23. セルリアンブルー

 両親が生きていたなら、質問攻めにしたいところだ。二人は何を考え、何を知っていたのか。判明したことよりも増えた謎が多く、半ば呆然と中央棟の正面ロビーへ戻る。


 佐路の本については、何も過去の世界で調べることもない。とは言え、他にヒントの無い今は最も気になる存在だろう。

 真波の市立図書館は幾度か開館時間を延長しており、この頃には午後七時半まで利用できたはずだ。まだ間に合うかギリギリのところだし、いつ本来の時代に引き戻されるか分からないものの、取り敢えずは図書館を次の目的地に定める。


 受付けの前にも、この過去では緑の公衆電話が設置されていた。行きと同じタクシー会社を呼び、玄関を出て車を待つ内に、また亨は考えに耽る。玄関ポーチの丸い柱に寄り掛かり、先程まで東棟で交わした会話を思い返した。


 瀬那は天女だと佐路は言う。天女とは何だろう。幻と時間を行き来する超常の存在なのか。

 天女の仕業なら一連の体験にも説明がつく、それで納得しそうになる。『雨の天女』を見て以来、瀬那を考えて最初に思い浮かべるのは、雨中に立つ人影となりつつあった。思い出は消え、毎日見ていた彼女の顔を絵のイメージが上書きする。


 タクシーが滑り込んで来ても亨は深い観想に嵌まったままで、クラクションを鳴らされて現実へ引き戻された。

 真波に帰る道は、饒舌な運転手に些か辟易する。営業トークを超える喋りには相槌だけを適当に返す亨だったが、沈思黙考は望むべくも無かった。


「曇ってきたねえ。今晩は一雨来そうだ」

「ええ……」

「春の嵐だってさ。強風に注意しろってラジオで言ってたよ」


 夜から天気が崩れるとタクシーの利用者も増え、運転手にとっては恵みの雨にも成り得る。お客さんには悪いけど、と前置きし、今晩は稼ぎ時だと笑った。


「この時刻に真波に行けるのは助かるね。真波駅は、タクシー待ちが並んでるだろうな」

「あの、図書館が閉まる前に着きそうですか?」

「七時半だっけ? あと三十分じゃ、微妙かなあ」


 間に合いはしても、五分くらいしか余裕は無いだろうと運転手は言う。調べ物をするつもりの亨は、それでは時間が足りなかった。

 図書館はいつでも行けるので、それは別に構わない。ただ、他に行きたい候補地が無く、叔父の家に帰っても無意味だろう。


 タクシーはかなり飛ばしてくれはしたが、実際に着いたのは閉館の七分前だった。一度停車した車は、亨の指示でまた動き出す。


 他に目的地が無いなら、魚を追い掛けるべきだと彼は考えた。昼にナマズを見た美大へ向かって、更にもう十分、車は東へと走る。暗くなった大学に到着した時には、ポツポツと雨が降り始めていた。


 閉まった正門を前にして、亨は両手を組んで思案する。この頃の学生は、大学への出入りが緩かった最後の世代だ。夜間の進入も警備員たちは大目に見てくれて、構内で寝泊まりする者が多かった。制作で徹夜も辞さない美大ならではの伝統は、後に全面禁止されてしまう。学生の気質も随分と優等生になったと聞く。


 そんな時代の変遷はともかく、牧歌的な警備体制のなら、夜間の進入も簡単だと高を括っていた。亨は自分の迂闊さを知り、行き先を変更すべきか悩む。


 三月は学生の修了制作が終わった時期で、夜に構内へ立ち寄る者は少ない。それだけならまだしも、三月上旬には入学試験が行われる。この三月十八日という日は、体育館や講堂に受験生の作品が並ぶ採点期間中だった。


 当時ですら、このタイミングで中に入れば悪目立ちする上に、建物内に侵入すると保安装置が反応するだろう。警備員に説教される図が容易に想像された。無理に入ったところで、ナマズがいるとは限らない。


 門の外から、キャンパスを窺って何度も視線を往復させる。魚が見えればゲートを乗り越えるつもりだったが、それらしい光は発見できなかった。諦めた彼は、最寄りの駅に向かって歩み出す。

 大学前のバス停はほぼ学生専用に作られたもので、午後七時が最終便という店仕舞いの早さだ。徒歩で半時間は掛かる道程でも、ただ立ち呆けるよりはマシである。


 徐々にきつくなる雨よりも、横から吹き付ける風のせいで、身体が急激に冷やされていった。空き缶がけたたましく転がり、街路脇の工務店らしき建物のシャッターに当たる。そのシャッターも風圧で揺れ、ガラガラと大きな音を立てていた。


 身体を縮こませて道を進みつつ、頭では魚の居所を考える。これまで見た魚たちは、出現した地点にいくつか法則性が有った。事故に絡むという話は、予測が難しいので一旦、脇に置く。


 一つは作品に関係していること。亨の絵に始まり、ギャラリーや美大のような場所にも魚は現れた。百貨店なら佐路――いや母の絵だったので、必ずしも亨が描いた絵にまつわるとは限らない。大雑把な括りではあるが、美術関連だとなら言えそうだ。


 もう一つは色だ。黄色いベラはパプリカと同色、スズメダイはウエディングケーキの飾りと同じピンク色だった。クジラのように類似色を指摘できない例も、在るには在る。しかし、それも彼が指摘できないだけで、何か共通するが見つけられたのではなかろうか。


 ナマズは晴天の夏空を思わせるセルリアンブルー。この青を見かけたら注意すべきだ。魚が目標とする地点は青であり、何かが起こるのもそこだろう。そうは言えど、青色なんてどこにでもあるのが難点だが。


 空が当て嵌まってしまう日中よりは、まだ冴えた青は少ない。散髪屋のポールは青みが濃いし、カラオケ屋の看板は青と言うより紫だ。強風に目をすがめながら、魚と水色を見逃さないように平坦な駅への道を歩く。


 ずはりナマズと同じ水色は、街には意外と無いというのが半刻後の結論だった。魚を追わずに、佐路を優先した判断を亨は後悔していない。明日になっても現在・・に帰れないようなら、もう一度大学に行って中を見て回ればいいだろう。


 駅前のロータリーに人は少なく、一台停まっていた乗用車はすぐに誰かを迎え入れて去って行く。屋根のある場所に人心地つきつつも、ずぶ濡れの衣服が気持ち悪かった。


 電車に乗る前に身体を拭きたかった亨は、駅の売店に目を向ける。小さな売り場には新聞やスナック菓子が置いてある程度で、ビニール傘すら売り切れだった。

 駅の外に向き直りロータリーの周辺を眺めても、目当てのコンビニは改装中で閉まっている。そう言えば系列が変わったために、卒業前後は一時閉店していたと思い出す。


 張り付いた前髪を掻き上げ、何かと間の悪いこの夜に長い溜め息をついた。見上げた雨空に瞬光が走り、一拍置いてドラムロールの如き雷鳴が響く。


「嵐って言ってたな。いや、今……」


 ロータリーの向こう側に建つビルへ、亨は瞳を凝らした。雑居ビルの屋上には、駅から見えるように大きな広告看板が設置されている。旅行代理店の宣伝が、またもや稲妻で照らされた。


 青だ。紺碧の海に、澄み渡る青空。海外旅行へ誘う広告には、写真の上にパッションピンクの文字が踊る。南洋の空は、正しくナマズの体色と同一だった。


 色だけでは足りない。魚は?

 広告の中央部分、水平線が光っているようにも感じる。もっと近寄って確かめようと、彼はまた風雨の中へ踏み出した。


 歩道の縁石に沿ってロータリーを回り込み、駅とは反対側へ立って真上を見上げる。強風を受けてビルのオーナーが止めたのだろう、普段は看板を照らしているライトが消えており、多少近づいたくらいではやはり見づらい。目に入る雨粒を指で拭い、広告の写真に焦点を合わせる。


「くそっ」


 不確かな光に悪態をつき、もう一度、雷が落ちることを期待した。彼の願いは即座に叶い、また稲光が看板を明らめる。


 盛り上がっていた。看板の真ん中は、ほんの少しだが膨らんでいる。

 ポコンとした突起がナマズであるなら、このまま眺めていればいいのだろうか。それとも、屋上へ上がる方法を探すべきか。


 また夜を切り裂くフラッシュライトが一筋。轟音とのズレは短く、近くに落ちたと知れる。


 ビルの横手には鉄製の階段があり、それを使えば上って行けそうだ。入り口は柵で閉じられているが、攀じ登れる低さである。階段のある路地に向かって、彼が一歩動いた瞬間のことだった。

 目に刺さるような光が辺りの影を消し、今までで最大の雷鳴が轟く。耳を聾する春雷は、彼の直近、先まで見ていた広告看板に直撃した。


 顔を上げた亨は、看板の向きが変わったことに気づく。垂直だったパネルが支柱から外れ、手前にかしいでいた。看板が落ちる、そう察知して、彼はビルから離れようと駆け出す。


 南洋が印刷されたパネルは、予測に違わずバタンと倒れ込んで落下した。避難するという判断は十分に早かったのだが、横風が亨の機転を嘲笑う。


 落下範囲から逃れたと考え、足を止めて振り返ったのは早計に過ぎた。風に流されたパネルは、彼を狙うように途中で軌道を変える。頭上に迫る看板へ目を見開いた時、パネルから青いナマズが顔を出した。


 ナマズは人の大きさまで膨れつつ、亨の腹へ向かって一直線に飛び掛かる。その衝撃で彼はくの字に折れ、濡れた地面を滑っていく。


 丸いナマズの頭に押され、十メートルは歩道を転がっただろうか。呻きながら、泥水塗れの身体を起こした亨の目の前で、ナマズは無数の光となって散った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る