16. 葬儀

 親の葬式で、彼は学生服を着た。大伯母の時は雪だった。ではこの葬式は誰のものか、と考えた彼の頭に瀬那の名が浮かび、即座に打ち消された。瀬那であるなら、夫が後から参列するのはおかしい。


 名前と振り仮名を記入し、葬儀者との関係を選ぶ欄まで進んで亨は周囲を見回した。彼に続いて入ってきた女性が、やはり隣でカードへボールペンを走らせる。見た目は彼よりも若い。


 カウンターの上には筆記用具だけで、カードにも葬儀者の手掛かりは無し。式場に入るまで分からないのかとエレベーターへ視線を向けた時、墨書きの案内が目に入った。


『故 岬摩衣 儀』通夜は十九時から、葬儀式場は三階。

 そんな馬鹿な話があっていいものか。彼女が亡くなる過去など無い。


“その他 知人”の項目を雑に丸で囲んでカードを提出し、エレベーターへ向かう。もう定刻を過ぎていたのだろう、三階の式場の外には既に読経の声が流れていた。粗供養品を渡された亨は、部屋の中へと入り、最後列の椅子に座る。


 仏花に囲まれて真正面に掲げられたカラー写真は、確かに彼の知る摩衣の顔だった。しばらくして焼香が始まり、亨も訳が分からないまま焼香台まで往復する。坊主の説話などが耳を素通りし、喪主の挨拶すら言葉に集中するのが難しい。


「雨の中、娘のためにお集まりいただき――」


 若くして亡くなった摩衣を悼み、会場のあちこちから啜り泣く声が聞こえた。ぼんやり濁った頭でも、死因が説明されなかったことは気づく。参列者が退場する段になり、一人ずつ悔やみを述べて出ていく際に、彼は思い切って喪主へ足を運んだ。

 喪主、つまりは摩衣の父親の腫れぼったい目が、亨を認めて見開かれる。


「あの、摩衣さんは何故亡くなられたのでしょう?」

「あ……アンタが、それを聞くのか?」


 傍らの母親が、固く握られた父の拳を両手で包んだ。


「あなた、矢賀崎さんが悪いわけでは――」

「分かっとる! 分かっとるが、何で娘だけがこんな目に遭うんだ」


 老境を迎えた男の顔に浮かぶのは、理不尽に耐えかねた怒りだ。娘を失った悲しみは憤りに形を変え、前に立つ亨へ向けられた。


「どうして亡くなったのか、アンタが教えてくれ。娘はどうやって死んだんだ? なんでアンタは無傷なんだ?」

「すみません。俺は覚えてなくて……」


 この返しはマズかった。適当にはぐらかそうとしていると見た摩衣の父は、右拳をつかむ手を振りほどいて亨へ詰め寄る。


「答えられないのか? 都合が悪いのかっ!」

「あなた!」


 不穏な空気を察知した式場の職員たちが駆け寄り、二人の間に割って入った。部屋から出るように言われ、亨は喪服のスタッフに挟まれて葬儀場を後にする。「もうそっとしておいて」という母親の言葉が、彼の背に投げ掛けられた。


 摩衣の死に自分が関わっているとでも? まるで亨は死因を知っているべき立場だと言わんばかりだった。

 一階に降りた亨は、玄関で迎えの車を待つ女性へ歩み寄り、申し訳無いがと前置きして話を聞く。女性はカードを記帳した時に隣にいた人物で、摩衣の大学での友人らしかった。


「――私も詳しくは知りませんけど、交通事故だそうです。昨日の夜、いきなり電話があって……」


 ハンカチを握る彼女も、よく見ると鼻が赤い。長話を許してくれそうな相手でもないため、彼は礼を言って先に外へ出た。

 事故と教えられても、そもそも摩衣が死んだことが信じられない。放心したように歩道を進み、混乱した頭で体験した事実を反芻する。


 ここは摩衣が事故で死んだ世界。魚が連れてくる場所は、過去とは限らないということになろう。クジラは何が言いたいのか。

 霧雨が続く街を歩く内に、彼の髪は重く水分を含んでいく。目的地もあやふやなまま、ひたすら足を動かした亨は、四車線の国道へ行き着いた。


 シティホールの周辺のうら寂しさとは打って変わり、国道には車の通行量も多く、品の無い看板も立ち並ぶ。点滅する電飾に照らされつつ国道沿いに歩いていくと、空車の表示を点けたタクシーが通り掛かった。慌てて片手を挙げ、車道に身を乗り出して車を停める。


 乗り込んでから、自分が現金を持っているのか焦って服をまさぐった。幸いにも、上着の内ポケットに馴染んだ革の財布を見つけ、心配顔の運転手へ行き先を告げる。未だ思考が晴れない亨は、痛みに顔を顰めながら後部シートに深く体を預けた。


「痛そうですね」

「ん……ああ」

「急ぎましょうか?」

「いや、大丈夫だと思う」


 トントンと、脈に合わせて頭痛がするだけだ。最近はよくある。魚に連れ回された時は、特に。

 そうだ、アイツはどうなった――と亨は青いクジラを探した。


 サイドウインドウに顔を寄せ、今更ながらに外の風景を注意深く眺める。目を引くものが無いのを確かめて、反対の窓へ。最後はリアウインドウ、そして前方と首を回したものの、クジラは見当たらなかった。


 黄色い魚は、ベラだ――今になって、彼は生ハムサラダから顔を出していた魚の名前を思い出す。ベラの時も、シャチの時も、肉体の疲労は案外に軽かった。街を歩き続けようが、嵐に揉まれようが、だ。ところがクジラに見せられた光景は、目をつむりたくなる疲れを被らせた。


 亨はあんな摩衣を見たくなかった。黒い額縁に収められた摩衣など。

 靴の中で、爪先が痺れを訴えて疼いた。ベッドで休みたいと体の節々が要求し、瞼が重力に引っ張られる。真波駅に到着しても、運転手へ自宅への道順を指示するのに一苦労する。億劫な会話を何とかこなし、家の前で降りた亨は、一目散に勝手口から二階へと上がった。

 寝室の床に上着を脱ぎ捨てただけで、ベルトも緩めずにベッドへ倒れ込む。


“痛そうですね”


 ――ああ、痛いとも。

 瀬那も、摩衣もいなくなった。クジラと一緒に、彼女たちは知らない間に退場してしまったのだ。


「独りにしないでくれ……」


 空虚な問いを繰り返している間に、彼は暗い眠りへと落ちる。この夜は、何の夢を見ることもなかった。

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