22. 島

 一応、ナマズの行方も気にしつつ、車が到着するのを待つ。門を出入りする知った顔が、何回か彼へ片手を挙げて挨拶した。水原にでも会うと面倒なところだったが、皆、足取り早く通り過ぎる者ばかりだ。大学時代も独りで行動するのが大半で、無駄話をするような友人はいないのが幸いした。


 タクシーは約十五分後に着き、亨が目的地を告げると運転手はバックミラーで彼を一瞥する。学生が単身、荷物も持たずに訪れる場所ではないため、多少奇異に映ったようだ。


 大学は自宅から見て西、南雲市に近い。センターまでは、一時間を優に超す長距離ドライブになるだろう。口数の少ない運転手は特に彼の目的を尋ねはせず、静かに車を発進させた。


 黙って運転してくれるのは有り難い。亨は頭の中でこの数日の出来事をおさらいする。ひとつひとつ事実関係を整理でき、一時間は短く感じるほどだった。


 古臭さを漂わせる街並みを抜け、今も昔もそう変わらない林道へ入る。シルバーセンターもまた、前日同様の姿で車の前に現れた。

 タクシーを帰し、受付けに進んで、来訪者のサインと目的を記入する。佐路は自室に居ると聞いた亨は、教えられた部屋番号に従って東棟の三階へと向かった。


 彼の苗字は、問い合わせの電話で既に伝わっている。「矢賀崎」が訪問すると連絡された佐路は部屋の扉を開け、椅子に腰掛けて待っていた。


 銀縁の眼鏡を鉤鼻に引っ掛け、気難しそうな皴が何本も刻まれた顔が亨に向けられる。読書で時間を潰していたらしく、本に栞を挟んで来訪者の観察を始めた。

 正体の推測は出来ても、予期していなかった亨の出現に自然と佐路の目も険しくなる。


「佐路啓太郎さんですね? 矢賀崎亨です」

「まさかと思ったが、君が亨くんか。親父さんから聞いていたのかね?」

「いいえ、自分で調べました」


 どうやって、と佐路が問うのは彼の予想通りではある。しかしながら、どこまで素直に話していいものか、タクシーの中でも亨は悩み続けた。経緯を説明する前に、彼は自分の知った事実を並べてみせる。


 彼の両親が四枚の絵を描き、佐路に手渡した。『雨の天女』は芳画展に出品し、現在はセンターの会議室に在る。佐路の死後、センターが絵を手放す場合は、亨も引き取り候補に指定されている。


「その通りだが……君は質問に答えていない。どうやって、それを知った?」

「全て、この目で見ました。絵も、絵にあるサインも、あなたが署名した念書も。信じてはもらえないでしょうが、俺は――」

「いや、信じよう」

「――見たままの年齢じゃないんです。あなたの亡くなった未来から来ました」


 夢で見ました、そう中途半端な嘘をつくのは止め、亨はストレートに自分の実年齢を告げる。こんな荒唐無稽な話を佐路は否定はせず、亨も椅子を使うように指で示した。


 コーヒーテーブルを挟んで座った二人の姿勢は正反対だ。佐路は背もたれに身体を預け、亨は身を乗り出し、手を組んで相手の目を見る。


「生きてるうちに、また会うとは思わなかったよ。未来とはな。貴重な体験だ」


 なぜこうも簡単に亨を信用するのか、問い質したくなるのを彼は我慢する。


「……信じてくれるなら話が早い。あの絵は、何故あなたに預けられたのですか?」


 前のめる彼を、佐路がやんわりと制した。誰にも話さない、そういう約束なんだと彼は言う。


「君の両親は話さなかっただろう? それを私が台無しにする気は無い」

「しかし、最終的に俺も絵を見る手筈だったじゃないですか。もう説明してくれていいはずです」

「違うね。捨てられるくらいなら、親族に返す約束だ。君の孫の代のことかもしれないし、ずっとここに飾るのかもしれなかった。亨くんが目にしたのは偶然だよ」

「そんな馬鹿な。じゃあ、絵の目的は? 俺へのメッセージじゃないのか?」


 佐路は額に手を当て、瞑想するように目を閉じる。返事が無いのに焦れた亨がもう一度質問しようとした時、ようやく老人の口が開く。


「あんな約束、私は止めたんだ。悔やみを言うのが遅れて悪かったね。ご両親が亡くなって五年くらいか」

「もっとです。もう昔のことになりました。そんなことより――」

「分かったよ。私自身のことくらいなら、教えてても構わんだろう。私はね、郷土史を調べておったんだ」


 自分語りを始めるのかと興醒めた顔をした亨に、すかさず大人しく聞くように忠告が飛ぶ。時間は取らんと言う佐路を、彼も信用するしかない。


 彼は生まれも育ちも真波市で、現役時代は高校で日本史の教師を務めていた。空いた時間を利用して真波の郷土史を調べ、あちこちの史跡を訪れたらしい。開発の激しい市の中心部にも、古い堀や社の跡は遺されている。それらを見て歩く内に、佐路は更に古い歴史へ興味を移す。


「川の流域に広がる平野に人が集まり、真波が生まれた。かつての海岸線は、もっと内地に存在したとは思わんかね?」

「まあ、そうかな……」


 真波がそもそも海を連想させる名であり、南雲は古くは“凪ぎ藻”、秦樽は“はた垂れ”とも表記されたと言う。“はた”は端の意の古語で、この辺りまで海が入り込んでいたのではと佐路は推測した。


「そこでだ。最も古い遺物が在るとすれば、古代から陸地だった場所だろう。二科山、あれは“二島にしま”が由来だと私は考えた」


 そうやってを調べ出した頃、彼は矢賀崎夫妻と出会う。ここまで滔々と持論を喋っていた佐路は、亨の両親が登場した途端に口を重くした。


「黙して語らず、が君の両親の約束だからな。代わりに矢賀崎氏自身は記憶を絵にした。それくらいしか、できなかったんだ」

「わざわざ言葉じゃなく絵で?」

「夫妻も昔のことをロクに覚えていなかった。だから、抽象的な絵で表現したんだろう」

「にしても、あの絵では分かりづらい」

「知らなくて済むなら、その方がいいとも言っていた。絵は残された君への保険かな。万一、君が君を知りたくなった時のために、小さな鍵を作っておいたんだと思う」


 全てが消える前に絵を仕上げた両親は、佐路にその後を託した。展覧会に出したのは、箔を付けて世に受け継がれるのを狙ったからだ。


「よく分からないけど……絵を捨てられたくないなら、自分の名前を出すのが一番だろ。二人とも、そこそこ名の通った作家だ」

「それじゃ君が見てしまう。少なくとも、若い亨くんに知られるのは嫌だと言っていたからな」

「待ってくれ。その言い方だと、親父たちは亡くなるのを予想していたみたいだ。火事が起こるのを知っていたのか?」

「さあ。自分たちはそう長くない、と言ってたが」


 曖昧な佐路の語りでも、いくつか新しい事実はある。両親と佐路の関係は古く、亨が生まれるかどうかという昔からの知り合いだということ。その昔に、何か約束が交わされたこと。そして父も母も、「全てが消える」と予感していたこと。


 二人はひょっとして未来を見たことがあったのだろうか。そうだとすれば、どうして火事を防がなかった? 佐路に両親の話を尋ねても、それ以上は頑なに話そうとせず、亨も質問を変えざるを得なかった。


「約束とは?」

「それを話せるわけがなかろう。私が口を出せる事柄じゃない」

「両親はもう亡くなった。あなたとの約束も時効でしょう?」

「君は勘違いしている。約束をしたのは、矢賀崎夫妻と島だ。私じゃない」

「は? シマ?」


 理解に苦しむ発言に、亨も思わず調子外れな声を出してしまう。島とはどういう意味か。問い質された佐路は手近な新聞紙を引き寄せて、空いたスペースに何やら書き留めた。


「島は真波を見守っている。私も実際に体験するまでは、信じやしなかった」

「これは?」


 差し出された新聞の切れ端には、本のタイトルが記されていた。


「私がまとめた薄っぺらい本だ。自費で製本して、真波の図書館にも寄贈した」

「読めば“約束”が何か分かるんですか?」

「いいや、島の由来が分かるくらいだ。しかし、あれが如何に不思議な存在かは読み取ってもらえるかもな」


 タイトルを覚えるまで佐路の字を凝視していた亨は、顔を上げて絵についても質問を重ねた。絵の四枚目はどこに在るのか、その答えに失望する。一枚は佐路に渡さず、両親のアトリエ、つまり焼けた自宅に残したらしい。

 最後にもう一つ、絵に瀬那が描かれているのは何故か。


「瀬那? そりゃ当然……ああ、“天女”のことかね?」

「そうです。両親が会ったはずはないのに」

「会ったんだろうとしか、言いようがないよ。描いた本人だけが知ってることだ。私は姿まで見ていない」


 こればかりは佐路に道理が有り、彼が答えられなくても当たり前だ。この後も細々とした問いを繰り返したものの、大して収穫が無いまま時間が過ぎる。会話が途切れ、亨が俯いたところで、佐路は彼の帰りを促した。


「さあ、そろそろ晩飯だ。何を悩んでいるのか知らんが、あまり思い詰めてはいかんよ」

「……そうもいきません」


 立ち去ろうとする亨へ、メモした新聞は要らないのかと佐路が呼び止める。どうせ未来には持って行けないという亨の言葉に、彼は初めて笑顔を見せた。


「なるほど。私の死期も、聞いとくべきだったかな」

「知りたければ、お教えしますが?」


 一瞬、目を細めた佐路は、きっぱりとその申し出を断る。


「いらないな。未来など知っても、何の役にも立たんよ」


 決然と答える老人に、軽く頭を下げ、亨は部屋を後にした。

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