズ、カジキ、スズメダイ――。

 筆跡鑑定人でもない彼が、文字を書いた人物を特定するのは至難を極める。例外はよく知っている両親や、精々摩衣くらいだ。それも断言するには少し躊躇う。しかしこのスケッチ帳の文字だけは、迷わず断じてよい。


 ここまで目に馴染んだ字は、彼自身の筆跡以外に考えられなかった。

 エスキースは自ら描いたもの。つまり、何だと。どういう意味だと言うのか。


 テーブルの足元には、木箱も置かれている。箱の中身は拙く捻られたガラスの魚の山、画像でも見た習作だ。単なるガラス棒に近い一匹を手に取り、顔に近づけたところで、魚モドキは光の粉となって散る。


 床にしゃがみ込んだ亨は、今度は折り重なった葉へ向いてその一枚を手にした。

 どの葉も水分が蒸発した枯れ葉ではあるが、緑色が残るものも多い。地上に散り落ちた葉っぱを拾ったのではなく、生木から毟り取ったようだ。真ん中の葉脈がはっきりした紡錘形ばかりで、全て同じ種類の葉であった。


 手の内の葉が自ら震えたかと思うと、熱く、そして冷たく温度を上下させる。この感覚は、先刻、展望広場で体験したばかりだ。葉に魚のイメージを重ね合わせる、そんな工程が、彼の内から自然と湧いて実行された。


 生温い程度の温度に定まった葉は赤く光り出し、手から跳ね飛んで床に落ちる。紡錘形は小さな塊に姿を変え、そこから大きな尾鰭が生えた。


 鰭を靡かせる様子は、金魚にそっくりだ。しばらく土間を泳ぎ回った魚は、急に動きを止めて、ことりと転がる。硬質なその赤い体に、蛍光灯が反射して煌めいた。

 金魚を持ち上げ、滑らかな表面に指を這わせる。


 こうして生まれたのだ。魚は、こういうものなのだ。

 ガラスの金魚は、また静物であることを放棄して彼の指から逃げる。小さな赤い光は、家の外へと泳ぎ出ていった。


 植物にそこまで詳しくない亨も、この葉は金木犀だろうと同定する。公園に生える金木犀から採って来たものだろう。瀬那山の力が神秘的なのは先程も味わったばかりで、もう驚く気も起きない。


 それよりもアトリエに瀬那の遺品が一片たりとも見当たらず、あまつさえ亨の自筆によるスケッチが残っている、そのことの方が重大だろう。


 瀬那という人物は、過去どの時点においても存在しなかったのではないか。とても承知したくない事実が、とうとう抑え難く沸き上がってきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る