第三章 青、そして赤

17. 夢なのか

 勝手口のチャイムで起こされるのは、二日連続だ。まさかと目を擦って身体を起こし、黒デニムに足を通したところで、はたと手が止まった。


 チャイムが再び連打されたため、着ていた喪服の行方を考察するのは中断する。厚手の帆布のシャツをざっくりと羽織り、彼は下へ降りて行った。勝手口のノブに手を掛けた亨は、一呼吸の間を置いてからドアを開く。昨夜の出来事は全て夢、そう願わずにはいられなかった。


「起こしてしまいましたか? 朝寝坊ですね」

「摩衣くん……」


 天を仰ぎ、叫んでしまうところだ。目を閉じたかと思えば、またくしゃくしゃの顔で見つめてくる亨の態度に、摩衣も掛ける言葉に迷う。取り敢えずと中に招き入れて椅子に座らせた彼女は、彼の身に何かあったのかを尋ねた。


「昨夜、クジラに葬儀場へ連れていかれた。│君の《・・》葬式だったよ」

「私の!? そんなの夢ですよ、縁起でもない。私はピンピンしてますって」

「そう……だよな」


 摩衣の心底呆れたという顔に、彼も悪い冗談だったと軽く笑い返す。

 あの濃い群青色のクジラは他の魚のように彼を助けるでもなく、絵や瀬那とも関連が無かった。魚を気にするあまり彼が見た白日夢、そう考えた方が納得し易い。それはそれで、精神的に参っている証拠になりそうだが。


「じゃあ、昨日は君が連れて帰ってくれたのか? 覚えてないんだ」

「家まで車で送りました。別れた時は、元気そうだったのになあ」

「最近、どうも記憶が怪しいんだよ」

「そう言ってましたね。一日前の記憶でもなんだ。やっぱり……」


 やっぱり病院へ、彼女はそう言いたいのだろうが、医者嫌いの亨は首を横に振る。身体の不調と違って動くのに支障はないため、余計に面倒臭さが勝ってしまう。


「でも、食欲が無いとか、寝られないなんてことは? 頭痛がするとか」

「別段、変わったことは……たまに頭は痛むかな」


 彼の言葉に合わせて視線を上げた摩衣は、亨の左側頭部、髪の生え際に目を留めた。


「おいおい、頭痛の原因を外から見たって――」

「怪我してるじゃないですか。切り傷があります」

「んん? ああ、ホテルで付けた傷か」


 触ってみたところ傷口はすっかり塞がれて、ゴツゴツとした瘡蓋かさぶたになっている。縫うほどの深さでもないだろうしもう治ったよ、と言う彼へ、摩衣が苦言を呈した。


「今日一日くらいは、消毒を続けた方がいいです」

「心配し過ぎだろ」


 ぶつくさ言いながらも亨が二階から噴霧タイプの傷薬を持って来ると、彼女がその瓶を奪う。ティッシュを数枚抜き取った摩衣は、何度か傷口へ吹き付けた後、頬骨に落ちる滴りを拭った。


 怪我の処置が終わっても、彼女は濡れた屑を持ったまま彼を見遣る。何か言いたげな様子に、亨も口に出すよう促した。


「昨夜は、どこへ?」

「いやだから、夢なのかよく分からないんだ。葬式は南雲だったかな」

「ホテルっていうのは?」

「リュミレだよ。昼の話だ」


 彼女の得心が行かない顔を見る内に、亨の胸中にも奇妙な居心地の悪さが宿る。噛み合っていない会話は、何がもたらしたものか。


「昨日は朝から白楼画廊へ行き、昼にホテル・リュミレに出向いた。君と二人で」

「私? 会ったのは夕方です。二人で外食しました。レストランに行ったのも忘れたんですか?」

「それは覚えてる。違うんだ……今日は何曜日だ?」

「金曜日です」

「はあ!?」


 一日飛んでいる。いや、巻き戻ってしまった、か。摩衣に詳しく話を聞くと、今日がロッソを探しにいった次の日で確定する。

 理解不能な現象ではあるが、昨日の出来事は全て無かったことになった。摩衣は死んでおらず、リュミレで騒動も起こしていない。


「待て。おかしい」

「待ちません。今日は絶対に金曜日です。諦めて」

「……怪我は残ってる。全部が夢だったとは思えない」

「え、どういうことです? 矢賀崎さんのことも話してくださいよ」

「コーヒーを入れようか。長くなる」


 消えた記憶だけでも混乱の元な上に、現実としか思えない謎の夢まで加わっては、亨も事態を整理するのが難しい。彼女が話を聞いてくれるのは、彼にとっても有り難かった。


 インスタントコーヒーに口をつけ、頭を覚醒させた彼は電話に手を伸ばす。自分が経験した一日を語る前に、先に事実を確定したかった。


 最初に二宮の画廊を呼び出し、昨日は訪ねていないことを確かめる。リュミレのフロントも同様の答えで、訪問記録は無く、レストランでトラブルも起きていないと言う。


 はたたるシルバーセンターは、摩衣にもう一度連絡先を調べてもらった。職員との電話では、記憶にある昨日の会話をそっくりになぞる。所長が帰って来るという夕方に来訪を予約して、彼は電話を切った。


 結婚式も葬式も幻だったと分かり、徒労感と同時に安堵も覚える。画廊に出掛けた朝から始まった亨の話は、思い出せる限り細かいディテールまで語られた。葬儀の様子に差し掛かると摩衣から質問が飛び、両親の容貌などが正確なことに驚いたようだ。彼が死因を尋ねた女性は、どうも高校の時の同級生らしい。


 雨の中、帰宅したところまで話し終えたのは、もう正午になろうという頃だった。単なる夢と言うには、登場人物がリアル過ぎて不可解過ぎた。それ以上に自分が死んだ話であったため、摩衣は薄気味悪く感じたそうである。予知夢、そんな言葉を彼女は口にした。


「笑い飛ばすには、事が事だからなあ」

「勘弁してくださいよ。自動車事故か……」


 慎重な運転を心掛けると彼女は宣言するものの、逆に言えばそれくらいしか出来ることがない。車に乗らないと言うのは、いくら不安があっても不便だろう。


「せめて俺と一緒に乗るのは、避けようか」

「矢賀崎さんが関係してそうだから? だけど、それじゃ矢賀崎さんが困るでしょ。車、持ってないのに」

「だからって、危険があるんじゃ乗る気にならないよ」

「夜でしたよね? 事故が起きたのは」

「夜に連絡があった、とは言ってたな」


 それなら、日中は一緒に行動しても大丈夫ではないかと摩衣は主張した。タクシーを使えば間に合うと言っても彼女は意見を変えず、結局押し切られてしまう。そこまで足役にこだわる理由を尋ねると、摩衣の人差し指が彼の鼻先を指した。


「矢賀崎さんを独りしたら、よっぽど危なっかしいです」

「俺はそんなに頼りないか?」


 会った当初から孤独を好み、他人と交わらないベールを感じた。昨日今日はそれが酷くなって、どこかに消えてしまいそうだという印象を与えているらしい。思い当たる節はあっても、そこまで人嫌いじゃないと亨は反論する。


「若い頃はそうだったかもしれないが、君と会う前だ。瀬那のおかげで、俺も変わったよ」

「ガラスの魚、いなくなりましたよね」

「それは……こたえたけど」


 拠り所を失った、そう見えていたのかと、彼も摩衣の心配を理解する。


「魚が無くなったって聞いた時、矢賀崎さんが自分で捨てたのかと思いました」

「捨てるなんてこと、するわけ――」

「しそうな顔をしてたんです。全部割って捨てて、投げ出しそうな、そんな雰囲気でした」


 これこそ亨にも覚えがあり、痛みに耐えるように顔を歪めた。魚を捨てようとしたことは無い。絶対に、そんな真似はしないだろう。しかし前を向くのが辛く、手に持つ全てを放り出しそうだったのは事実だ。現にここのところずっと、絵筆を握ってはいない。


「そうか、酷い顔をしてたか」

「今は!」


 意気込んで言葉を発した彼女だったが、次の台詞に迷う様子を見せた。ほんの少し頬を紅潮させた摩衣は、躊躇いがちに口を開く。


「今は酷くないです。私に……ちゃんと向いてくれてます」


 親身になってくれる彼女を、否定するつもりは毛頭無い。だが、「それはどうかな」と言う亨に、摩衣は明らかに落胆したようだ。

 自分でも冷ややかに聞こえただろうと感じて、訂正したくもなる。どう取り繕おうか考えていると、彼女の方から話を変えてきた。


「これから、どうするんですか?」

「そうだなあ。腹、減ったよな?」

「まあお昼ですし」


 ホテルでランチにしようという提案に、彼女も明るさを取り戻す。リュミレのバイキングと口にした途端、摩衣は亨を急かすように席を立った。高級ホテルのランチは年頃の女性にかなり有名らしく、不穏な夢の気恐ろしさも遠退いたかに見える。


 摩衣には初めての、亨には二日続けてのリュミレを目指し、二人は家を出た。

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