25. 焼ける想い

 紅蓮の炎は勢いを増し、最早、寝室の外にまで達する。彼は窓枠に取り付き、火にも臆せず、中に居る両親へと左腕を突っ込んだ。火炎と煙で、室内の様子など全く見えない。炙られた腕が脳に激痛を伝えても、彼は宙をまさぐり続ける。


「やめるんだ、亨」

「こっちに来てくれ! まだ話し足りない!」

「父さんたちが描いた絵が、三枚残ってる。佐路啓太郎という――」

「知ってる、絵は見たよ!」

「記憶が消えたなら、絵で思い出せるかもしれん。もう一回、よく見てみろ」


 爆風のせいなのか、地面から飛び出したエイの力なのか。亨の体が空中に舞い上がる。

 亨は重力を失い、高く放物線を描いた。家から離れていく彼を、空飛ぶエイの背中が華麗に受け止める。


 朱色の光が満ちる。苛烈な赤ではなく、暖かい光の粉だ。

 徐々に高度を下げながら、役割を果たしたエイは砕けようとしていた。舗装道路に着地するより早く、光に包まれた亨は五感を塗り変えられる。


 こんな結末なのか――嘆きが心を貫いた。わざわざ親の死に際に立ち会わせて、これで終わりなのかと。


 やり場の無い彼の忿懣ふんまんも、いつまでもは保たない。

 世界は暗転し、また別の日常へと導かれるだけだった。





 固い床を背中に感じたのは、どれくらい経った頃だろう。

 目を覚ました途端、光る振り子が眩しくて顔を顰めた。それが只の天井照明だとしばらくして分かる。揺れていたのは、彼の意識だ。


 傍らの椅子を頼りに、よろよろと立ち、見慣れた部屋を見回す。変わりのない自宅のダイニングで一つ、彼の目を引いたものがあった。


 テーブルの上に古びた本が置かれ、毛筆書体で大きく縦書きされた『二島にしま遺聞録』の題字が目に入る。椅子に腰を下ろした亨は本を開くことなく、ぼうっと表紙を眺め続けた。佐路に教えられた本が、何故ここにあるのか。冷静な亨なら、その理由に頭を悩ませたことだろう。


 本当に実体が有る書物なのか、手に取って重さを確認し、また机に戻した。表紙こそ立派なものの、厚みに欠け酷く軽い。それでもしっかり持てるということは、半透明の幽体とは違う。


 奇怪な経験を紐解くヒントが、本の中にあるかもしれない。しかし、そんな探究心は、先までの出来事で失せてしまった。火に巻かれるかつての自宅が、繰り返し頭の中で再生される。


 炎で焼かれた左腕の痛みは、擦り傷程度に治まった。火傷痕が残っていなければ、全て幻影だったと言い切れたものを。


 魚の力を利用すれば、過去を変えられると期待した。火事の家で彼の頭に浮かんだのは、水原と真田が式場ではにかむ顔だ。僅かなきっかけを得て、彼らは結婚に辿り着いたのではなかったのか。彼が投げた小石が波紋を作り、違う未来へ連鎖していくとそんな想像もした。


 それが甘っちょろい夢物語だと思い知らされた今は、虚無感が心を占める。死んだ人間を生き返らせるなんて、道理に外れた願いなのだ。現実離れした魚の世界でも、無理なものは無理である。


 両親も瀬那もこの世を去ってしまい、二度と戻ることはない。魚が与えてくれたのは、忘れた思い出の追体験、つまりは喪失の再現だ。


「次もあるのか……?」


 瀬那を失った瞬間にでも立ち会わせられるのだろうか。そんな記憶を取り戻すことを本当に自分は望んでいるのか、亨には結論を出せない。


 部屋の壁に立て掛けられた三枚の絵に、彼は視線を移す。瀬那を知っているのか、両親に聞きそびれた。その可能性は高い。

 父も母も、自分たちが消えることを平然と受け入れていた。彼が未来から来たと告げても、それすら許容できる事実だったようだ。


 二人はどこまで理解していたのだろう。ずっと先の未来を、既に垣間見たのかもしれない。そうであるなら、瀬那を知っていて絵に描くことも出来る。


“記憶が消えたなら、絵で思い出せるかもしれん”


 父の最後の助言だ。彼は壁際へと歩いて行き、『雨の天女』の前で膝を突く。


“もう一回、よく見てみろ”


 アドバイス通りに絵へ顔を寄せ、また離してと繰り返し、何度も母の遺作をめ回した。

 見た者が雨の光景だと感じるのは、濡れた空間を微細な色調の変化でよく表しているからだ。雨滴を直接描いた部分は無く、繊細な母らしい技法であろう。

 画面のやや右下、瀬那の姿も同様である。最初に目にした時は、黒髪の人影を彼女だと疑わなかった。


 母の筆捌きの順まで追い、仔細に拘って観察すると多少印象が変わる。この人物も、決して具体的には描かれていない。輪郭は背景に溶け込み、顔は軽く陰影が付くに留まる。


 あくまでイメージが瀬那と合致しただけで、彼女の細かな特徴まで捉えた絵と感じたのは亨が勝手に心中で補完したからだった。母は敢えて描写を避けたのか、それとも描けなかったのか、その判断は難しい。作風からすれば自然な表現ではある。


 絵を見た亨は彼女の立ち姿を思い描いたわけで、瀬那を思い出す引き金にはなった。

 隣へ膝を摺り、もう一枚の母が描いた絵に正対する。抽象的な黄色の乱舞から、何とか具体的な連想を引き出そうと試みた。


 明るい光点にも見えるが、クロームイエロー、いやもっとオレンジがかった彩りが強い。黄色いベラは、ここまで暖色がきつくなかった。似ているとすれば――。

 頭を離し、目を細めて色にのみ集中する。暖かな陽射し、煌めくオレンジ、乱反射する光線。


「晴れ、かな」


 秋の一日、小春日和、鮮やかな郷愁、そんなところだろうか。見渡す限りの橙色に包まれた自分を想像し、懐かしさを覚える。これは場所、どこかで見た場所の記憶。

 二枚目はこのくらいで切り上げ、最後の一枚へ。


 いくらかでも感情に訴え掛けてきた母の絵とは違い、父の作品からは何ら特別な感情が湧いてこない。リアルな岩肌では、そのまんま岩を思い浮かべるだけだ。父の言葉に従えど、三枚の絵ではあと一歩、記憶の扉を開くには力不足だった。


“父さんたちが描いた絵が、三枚残っている”


「おかしいだろ……」


 二宮は佐路の作品を四枚と言い、佐路も一枚は受け取らなかったと証言した。これでは、一枚足りないのだ。父はどうして四枚目に触れなかった?


 見ることも、親に問い質すことも出来なかった一枚を彼が想像していた時、勝手口のチャイムが鳴った。こんな真夜中に一体誰がと、亨は訝しくドアへ向かう。

 開いた扉から赤い陽が差し込み、予想外の明るさを浴びて彼は手でひさしを作った。


「おはようございます?」

 見た亨の険しい面持ちに、摩衣の口調も躊躇ためらいがちだ。

「もう朝だったんだ」

「夕方ですよ。まさか、寝てないんですか?」

「ん……まあ、そうかな」

「そうかな、じゃないですよ。ちゃんと休むように言ったばっかりなのに」


 また小言が増えて来たなと口答えしつつ、彼女を中へ入れる。

 摩衣は大きなトートバッグを抱えており、中身は食材で詰まっていた。どうやら夕食を作るつもりらしく、勝手知った家と言わんばかりにキッチンで野菜や鳥肉を並べていく。


 料理は彼女の好きにさせ、湯立つ鍋の音を聞きながら彼は三枚の絵の前へ戻った。記憶を掻き集め、失われた何かを求めて絵を眺め回す。

 さして成果を得られないまま、調理を終えた摩衣が彼を呼んだ。


「パスタか」

「ご飯を炊くより早いから」


 トマトソースを絡めた鶏肉のスパゲッティと、レタス大盛りのサラダ。相変わらず絵に視線を遣る亨は食べる手も極端に遅いが、それでも味と手際の良さを褒めた。


「美味いよ。ありがとう」

「んー、喜んでいいのやら。気もそぞろって感じですね」


 料理皿に場所を譲り、佐路の本はテーブルの奥へと押しやられている。彼女はその表紙を、手に持つフォークの先で指した。


「本は読みました?」

「え? いや、まだだよ。何の本か知ってるのかい?」

「そりゃ知ってますって。借りて来た時に、チラッと中も見ましたよ」


 亨は彼女の目を見据え、ゆっくりとその言葉の意味を問う。


「君が借りたのか? いつ?」

「昨日の昼……」

が頼んだのか?」

「はい」


 他人が聞けば異常な会話も、二人には思い当たる原因があった。特に亨には、尋ねるべき事項がすぐに頭へ浮かぶ。今日は何曜日なのか。


「……日曜日です。忘れたんですね?」

「忘れたんじゃない。飛んだんだ」

「飛ぶ?」


 土曜日をスキップした。そうとしか表現しようが無い。魚は彼を過去に連れて行き、時に不穏な未来を見せ、遂には時間を飛ばし始めた。

 記憶がどうこう言う以前に、これでは目茶苦茶だ。


 亨はすっかり食事を中断し、放心して皿を見つめる。心配そうに彼の様子を窺っていた摩衣は、いつまでも動き出さない彼へフォークを持つように勧めた。


「食べてください。何が起きてるのか分からないけど、体を壊したら元も子もないでしょ?」

「……そうかもな」


 不承不承と見えなくもないが、取り敢えずは彼も言うことを聞き、また口にサラダを運ぶ。

 摩衣の方は、もう自分の食事をとっくに終えてしまった。手持ち無沙汰になった彼女は努めて明るく振る舞いつつ、図書館から借り出した本を持ち上げる。


「これ、先に私が読んでいいですか?」

「いいよ。なんなら内容を要約して教えてくれ」

「リョーカイ」


 さすがの亨も、彼女が読み終わるよりは早く料理を平らげた。皿を片付けようとする摩衣に、先に本を読み切るように頼む。皿洗いくらいは当然だろうし、黙って手を動かしたい気分だった。


 鍋とフライパンを洗い、不揃いのカップやボウルを水切り棚に伏せる。パスタ皿は立てて、フォークは箸立てへ。全て済ませても読書にはまだ少し時間が掛かりそうだったため、コーヒーを用意して暇を潰す。


 二人分のマグカップを持ってテーブルに戻り、彼女の横顔を眺めて静かに待った。カップの中味がほとんど無くなった頃、摩衣が顔を上げる。


「ざっとですけど、一応、全部読めましたよ」

「早かったな。“島”の話が書いてあるのか?」

「真波の昔話ですね。年寄りに聞いた話が、まとめてあります」


 かなりマイナーな口伝で、摩衣にも初耳の内容らしい。

『二島遺聞集』は二つの島を巡る伝説が書かれおり、いくつかの有名な昔話を混ぜ合わせたようなストーリーだった。

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