27. 脈打つ痛み

「真波の七夕が派手なのは、この伝承が由来だと結んでます。来世で二人が会えるのを願う祭なんですって」

「それはいいけど……」


 自分と重なりそうなのは、記憶を失う下りくらいだろうと亨は落胆する。老人の口述を聞き取り集めた手間には感心するものの、所詮は昔話だ。今の亨の助けになるとは思えない。

 肩を落とした彼に構わず、摩衣は説明を続けた。


「二科山っていうのは“二島”、伝説に出てくる二つ目の島だろうって」


 あまり関心が湧かない亨も、読んでもらった手前、合いの手くらいは入れる。


「二つ目ってのは?」

「男が最後に家を建てた島です。調べたけど、それらしい遺物は何も無かったって書いてます」

「そりゃそうだろ。ただの伝説だ」


 お伽話であっても、根源に歴史的な事実が存在することはある。そういう考えで聞いたとしても、天女伝説は元の出来事が推定しにくい話だった。


「でも、一の島には天女の花があるって。雌花の金木犀、日本じゃ超珍しいそうです。まあ、花があったからって、何の証拠にもならないけど――」

「待ってくれ。一の島ってのは、天女が待つ島か?」

「そうです」

「どこのことだ?」

「瀬那山です。ここからも近いし、矢賀崎さんも知ってるでしょ」


 瀬那山なんて亨は知らない。行ったことも無い。


「ほら、瀬那公園のあるとこですよ。昔は金木犀がたくさん植わってたって。古代は山一面に咲いてたと本では考察してますね」


 そんな名前の公園が在るものか――彼の顔から表情が消える。


「桜の名所にしようって、市が植え替えたんだそうですよ。全部引き抜かれるところを、佐路さんが猛反対して一本だけ残ってるんだとか」


 亨はキリキリと痛む頭で、彼女の話を飲み込もうと努力する。山の名前が瀬那でも、冷静に考えれば大したことではない。単なる偶然も有り得る。ただ、あまり認めたくない可能性も二つ、思いついてしまった。


 瀬那は非現実的な存在なのか。いや、これは実のところ、彼には最早どうでもいい。再び会えるのなら、天女だろうが幽霊だろうが何だってよかった。


 もう一つ、気にすべきは彼女の名前だ。妻の名前は、本当に瀬那だったろうか。こんな大事なことを忘れて錯誤していたのなら、情けないにも程がある。恥を忍んで、彼は摩衣に確かめた。


「俺の妻は、瀬那だったよな? 自信が無いんだ」


 どう答えようか、彼女は口を半開きにして固まる。その強張った顔を見て、亨は自分の忘却が途方も無いレベルだと悟った。


「まさか妻の名前まで、間違えてたとはな。俺の脳味噌はもうポンコツだよ」

「矢賀崎さん……」

「はっきり教えてくれ、本当は何て名前なんだ?」

「矢賀崎さんは独身のはずです。私はそう思っていました」


 今度こそ、理解不能な答えと脈打つ痛みに耐えかねて彼は言葉を失った。

 黙りこくった挙げ句に彼が出した結論は、摩衣が妻を知らないのはおかしい、である。会ったことが無いだけならまだしも、ギャラリーに勤めていて存在を知らないはずが無かろう。


「妻の作品を見てるはずだ。ガラスの魚を」

「あれは矢賀崎さんの別ブランドなんじゃ……」

「そうさ、矢賀崎瀬那が制作したんだ。俺は画家だ、工芸作家じゃない!」


 声を張り上げられ、摩衣の肩がビクッと竦められる。抗弁したそうな上目遣いに苛立ち、彼は更に荒い声音を浴びせた。


「なんで知らないなんて言うんだ。嘘をつく理由は?」

「嘘じゃありません。結婚してるって知ってたら、この家にも来てません……」

「結婚│してた《・・・》んだ。もう彼女はいない。死んだからな」


 摩衣は喜んだわけではないだろうが、やや頬の筋肉を弛緩させる。安堵とも取れる表情は、亨の神経を逆撫でた。


 何者が亨を弄んでいるのか、彼には想像もつかない。ただその誰かは、彼の記憶に飽きたらず、瀬那がいた事実すら消そうとしていた。少なくとも亨はそう考える。


 こんな憤りは、亨の八つ当たりだ。彼女が真剣に答えていることも、嘘をつくメリットが無いことも重々に理解していた。そうだとしても、摩衣の言うことを受け入れては、瀬那を想った時間を全て否定してしまうことになる。


 思い出は消えた。顔も忘れた。具体的な事実は一片も残されていない。だが、彼を満たしていた愛情は本物のはずだ。一番大事だと感じていたことを、それだけは今も覚えている。


「……俺は妄想を喋ってると思うのか?」

「分かりません……奥さんがいたなんて、今日初めて聞いたし……」


 怯えたように縮こまる彼女に、亨も言い過ぎたと感じる。怒りは去らないものの、この事態を説明する一つの仮定を思い付いた。


「ああ! 忘れたんじゃないのか? 君の記憶も消されたんだ」

「えっ、私の?」

「それなら辻妻が合う。ちょっと来てくれ」


 彼は二階へついて来るように言い、コンピューターの置かれた小さな資料室へ向かう。データの詰まったパソコンの電源を入れ、起動画面が映るのを摩衣も彼の後ろから見守った。


「瀬那の写真があるはずだ。前回は半分でやめたからな」


 保存された画像データは大量で、妻を撮った写真も有って然るべきだ。もっとも、どこにその一枚が在るか分からず、もどかしい思いが募る。下手に見当をつけるのは止め、彼は既に調べたフォルダも含めて片っ端から順に開けていった。


 取材で撮った海や山、ギャラリーの展示内容、亨の作品。ガラスの魚も、様々な角度から撮られている。街角に咲く花に、鰯雲、虹や真波駅の雑踏もあった。

 亨自身も登場する。自作の前で澄ました顔を作る彼の写真には、摩衣もモニタに顔を近寄せようとして、直ぐまた後ろへ下がった。


 写真をネタに昔語りをするつもりなど、亨には一切無い。ひたすら高速で、縮小画像の一覧をスクロールさせていく。

 万に及ぶ画像のチェックは、かなりの時間を費やした。未整理のまま無名のフォルダに放り込まれたデータも、メールに添付された写真も見逃してはいない。


 どこにも瀬那はいなかった。

 メールに関しては“瀬那”で検索も掛けたため、過去の本文中に名前すら登場しないことも判明する。探す場所を失い、亨の右手はマウスに添えられたまま止まってしまった。


 どう声を掛けたものか迷った摩衣は、しばらく逡巡した後、思い切って彼の手の上に自分の掌を重ねる。その彼女の心遣いを払い退け、亨は椅子から立ち上がった。


「墓だ。瀬那の墓が、丘の上にある」

「丘って?」

「君の言う、瀬那山だよ。公園の先が墓地だ。見に行こう」


 彼の提案に何か言いかけた摩衣も、口をつぐんで最後は頷いた。

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