19. 三枚の絵

 作品はキャンバスを留めた木枠をフレームに嵌め込んだだけで、周囲をトリミングするマットも、保護用のガラスやアクリル板も使われていない。佐路の絵は、この部屋に剥き出しで置かれていたわけだ。

 つい最近、制作直後の絵を見た亨は経年による劣化を敏感に感じ取り、中川へ指摘した。


「全面にちょっと茶色が乗ってる。この会議室で煙草を吸うんですか?」

「昔は喫煙可だったようです。五年前くらいに、全館禁煙となりました。傷んでますか?」

「保護ワニスはしっかり塗ってあるし、洗浄できる範囲です。一度洗って、アクリル板を嵌めた方がいいだろうな」


 彼の傍らから、摩衣も絵を覗き込む。


「……不思議な雰囲気ですね。古典的な風景画のようでいて、焦点がどこにも合ってないような」

「『雨の天女』だそうだ。似てるだろ、瀬那に?」

「うーん、どうかなあ。捉えどころが無い作風は、そうかもしれません」


 飽きない絵ではあっても、立ち呆けていては日が暮れる。適当に鑑賞を切り上げ、彼は左壁へ移動した。名称を記すプレートの類いは無いので、作品タイトルは不明である。


 暗い背景の上に黄色や緑の点が散った構図は、やや古い抽象絵画を思わせた。明度をぐっと落としたポロックというところか。天井から吊した絵の具缶に穴を空け、振り回して滴った軌跡を作品とするドリップ・ペインティングというやつだ。


 色を選ぶセンスに光るものは感じるが画法に目新しさが無く、『雨の天女』ほどの感銘は受けない。摩衣も似た感想を述べたところで、最後の一枚へと移る。


 部屋の反対側に掛かっていた絵は、最も写実的なモチーフが描かれていた。雨に濡れる岩肌だけが、画面一杯に広がる。御影石のようなモノトーンの斑のある岩の表面、雨に打たれたような無数の水滴。精緻な表現は、他の二つとは随分と違う。


「どう思う?」

「上手いですね。彩度は低いのに、濡れた肌合いが繊細なので退屈しないです」

「そう、技術の有る画家だと思う。ただ、何を描きたかったかと言われると……」


 三つの作品を見比べれば、佐路という画家が求めたテーマが浮かんでくるかと期待した。しかし、表現技法はバラバラで、余計につかみ切れなくなった気がする。


 薄いカーテン越しに、夕方の温い西日が部屋の中を仄かな暖色に染めた。亨は何度も絵の間を歩いて回り、会議室をぐるぐると三周する。結局、この場での鑑賞だけでは満足できず、佐路の絵は彼の自宅へ持ち帰ることに決まった。


 亨が引き取ると言ったところで、彼もまさか即座にセンターが応じるとは思っていなかった。だが中川は早速絵を壁から下ろし、車へ運ぶのを手伝うと申し出る。三枚の絵は寄贈品でありながら、公式には佐路の遺品として登録してあったらしい。ややこしい行政上の問題は存在せず、亨の身元さえはっきりしていれば良いそうだ。


 壁から絵を下ろすと、三人が一枚ずつ持って摩衣の車まで運んで行く。アルミの額は軽く、多少嵩高いだけで、階段経由でも楽なものである。車の後部席を倒してトランクと地続きのスペースを確保し、そこへ重ねた作品を水平に置く。絵の左右をクッションなどで詰め、揺れを防止した亨たちは、また一旦中央棟へ戻った。


 事務室で二通ほど書類に署名すれば、それで手続き自体は完了する。こうもスムーズに話が進むのは、絵を厄介払いしたかったのではないかと勘繰ってしまう。管理部長が一層にこやかになったところを見て、あながち間違ってもいないだろう。


 施設の見学まで勧められたものの、あと二時間もせずに陽が沈む。丁寧な対応に感謝を伝え、二人は早々に真波へ帰ることにした。


 車が動き出してからは、亨は首を捻って後ろへ向きっぱなしになる。カーブの度に作品が傷付かないか気にしたためだ。そんな彼へ、摩衣が前方を見たまま話し掛ける。センターでの彼に、特に佐路の申し送りを読んだ時の態度に違和感を覚えたからだった。


「同じ街の画家なんだし、お父さんと佐路さんが知り合いでも、おかしくないですよね」

「そう考えても自然だな」

「でも、驚いた?」

「そりゃあ……いや、知り合いだったのはいいんだ」


 彼が父の交遊関係を知らなくても、なんら不思議ではない。寡黙な父から、個人的な事について聞いたことはほぼ無かった。これが母であっても似たようなものだ。俗事に関心が薄く、興味が無ければ取引先の名前ですら忘れてしまう芸術家夫婦なのだから。


 それでも父の名を見た時、両親が何か佐路に関して話していなかったかと亨は記憶を探った。二人が口にした画家の名前、付き合いのある友人、仕事の内容。食事の際に何が話題に上った? 誰かに会った、或いはどこかに出掛けた、そんな会話に手掛かりは無かったか?


 何も無い。真っ白だ。

 両親の顔や名前はもちろん覚えている。中学時代に描いた絵を見せた時は、父の満面の笑みが拝めた。その絵が賞を取った際も、そんな珍しい笑顔だった。父の思い出と言えるのは、それくらいである。


 瀬那だけではなかった。父や母の記憶も虫食いだらけだ。

 真田や水原の方が、よっぽど細かいエピソードを覚えていた。親しい人間ほど思い出が消えているのでは、と彼は仮定する。叔父、叔母、二宮、美大時代の同級生……。摩衣との出会いもまだ記憶に新しい。これらの人物については、差し当たり抜けた記憶は無さそうに思えた。

 では、瀬那と両親の三人が関わる事項だけが、薄ぼけた霧の向こうに消えたのか。


「俺の、自分自身の記憶が少な過ぎる。子供の頃の思い出が吹っ飛んでしまってる」

「子供って、小学生の時とか? それくらい普通ですよ。私だってクラスメートの名前とか忘れました」

「だからって、何が楽しかったとか、怖かったとか覚えてるもんだろ。体験した実感が無い」


 唯一、幼い内から描き続けた絵は、他と比べて鮮明に今も思い出せる。クレヨンの匂い、水彩絵の具で汚した指先、水を含んでベコベコと波打った画用紙。


 大量に描いた作品は火事で全焼したものの、その内容を今も忘れてはいない。彼が描く対象はいつも頭の中から湧き出て来る。何かを観察して絵に写すのではなく、描きたいイメージは常に自分の内側にあった。


 気に入らなくて、完成間近の作品を上から刷毛で塗り潰したこともあった。最後の詰めが甘く、苛立ち紛れに塗りたくる癖は今もそう変わっていない。


 市のコンクールに出した絵を描いた時は、出品する直前、父に言われてサインを入れた。自信は無くとも、一つの作品を仕上げだという達成感が心地好かったのを覚えている。


 最初は動植物が多かったモチーフは、中学生の頃にはどんどんと幻想的に変わっていく。水や雨を好むようになったのも、この時期からである。高校時代にはまだ人物画なども描いていたものの、具体的なモデルのないものばかりで、大学ではついに抽象一辺倒だった。

 そう、こんなことなら、いくらでも頭に再生できるのに。


「何か思い出せました?」

「全然。絵のことばっかりだ」

「小さい時から、制作で頭が一杯だったんでしょ?」


 美術バカと言わんばかりに、皮肉っぽく摩衣が笑う。


「大学受験の前ならともかく、小学生から絵画漬けだったわけじゃないよ」

「でも確か、最初に入賞したのは中学だったって」

「コンクール用に描いたんじゃないけどね。慌ててサインを考えるハメになって……」


 また言葉が途切れたため、彼女は亨の様子に一瞥をくれた。物思いに沈んだ彼の視線は、後部席の絵にじっと注がれている。

 信号で止まったタイミングで亨は前へ向き直り、先を急ぐように促した。


「暗くなる前に家へ戻りたい。日が落ちたら俺は降りる」

「やっぱり、そうですよね……」

「脅かすつもりは無いんだ、リスク回避だよ。夜の同乗は避けよう」


 彼女一人なら大丈夫だという保証は無いので、出来れば夜の運転自体も控えた方が好ましい。とは言え、今日のドライブは百パーセント亨の目的を果たすためで、直ぐに絵を引き取れたのも彼女のお陰だ。改まって礼を言う彼へ、他人行儀だと摩衣は顔を顰めてみせる。


 亨の自宅に帰り着いたのは、もう陽光が弱々しい黄昏時だった。

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