20. 裏

 二人で絵を家に運び入れると、摩衣の仕事はこれで終わる。彼女はまた夕食を一緒にするつもりだったらしいが、夜は離れるべきだと亨が説き伏せた。今日の慰労はまたランチでと約束し、車は市内の下宿先へ走り去る。


 摩衣を見送った彼はダイニングに戻ると、キッチンテーブルを真ん中から摺り動かして壁から離した。


 勝手口、二階への引き戸、そしてシンクで壁の三方は埋まっており、残り一面がカレンダーと時計だけが掛かる無垢の壁だ。空間を作ったのは、その壁の前で、三枚の絵を並べて立て掛けるためだった。何れ二宮の画廊に持ち込んで額装をし直すつもりであり、当座はこれで構わない。


 テーブル越しに絵を眺めつつ、彼は電話の受話器を手に取った。白楼画廊の番号を押すと、呼び出し音もそこそこに二宮本人が出る。


『おう、亨くんか。久しぶりだね』

「何度も……いや、ご無沙汰してます。ちょっとお伺いしたいことがあって」


 ここからの遣り取りは、亨にしてみれば二度目である。二宮が佐路啓太郎を思い出すまで説明を繰り返し、もう一回、彼の口から作品について話してもらった。佐路は寡作家で、四枚しか制作していない。昨日も聞いたその部分で、亨は確かかと聞き返す。


『私も直接見たのは芳画展の一枚だけなんだ。佐路本人が、自分は四枚しか描いていないと言っていた』

「完成したのは、という意味ですかね。いくら寡作でも少ない。習作もあるだろうし」

『作品は全て、はたたるシルバーセンターに寄贈したそうだよ。買い取り不可だと言われて、引き下がらざるを得なかった』

「行って来ました。シルバーセンターへ」


 センターには三枚が残されていたこと、それらは亨が引き取ったことを伝えると、驚いた声が受話器から響く。矢賀崎昇一を引受人に指定してあったことは、二宮にも予想外だったようだ。


「父と佐路の関係について、何かご存じないですか?」

『うーん、聞いたことが無いなあ。調べるなら、亨くんの家だろう』

「俺の家?」

『筆マメな人だったからね。日記か手紙か、何か遺品はないのかい?』


 父が筆マメだなんて初耳だと言う亨へ、それは思い違いだと二宮が正す。両親は二人とも、何かと手紙や葉書を書いて画廊に寄越したらしい。母、矢賀崎橙子とうこは、物覚えが悪い夫婦の自衛手段だと笑っていたらしい。


 また画廊に行くと告げて電話を切った彼は、二宮の助言について考える。両親の個人的な身の回り品は、尽く焼けて残っていない。現場から回収出来たのは金庫だけで、遺品を求めて自宅を探すのは無意味だ。


 もし未読の何かがあるとすれば、ギャラリーであろう。亨が引き継いで再オープンした時に調べたとは言え、見落としも有り得る。


「今夜も出向いてみるか……」


 その前に腹拵えを済まそうと冷凍室からピラフを取り出し、皿に開けて電子レンジへ入れた。安直な晩飯だが作品を部屋の中に置いてしまったため、どちらにせよ油を使うのはよろしくない。七分後には電子音が完成を知らせ、更に十分で味わいもせず口に掻き入れる。


 皿に水を張っただけで後片付けもそこそこに、亨は絵に歩み寄った。食事中も眺め回して確認したものの、今一度、顔を近づけて念を押す。いくら探そうが、三枚の絵にはサインが存在しなかった。


『雨の天女』をひっくり返して裏を見ると、芳画展に出した際の応募票が未だに貼付けてある。佐路啓太郎の名に作品タイトル、受付け番号と必要な情報は記載されていても、亨には違和感が拭えなかった。


 四方に八箇所ある留め金を、親指の爪でゆっくりと回す。固い金具に難儀しつつ、全てを解除して裏板を外せばキャンバスの裏側が剥き出しになった。横木の補強すら無いロ型の木枠に張り留めた絵は、アルミフレームから簡単に取り出せる。画布の裏も綺麗なもので、文字も記号も見当たらない。


 作品は木枠の側面に、大型のステイプラーの針で留められている。針の数も少なく、他に穴の跡が無いところを見て、制作時の枠をそのままフレームに収めた可能性が高い。


 中身を取り出しても、収穫は無し。二重の裏板、画布の裏に書かれたメッセージ、そんな手掛かりを期待した亨は大いに落胆して、絵をフレームに戻そうと縁をつかんだ。


 木枠がキャンバスに落とす影が、曲線を描いている。枠が微妙に捩れているためで、絵をクルクルと回して様子を確かめた。簡易な木枠を使用しているからだろう、十年の月日で歪みが生じたようだ。どうせ洗浄を依頼するなら、ついでに枠も丈夫な物にグレードアップするべきだと算段する。


 キャンバスに弛みが出ていないかチェックしようと作品を天地逆に持ち替えた時、亨の視線が一点に注がれた。枠に沿って折れたキャンバスの端、四角の底辺に黒鉛のかすれが付着している。


 柔らかい芯の鉛筆で走り書かれた文字は、擦れて一部が判別しづらい。人によっては、文字と認識できないレベルだろう。

 亨がそれを読み取れたのは、同じ筆跡を知っているからだ。横棒のやけに長いTに続く、二つの点と鋭角の組み合わせ。矢賀崎橙子のサインだった。


 絵をフレームに戻すのを中断し、彼は残りの二つの作品も、裏板を外しに掛かる。木枠の仕様は三作とも変わらず、裏面に記述が無いのも一緒。そして、キャンバスの下を見れば、同じ場所に小さな鉛筆書きのサインが認められた。


 抽象画の署名は、『雨の天女』にも在った矢賀崎橙子のものである。濡れた岩肌を描いた作品のサインは二つと違い、曲線を蛇行させた読み取りづらい筆致だ。これも亨には問題なく識別できる。父、矢賀崎昇一の署名であった。


 三枚の画風に随分と差があったのは、これで説明可能だろう。絵が佐路啓太郎の作品ではないと、この時点で亨は確信した。港や古い工場を好んだ洋画家の父が緻密な岩肌を描き、画材を選ばない幻想画家の母が残りの二枚を制作した。


 佐路は寡作家ではなく、四枚にだけ名前を貸したのではないだろうか。そう考えて絵を見直せば、両親の画風に通じる筆の運びも感じられる。

 何のために? 自分たちの名を伏せて、絵を描いた理由は? 絵が両親の手による物なら、もう一つ大きな疑問も生じる。二人は瀬那を知っていたのか?


 両親が瀬那を知るチャンスなど存在しないし、そんな話を聞いたことも無い。彼女と知り合ったのは亨が成人してから、つまりは親が亡くなってからだ。初の個展を訪れた瀬那に、彼の方から声を掛けた。『水景』シリーズの前から動かない彼女を、最初は有望な客が来たかと――。


 ――卒業後初めての個展に、『水景』を出していたはずがない。描いたのはもっと後だ。

 時系列に混乱した彼は、瀬那と出会った時期を修正しようと考え直す。しかし、『水景』は依頼制作した作品で、個展に出したことは無いと思い返した。


 彼女が見つめていたのは、『雨垂れ』だったようにも思える。それが在学中の作品でなければ、正解としただろう。卒業制作の『雨垂れ』は、今も大学の保管庫に埋もれている。


 ガラスのクジラを手にして微笑む彼女なら、自然と思い浮かべられた。自作を持つ姿なのだから当たり前で、出会いとは無関係である。

『雨の天女』を背景に立つ瀬那。これほど彼女のイメージにそぐう組み合わせは、他に無い。


「なら、何だ」


 こんなのが記憶? 連想ゲームじゃないかと苛立つ。

 おもむろに立ち上がた彼はシンクまで歩いて行き、伏せて乾かしていたグラスをつかむ。水道水を半分ほど注いで一気に飲み干しても、頭は冴えてくれなかった。


 分からない。何もかもが理解できない。記憶を喪失した不安は、早く早くと彼を急き立てる焦燥に変わった。当てのない焦りは、答えを得られない憤りに変わる。


 魚、過去、絵。両親に瀬那、摩衣の死、佐路。どれもこれもがバラバラで、関連がありそうに見えて線に繋がらない。叩き割れ、パーツがいくつも失われたガラスのように。


「誰か――」


 助けてくれ、その言葉を辛うじて呑み込む。このままではいけない自覚はある。パズルを完成させるのは、自分自身に他ならないのだから。


 真鍮のリングにまとめた鍵束をポケットに放り込み、家を出る。身体を動かすことが正解だと言わんばかりに、彼はギャラリーへの夜道を急いだ。

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