24. バーミリオン

 看板は亨がいた場所に落ち、当たり所が悪かった歩道のタイルが真っ二つに砕けている。また魚に助けられた、それはもう疑いようがない。


「助かったよ。さあ、帰ろう」


 魚が役割を果たせば、今までは世界が切り替わった。薄れて行く青い光を見守りながら、過去が終わるのをじっと待つ。

 五秒が過ぎ、十秒が経っても、嵐の夜は変わらない。何かおかしいと、亨は眉間に皴を寄せた。


 ナマズはもういない、なのに何故? この不思議な魚たちを、少しは理解したつもりだったのは勘違いなのか。風に押されてふらつきつつ、彼は道を塞ぐ看板へ歩み寄る。


 落雷で発火していたらしい看板は、一部が焦げて変色していた。濡れて鎮火気味だがまだ完全には消えておらず、南国の海に黒ずみが広がる。強風が小さな火を煽り、雨に逆らって炎を育てた。雷雨に晒されているにも拘わらず、火の勢いが見るからに増す。


 パネルから立ち上がった炎が、宙に大きな菱形を描いたかと思うと、亨を包むように巻き付いた。

 焼かれる――身構えた亨は目を閉じ、腕を体の前で交差させて身を守った。冷えた皮膚が瞬時に熱を帯び、服に含んだ水分が飛ぶ。

 生温かい、それで終わりだった。





 目を開けて、刹那の加熱を済ませた相手と対面する。

 火――いや、揺らぎも燃やしもしないこれは、赤い光だ。朱色の体には長く細い尾も垂れている。バーミリオンは炎、そしてガラスのエイの色だった。


 イトマキエイを模した赤い体は、畳に飛び込んで姿を消す。やや汚れの目立つ古い畳、足元に敷かれた布団、傷だらけの書机。机の上には開きっぱなしのスケッチブック、窓にはグレーのカーテンが掛かり、純和風のカバーが付いた円形の蛍光灯が部屋を照らす。


 どこにでも在りそうな日本家屋の二階、六畳のこの空間を亨はもちろん知っていた。かつての自宅、燃えて無くなった家だ。

 ナマズの次は現在でなく、もっと古い過去――。その意味を理解した彼は、部屋を仕切る引き戸の取っ手に飛びついた。


 これは火事よりも昔、つまり両親がまだ健在な過去である。二人に会わなければいけない。教えてほしい疑問を大量に抱えているのだから。

 戸を開け、廊下から階段へと駆けた亨は、立ち込める煙を吸い込んでせ返る。彼を阻む大量の煙を前にして、壁を拳で殴りつけた。


「よりによって、この日かよ!」


 家に黒煙が充満したことなど、一度しかない。火災が発生した夜に連れて来られたと知り、怨嗟の唸りを上げる。


 急いで自室に取って返し、タオルをつかんだ彼は、階下へ突入することを決意する。炙られるような熱さは、まだ二階に届いておらず、煙も記憶よりずっと少ない。今ならまだ間に合う。そう、両親と話すのは二の次だ。


 ここで二人を起こせれば、助けられる。それが現実にどう影響するかなんて、あとでゆっくり考察すればいいこと。魚も絵も、凶運に襲われた両親を思えば頭から消える。


 救わなければ。この日に立ち返ったのは最高のプレゼントだったと、救った親と笑ってやる――亨の拳にこれでもかと力が込められた。


 タオルを口に当て、姿勢は出来るだけ低く保ち、一気に階段を駆け降りる。一階を右に行けば出火元の台所、左の奥が両親の寝室だ。

 寝室側に進んだ方が煙の量は減り、苦しかった呼吸も少しは落ち着く。納戸の前を通り過ぎてさらに奥へと走る彼を、壁の中から現れたイトマキエイが押し戻した。


「邪魔をするな!」


 助けるつもりか知らないが、今この時、魚は要らない。空中を泳ぐエイの下に潜り込み、熱っぽいガラスの体を躱す。

 階段へとエイが通り過ぎていった隙に、亨は猛然と廊下をダッシュした。


 魚が帰って来るまでにケリを付けるべく、目に染みる煙に構わず、涙を垂れ流して寝室を目指す。部屋の襖、その古風な引き金具に指を添えると、力一杯開け放った。


 思いがけない光景に、亨は一瞬言葉を詰まらせる。布団を被って寝ていると思った両親は、二人とも部屋の真ん中で向かい合って立っていた。


「亨……」


 入り口へ振り向いた母が、小さく息子の名を呟く。久方ぶりに聞く声に心根が揺さぶられ言葉が噴き出しそうになるものの、質問も説明も今は必要無い。起きているなら好都合だと、彼は二人に警告した。


「火事なんだ! 窓から逃げよう」

「落ち着いて、亨」

「煙がそこまで来てる。ここはもうダメだ!」

「亨こそ早く逃げて」

「何を言ってるんだよ、さっさと逃げろ!」


 不自然なくらいに冷静な母へ、亨が声を荒げて火災の危険を訴える。このままでは二人とも火に呑まれてしまう。これは勘ではなく、確実に起こる惨事だと早口でまくし立てた。


 一向に動こうとしない母に苛立ち、その目の前まで近づいた彼は、強引にでも外に連れ出そうとする。母の肘に手を伸ばした時、それまで黙っていた父が亨の手を押し止めた。


「亨は知ってるんだな? このあと、どうなるか」

「えっ、ああ。だから早く脱出しよう」

「お前だけ逃げろ。父さんたちは今日までみたいだ」

「なんで諦めるんだよ、今なら助かる。試すだけ試してみろよ!」


 父、矢賀崎昇一は静かに首を横に振り、亨の顔の前に右手を開いた。火の回りを気にして廊下と親を見比べる彼へ、ちゃんと見ろと父が粛然と告げる。その声色の本気さに、亨も眼前の掌に目を向けた。


「分かるか?」

「……どうなってる。透けてるのか」

「時間切れだ。エイに叩き起こされなければ、このまま消えていったんだろう」


 父はここまでの経緯を語る。

 真夜中に目が覚めた二人は、誰に教えられずともその刻限が来たのだと悟った。金縛りにあったように胴体は重く、寝返りもままならない。意識も鈍く混濁して行く中、夫婦は手を伸ばし合って指を絡め、ただ天井を見上げて時を待った。


 その天井から朱色に光るエイが降り立ち、二人の身体を撫でて行くと、また手足の自由が戻る。どういうことかと立ちあがったと同時に、亨が寝室の戸を開けた。


「私たちが消えるのは、ずっと昔に決まっていたことだ。お前には黙っていたが」

「なん……どうして消えなくちゃいけないんだ? 俺に隠した理由は?」

「その前に、一つ教えて欲しい。お前は未来の亨なのか?」

「そうだよ。見た目は若いだろうけど、十年後から来た」


 彼の告白に、夫婦はお互いの目を見る。驚いた様子は無く、母は微笑みすら浮かべた。若い亨には、約束・・を知られたくなかったと父は言う。両親は自分の犠牲になったなんて、考えないで欲しいと。


「十年と言うと、亨も三十近いのか。あのエイは、最後に話す機会をくれたんだな」

「一人で納得するなよ。約束ってなんだ? 未来を知ってるのか?」

 昇一と橙子は、また顔を見合わせた。話を続けたのは母の方だ。

「亨か、私たちか。父さんも母さんも、迷わずお前を選んだのよ」

「選ぶ?」

「ずっと昔、島と約束したの。息子を守って欲しいと。亨が立派に独り立ちしたのなら、後悔はしてない」

「またか! 何を言ってるのか、全然分からないよ。ちゃんと説明してくれ。まだ消えないでくれ」


 ごめんね、母は寂しそうに少しだけ俯いた。そんな言葉を、亨は聞きたくない。

 二人を更に問い詰めようとした瞬間、廊下の煙の中からエイが飛び出し、寝室へと猛スピードで泳いで来る。体当たりされるかと身構えた亨を掠めて、エイは奥壁の窓へぶち当たった。


 カーテンごと窓ガラスが叩き割られ、寝室にどっと外気が流れ込む。新鮮な酸素が、廊下を舐めていた火に供給された。部屋の入り口に振り向いた亨は、遂に炎の先がここへ到達したのを見る。もう幾許も時間が無い。


 脱出口は、エイが開けてくれた。無理やり両親を運ぼうと、彼は両手を左右に広げる。二人を抱えようとした腕は、だが、宙を切った。急速に実体が薄れて半透明になった両親の体は、亨の手が通過する度にさざ波を立てて揺らぐ。


「お別れみたいね、亨」

「そんなこと言うなよっ!」


 母親の胴に、彼の右腕が貫通する。


「思い出も、私たち自身も、みんな亨に託したの。改めて話せることなんて、実はあんまり無い」

「覚えて無いんだ! 子供の頃も、高校のことだって、二人のことすら思い出せないんだ!」


 初めて母の、そして父の顔が訝しく曇った。昇一が何かを言おうと口を開いた時、割れた窓からエイが帰って来る。


 部屋の真ん中で急ターンしたイトマキエイは、今度は亨に狙いを定め、凄まじい圧力で外へと押し進んだ。抗う暇も無く、彼は窓の外へ吹き飛ばされる。

 寝室の外は小さな庭で、隣家とはブロック塀で区切られていた。エイはそのブロックもぶち壊したらしく、崩れた塀はもう瓦礫の山でしかない。


 庭に転がった亨を更なる安全圏へ避難させようと、エイが空中で旋回する。再び体当たりして、今度は隣家まで弾くつもりか。彼は気力を振り絞って立ち上がり、エイの速度に負けじと走った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る