21. 白い画布

 ギャラリーの一階は展示スペースが大半を占め、奥に事務室や給湯室がある。亨の作品を仕舞う場所も作ったが、クローゼットと見間違う狭さだ。大きな作品は自宅のアトリエに置いているので、これで十分間に合っている。


 今夜、用が有るのは二階、こちらへ立ち入る機会は少ない。両親が使っていた時の品々は、二階の二部屋に分けて収納した。


 古い帳面や書類、過去のギャラリーのチラシなどを集めた記録室。親二人の作品を収めた保管室。一番広いのは寝泊まりが可能な畳敷きの大部屋で、これはギャラリーを借りる客がたまに使う。学生グループには、ホテル代が浮くと好評だった。


 亨はまず作品保管室のドアを開け、照明のスイッチを入れる。立ち並ぶ棚が狭苦しい十畳くらいの部屋が、三つの裸電球で照らされた。


 ギャラリーに在ったことで助かった絵は、両親それぞれ二十にも満たない。完成品で出来の良いものは二宮に扱いを任せたので、未だ残るのは亨が取り置いた作品だけだ。彼が特に気に入った絵や特殊な実験作などが主で、全て額装されている。亨も何度か目を通した作品群ではあるものの、どうしても再度見ておきたかった。


 棚幅の狭い作品用ラックから、平積みされた額を引き出して絵の内容を確かめる。清潔な部屋にも拘わらずガラスに埃が積もっているのは、それだけ長く放置したということだ。二人の絵を蔑ろにするつもりは無いが、前回、部屋に入ったのは年単位の過去だった。


 一枚ずつ箱に入った作品は、垂直に立てて集めてある。これらも蓋を開けて丁寧に調べていった。

 二宮が言う佐路の四枚目の絵は、ここで見つけられるのではないか。その希望的な観測は、あっさりと裏切られた。彼が念入りに確かめたのはサインの有無である。署名の無い絵があれば、それが紛れ込んだ四枚目かと考えたのだ。


 一通り見終わって全作品のサインを確認した亨は、床へ尻からしゃがみ込んだ。オレンジの電灯を見上げて、徒労を嘆くように息を吐く。


「もう他に絵は……」


 いや、未使用のキャンバスならあったと、彼は保管室の隅へ目を遣った。

 部屋の角に、巻いた画布が無造作に立ててある。厚く白無地の只の布だ。油彩を描かなくなった亨には不要なため、手つかずで放っていた。


 無駄と知りながらも、こうなると見ずにはおれない。立ち上がった彼は、棚と壁の隙間に押し込まれた布を持ち出して端から広げ始めた。


 巻物を読み取るように右手で床に立たせたキャンバスを回転させ、左手で新たに巻き取る。さすがに白い布が延々と続くだけかと思われた、その作業の中程のことだった。キャンバスの真ん中に、淡く青い染みを見つける。


 汚れにしては、軽く発光するような煌めきが不自然だ。よく見ようと顔を近寄せた亨は、鼻先を押されて思わず首を引っ込めた。画布の染みが盛り上がり、こんもりと曲面を描く。


 水色の膨らみには、左右に二つ小さな球が埋まっていた。目だ。

 魚の目が彼を正面から見据える。偏平な水色の顔は、ガラスのナマズのものだった。ゆらゆらと髭を波打たせて頭だけを突き出しており、身体はキャンバスの中に留まっている。


 暫し亨と向き合っていたナマズは、何かを思い出したように身体を反転させた。ポチャリ、という音が聞こえたのは、彼の気のせいだろうか。同心円に広がる波紋を残し、ナマズは白い画布の向こうへ去っていく。


 巻いた布を押さえていた右手を、亨は揺らぐ円の中心に突き立てた。それでナマズの尾をつかめるなどと、理屈で考えたのではない。反射の為せる行動だ。


 だが、待ってくれとキャンバスに触れた指は、彼の意に応えて深く沈む。柔らかな粘土に押し付けたが如く、手は布を通り抜けた。

 肘の辺りまで嵌まり込んでも、指は虚空を掻くばかり。一旦諦め、手を抜こうとした時、亨は逆に強い力で引っ張られる。


 猛烈な勢いで体が吸引され、抗う間もなくキャンバスが彼を飲み込んでしまう。

 光が消え、重力が滅し、世のことわりが捩曲がる。魚の世界へ導かれ、亨は意識を手放した。





 最初に感じたのは、痛みだった。痛覚が亨の目を開かせる。

 いつもの頭痛ではなく、左肘をしたたかに打ち付けたらしい。身体を起こせば左の腰骨も鈍痛を訴えており、どうやら左半身から地面に倒れ込んだのだと分かる。若しくは、落下したかだ。


 彼の格好は年中似たようなもので、厚手の綿シャツを着ていることが多い。袖を捲くることも無いため、今回は服が裂傷から肘を守ってくれた。

 腰を摩りつつ、自分の居場所を把握しようと首を回す。どこにいるのかは、意外にすぐ目星が付いた。


 木漏れ日が斑模様を作る芝生の上。レンガが敷かれた遊歩道に、並ぶベンチ。一見、公園かと思う風景だが、目の前に建つ大きな実習棟が違うと教えてくれる。コンクリートの打ちっぱなしで統一された殺風景な壁が、三棟に亘って続く。彼がよく知る、美大のキャンパスだ。


 落ち着いて自身を見直せば、シャツの色は白からクリーム色に変化していた。おそらくこれも過去、学生時代に飛ばされたのだろう。

 もはや世界が切り替わったとて、大した驚きは感じない。それより社会人になっても自分の身形みなりが大差ないことに、彼も苦笑いが浮かぶ。


 では、正確にはいつの過去なのか。大学の四年間の内、何年に来たのかを知ろうと亨は事務棟へと足を向けた。


 建物の中からは若い学生たちの騒ぎ声も聞こえるが、人影は疎らで閑散としている。土日でも制作のために通う者が多かったことを考えると、もっと長期の休講期間かと思われた。


 日なたから出て、建物の影に足を踏み入れた途端、亨はぶるっと身体を震わせる。陽射しで緩和されていた冷気が本来の厳しさを取り戻し、彼から急速に熱を奪った。この寒さは春休み、三月くらいか。


 学生課は正門から一番近い、事務棟の二階に在る。大学の構造は馴染みがあり迷いはしなかったものの、肝心の窓口は閉じられていた。

 尋ねる相手がおらず無駄足になりそうだったのを、案内の貼り紙が助けてくれる。三月十八日、木曜日。職員が全て休んでいるらしい。


 部屋の中を覗き込むと、カレンダーで年が、壁掛け時計で時刻も判明する。大学最後の年――いや、日付からして卒業直後の初春、その午後三時過ぎだ。

 在学中ではなかったことを訝しがりながらも、最も知りたかった情報は入手した。満足して振り返った彼の視線の先を、水色の光が泳ぎ去る。


「ナマズ!」


 一瞬、その青い光を追おうと駆け出した亨は、やがて電池が切れたように足を止めた。魚が大事な存在だという思いに変化はない。追いかければ、何かを見せてくれるのだと確信もしている。


 これまでずっと、魚を追って世界を変遷してきた。魚に翻弄されてきたとも言える。その結果、大量の情報を手に入れた。過去や夢の破片を、順不同に、繋がりも判然としないまま掻き集めた。


 これでいいのか、と彼は自問する。これではいつまでたっても、事の核心には辿り着けないのではないか、と。この時、亨は不安と焦燥のどちらをも、懸命に理性で捻じ伏せた。


「お前は……後回しだ」


 ナマズは遠く外壁を抜け、街へ飛び出ていく。

 光る魚が遠ざかるのを窓から見送り、彼は学生課へと戻る。今回ばかりは、魚よりも優先したい目的を思いついたからだ。


 学生課のカウンターの隅には、学生のために電話が設けてあった。現在では珍しい、テレホンカードを利用する黄緑色の公衆電話である。ご丁寧に、電話の隣には分厚い電話帳も置かれていた。


 職業別の電話帳を取り上げ、手早くページを繰っていく。宣伝付きの掲載スペースはよく目立ち、簡単に探しものは発見できた。


 財布はあってもテレホンカードを持ち合わせていないので、百円硬貨を投入口に滑り落とす。“はたたるシルバーセンター”は、一回の呼び出しで応答した。


「すみません、そちらに佐路啓太郎さんは入所されていますか?」

『少々お待ちください……はい、おられます。内線にお繋ぎしましょうか?』

「いえ、面会したいんです。可能でしょうか」

『平日の十七時まででしたら、特に問題はありません。それ以降の時間になる際は、事前にセンターへ御一報ください』

「分かりました。今から一時間くらいで、そちらに伺います」


 理屈はともかく、ここは過去の世界であり、瀬那も佐路もまだ生きている。なら、当人が何か教えてくれないか試すべきだろう。


 瀬那へ真っ先に会いに行きたいところだが、脳細胞をどう辿ろうと、彼女の居場所は欠け落ちた虚無へ行き着いた。最初の出会いすら思い出せないのだから、諦めるより仕方無い。亨と知り合う前の彼女が、この広い真波市のどこかに居るはずなのに。


 佐路に会うのは、手掛かりを得るための次善策だ。佐路は魚に代わる道標となり得る。両親とどんな関係だったのか。絵に名義を貸したのはなぜか。聞きたいことは山とあった。


 財布の札入れを覗き、数枚の万札を中に確かめてから、タクシー会社の番号を調べる。ハイヤーを一台、正門前に呼んで亨は外に出た。

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