13. ホテル・リュミレ

『水景――螺旋』は、レストランの親会社が購入者になっている。

 当時、会社は地域還元と芸術振興を掲げ、地元出身の若手画家の作品を各地で買い上げていた。西区の店に飾ってあったことは二宮も承知で、逆に亨は忘れていたのかと問い返される。


「いや、あそこは潰れたんでしょう? 作品はどうなったのかなって」

「あー、うっかりしてたな。真波にある他の店へ移したんだと思うが……」

「『夕ノ嵐』は個人購入か」


 この発言にも、画商は眉を上げた。『夕の嵐』は、海辺をモチーフに描いて欲しいという依頼で生まれた絵である。地元の食品製造会社の会長が購入し、商工会議所へ寄贈した。その経緯は説明しただろうに、と二宮が訝しがる。


「いや、少し混乱してしまって……今、絵はどこに?」

「大丈夫か? 作品はもう無いよ」

「無い、とは?」

「飾ってあった公会堂に雷が落ちて、作品ごと焼け落ちた」


 二年前、報告を受けた亨は、「また描けばいい」と不運に肩を竦めていたそうだ。彼の体調を慮って、二宮の視線が突き刺さる。あちこちの記憶に穴が空いていることを痛感しつつ、亨は言い訳に四苦八苦した。


 一度、医者にちゃんと診てもらえ。そんな二宮の台詞は、昔の叔母を亨に思い出させた。疲れているだけだからと強引に会話を打ち切り、彼はエレベーターへ歩き出す。


 いつまで一人暮らしを続けるんだ、摩衣の作品もコンクールに出そう、ガラス工芸にもっと力を入れてはどうか。矢継ぎ早に繰り出される詰問調の提案に辟易しながら、二人は逃げるように画廊を後にした。

 あまり二宮と話した機会が無かった摩衣にとって、彼のお節介ぶりは意外に映ったようだ。


「あんな喋る人でしたっけ。顔だけ見てると、落ち着いたビジネスマン風なのに」

「ははっ、昔から小煩かったよ。まあ、心配してくれてるんだろう」

「今のうちに貯えないと将来苦労する、でしたっけ。ギャラリーの売り上げに、私も貢献しないとね」

「ん、ああ……」


 ポジティブなのは何時ものこととは言え、彼女の話しぶりは何だか楽しそうにも聞こえる。

 摩衣がギャラリーに勤め出したら、作品コーナーを常設することに彼も異存は無い。自作品が並ぶのが嬉しいのだろうと、制作プランの相談に乗りつつ、駐車場までの道を歩いた。


 車の中へ収まった二人は、次の目的地を話し合う。

 摩衣にシルバーセンターの電話番号を調べてもらい、職員を呼び出した彼は、まず絵の所在を尋ねた。電話に出た者では、佐路の絵が在るか返答できないと言う。答えられそうな所長と管理部長は外出しており、夕方まで不在だそうだ。


 いたずらに押しかけても絵を探し出せる保証は無く、また連絡すると一旦電話を切る。他の調査を優先することにして、亨は自作の販売リストを眺めた。


『螺旋』以外にも、真波市の客に売った絵がある。駅前から中央通りを山手に向かって進んだ先、二科山にしなやまの中腹に建つホテル・リュミレ。港湾都市、真波の夜景が愉しめると人気の高層ホテルに、『水景――雫』が飾られているらしい。場所も近いため、そちらへ向かうことに決まる。


 そのままホテルでランチにしようという亨の言葉に、摩衣が今日一番の笑顔を作って車を発進させた。市街地の真ん中を貫く中央通りを、車で行くこと十五分、ホテルへの案内標識が現れる。二科山へ右折し、大型バスも通る広い山道を登ると、円筒を縦半分に裁ち切ったようなホテル・リュミレに着いた。


 客室のあるホテル本体の隣には、催事に使われる背の低い三階建てのホールが並ぶ。建物の裏側にある駐車場へ車を入れ、バラの植えられた遊歩道を通って正面玄関へと進んだ。スーツケースを転がす観光客がフロントを占拠しており、スタッフの手が空くのを待たされる。


 正面ロビーの太い柱にも大判の油画が飾ってあるが亨の作品ではなく、シャガールの複製画だ。ロビーのすぐそばにカフェ、その隣にスーベニアショップ。順に見回しても『雫』は見当たらない。キョロキョロ首を振る亨へ、スタッフの声が掛かる。


「お待たせしました。お名前を伺ってもよろしいですか?」

「あっ、宿泊じゃないんだ」


 彼は名刺を差し出し、自作を見たいという用件を伝えた。奥に引っ込んだスタッフがフロントマネージャーに尋ねてくれたものの、彼もホテルの美術内装にまでは詳しくない。施設管理部に問い合わせてくれると言うので、亨たちはまた大人しく返答を待つ。


 ホテルに絵を提供した画家と聞き、スタッフの対応はかなり丁寧だ。ロビーのソファーに座っていれば、分かり次第、伝えると言われた。


 ランチメニューが気になる摩衣は、この間に通路の先にあるレストランへ独り歩いて行く。その後ろ姿を亨が見守っていると、廊下の真ん中で彼女が素っ頓狂な声を上げた。足を撫でられる感覚に、何が起きたか分からない摩衣は、その場をクルクル回る。


 彼女の足元を通り過ぎた群れを、亨だけが眼で捉えていた。ソファーから跳ね起きた彼が摩衣に駆け寄り、レストランへと彼女の手を引く。


「な、なに!?」

「魚だ、サーモンピンクの小魚の群れだよ!」


 目に映らずとも、摩衣の皮膚にも冷ややかな何かが触れていった。ここに至って、彼女も魚の存在を認めて彼の言葉に従うと決める。


「見えませんけど、手伝います。どっち?」

「レストランだ!」


 摩衣が向かっていたフレンチレストランは、バイキング形式のランチタイムが始まったばかりだ。『ここでお待ちください』と告げるサインボードを無視して中に入ると、皿を持って並ぶ客でごった返していた。

 部屋の奥へ飛び込んできた亨たちへ、ウェイターが慌てて歩み寄る。


「ご案内いたします。二人様でしょうか?」

「食事は後だ、すぐ出る」

「お客様!」


 床に這いつくばった彼を見て、店員たちが目を丸くした。

 魚は……テーブルの下! 亨の目が小魚を追う。パスタやフリッターが盛られた長机の下を、ピンクの光が泳いでいた。

 白いテーブルクロスの陰に首を突っ込み、更にはそのまま這って進もうとする亨をウェイターが必死で押し止める。


 さすがの摩衣も一緒にうずくまる気にはなれず、だからと言ってこれでは不審者の連れだ。魚にしか意識が向いていない彼に代わって、彼女が苦しい言い訳を捻り出す。


「コンタクト! コンタクトレンズを落としたんです」

「えっ、机の下にですか? 私たちで探しますから!」


 騒ぎを聞き付けた客は、皿に料理を盛る手を止めて成り行きに注目する。元々、ガヤガヤと騒がしいレストランのこと、迷惑顔は少ない。どちらかと言えば、いい大人が床を這うのを面白がる視線が摩衣の頬を赤くさせた。


「矢賀崎さん、立って! 目立ってるって」


 彼女の言葉は耳に入っているものの、魚の行き先を見逃す訳にはいかない。肩を押さえていたウェイターの手が緩んだ隙に、彼はテーブルの下へ潜り込んだ。

 牡蠣のフライから、ローストビーフへ。駆けずり回る亨が料理の詳細を知る由もないが、人気メニューの下を通って魚を追う。


 そのまま直進するかと思われたピンクの魚群は、彼が追い付くより先に外へと泳ぎ出た。足をかすめる魚に若い夫婦が驚き、持っていた皿を床にぶちまける。

 陶製の白皿が割れる音と女性の悲鳴を契機に、レストランは一気に騒然となった。下から抜け出した亨へ、妻が指を差して非難する。


「痴漢! 触られた!」

「違う、俺じゃない」


 捕まえようとする夫の手を躱した亨は、客のテーブルを縫って駆けた。蛇行する魚は、そのまま部屋の端まで到達する。間仕切りのパネルの奥へ消えたの見て、彼もその後に続いた。


 追加の料理を運ぶウェイトレスを手で押し退け、厨房に進入し、シェフを突き飛ばして更に奥へ。魚が扉を摺り抜けたのを追い、キッチン奥のドアを押し開けた。


 食材が山積みされ、ジャガ芋が床の木箱からはみ出す保管室、そこからは業者が出入りするための引き扉を開けて外へ出られる。閉まった扉を意に介さず、魚たちはまたも溶け込むように抜けて行く。


 亨が重いドアの取っ手を両手でつかみ、日差しの中へ踏み出した時、摩衣が彼の傍らに追いついた。怒るスタッフを宥めていた彼女も、駆け出した彼に合わせて走る。


「すいません、あとで食べに来ますから!」

「何がしたかったんだ、アンタらは!」


 ランチを諦め切れない摩衣も、本当にレストランを再訪するかは微妙なところだ。せっかくの高級ランチがふいになりそうなのを嘆きながら、彼女は本館脇の建物へと向かう。


 魚、そして亨が目指すのは、コンベンション・ホールと呼ばれる二階建てのイベント専用スペースである。間仕切りで広さを変えられる大ホールが各階に一つずつ計三部屋、二つに区切れば六つの結婚披露宴が同時に開催できる。


 この日も二組が挙式中で、扉を開けると案内の女性スタッフが笑顔で近寄って来た。どちらの式への出席者か尋ねる彼女へ、亨は「矢賀崎」とぶっきらぼうに答え、摩衣は後ろから謝罪を繰り返す。


 川上へ登るように、脇にある階段をピンクの魚影が跳ねる。踊り場で折れ曲がった魚は二階に着くと廊下の中央へ泳ぎ出て、ホールの扉の中へ吸い込まれて行った。

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