12. 白楼画廊
痺れた足をデニムに通し、シャツを羽織って階段を降りる。勝手口を開けると、黒いツーピースで身なりを整えた摩衣が待っていた。
寝起きの頭を覚醒させたいため、亨は彼女をダイニングに招き入れて朝食に付き合わせる。奇妙な夢の話もするつもりだった。
手早くインスタントのコーヒーを二人分作り、トースターへ食パンを突っ込む。
「随分、ちゃんとした格好をしてきたんだな」
「一応、お得意さんですから」
「そこまで気を遣わなくていいよ。気楽な人だから」
白楼画廊を経営する二宮誠治は、亨の父の友人だ。亨が子供の頃からの顔見知りで、ギャラリーを再開してからはちょくちょく覗いて彼の世話を焼いている。芸術家の両親から生まれた亨が画家となったのは必然であり、才能は二人よりも優れているというのが、二宮の亨への評価だった。
制作依頼だけでなく、ギャラリーを使用したいという客の斡旋も多い。瀬那のガラス作品も扱いたがっていたが、これは今のところギャラリー展示のみだと亨が断った。
「二宮さんに聞きたいことがあるんだ」
「作品の売り先ですよね?」
「別件が増えた。佐路啓太郎って画家、知ってるか?」
彼はメモ用紙を引き寄せ、フルネームを漢字で書いて見せる。彼女も見覚えが無く、スマホを取り出して検索し始めた。チンと焼き上がったトーストにバターを塗りながら、亨はネットの情報に期待する。
「矢賀崎さんは、バター派なんですね」
「マーガリンにしろってか? 食べ甲斐が無いんだよ、バターじゃないと」
「好みを覚えただけです。私もバターが好きですよ」
「そりゃ気が合うね。そんなことより、何か分かったか?」
摩衣がオーバーに両手を万歳してみせた。図録に記載してあった住所にも行き着かないし、そもそも近年の出品記録すら存在しないと言う。
芳画展に選考された画家のこと、その後、名の通った他の展覧会に出しているだろうと予想したのは早計だったらしい。その芳画展も七年前からの記録しか閲覧できないため、ネットでの情報収集は諦めざるを得なかった。
何故、この画家を調べるのかという問いに、亨は夢の内容を語る。
岬から大洋へ。そして十年前の百貨店へ行き、佐路の絵を見た。途方も無い話にもかかわらず、彼女は興味津々に大きな目をクリクリと輝かせ、手帳へメモまで取って聞く。
「まるでタイムスリップですね」
「どこまで現実に即しているのか分からないけど――」
「ちょっと調べてみましょう」
「ん? 何を?」
再びスマホの画面を指でなぞり始めた摩衣を眺めながら、彼は朝食の残りを片付けた。コーヒーを飲み干した頃合いで、ようやく彼女が顔を上げる。
「エスカレーター事故の記録を集めているサイトに、東王百貨店のものも載っていました。十年前の七月ですね?」
「そうだ。確か死者が出たんだよな。叔母の心配性が、それで加速して困ったよ」
「死者は一人。将棋倒しの引き金になった老人が、狭心症で亡くなったみたいです」
「一人?」
その数が記憶と合致するのか、亨には自信が持てない。負傷者の数を尋ねると、重傷一名、軽傷二十三名と摩衣が返す。足を骨折した一人の他は、打ち身や捻挫程度の怪我だったそうだ。
「もっと酷い被害だった気がするけど……」
思い出そうと努めた途端、こめかみが痛みを訴えた。険しくなった表情を見た彼女は言葉を切って、水を汲んでこようと立ち上がる。亨は片手を挙げ、平気だと摩衣をまた座らせた。
「事故は俺も思い出した。芳画展が開催してたのも、事実で間違いないと思う」
「それに、レストランも」
「レストラン……ブランカ・ロッソのことか?」
「西区にも、九年前まではロッソがあったようです」
「それも昔の話なのか」
閉店して一年後、今のコンビニに建て替わったらしく、それでは辿り着けないのも当たり前だ。閉めた理由を聞いた彼は、また頭の疼きに襲われる。摩衣が見つけたのは、食中毒の発生事案だった。
「死者こそ出てませんが、重症者が八人。チェーン店としては大ダメージですよね」
「原因は?」
「生ハムです。冷蔵室が故障して傷んだハムを、店長が料理に使ったみたい」
将棋倒し事故と合わせて考えれば、何やら符合する想像も広がる。
彼がレストランを訪れたのは、食中毒が起こった日ではなかろうか。偶然にも照明が落下して、生ハムサラダに口をつけなかった。実に運の良い話だ。
この仮定が正しいのなら、魚は彼の幸運を再体験させたということになるのか。いや、本当に過去の再現なのか自信は持てなかった。レストランも百貨店も、行った事実があるのかすら曖昧なのだから。
魚がどうやって過去を見せているのか、なぜそんな力があるのか、疑問ばかりである。だが、瀬那の魚が邪悪な存在のはずがない。魚は彼に大事なことを思い出させようとしている、そんな風に考えるほうがよほど好ましい。
この思いを彼がそのまま口に出すと、摩衣は「うーん」と首を捻る。
「不思議な話ですねえ。でも、今の矢賀崎さんを連れ回る必要は無いんじゃ」
「過去の俺は、魚が見えなかったって説はどうだろう。夢なら見えるから、いたことをアピールしているとか」
「自分たちが助けたんだぞーって? ちょっと恩着せがましいかな」
魚の悪口を言われたようで鼻白みそうになるが、彼女の言うことはもっともだ。
それよりも、と摩衣は別の観点を提示した。自作か他作かの違いはあるが、どの夢のエピソードにも絵画が登場している。
「矢賀崎さんが描いたのは『螺旋』に『夕ノ嵐』、でしたよね。やっぱり他の自作も調べましょうよ」
「そのつもりだよ。だから来てくれたんだろ?」
摩衣がふふんと鼻を鳴らし、力こぶを作る真似をした。運転手は任せろと、彼女は先に車へ戻る。
二宮へ電話した亨は、彼が画廊にいることを確かめ、半刻ほどで会いにいく旨を伝えた。カップと皿をシンクに運び、軽く無精髭を剃ってから紺の軽自動車へと急ぐ。
真波駅へは、線路沿いに車を走らせて十分と少しで着く。駅前の立体パーキングに駐車して、流行りのケーキ屋で手土産を買う。
白髪に眼鏡の画商が待つ“白楼画廊”は、そこから徒歩で五分行った繁華街の中に在った。
◇
白楼の名の通り、白磁にも似た艶のある壁が特徴のビルが二宮の画廊だ。画廊と言っても展覧会を開催するようなスペースは無く、三階建て全てのフロアが即売作品で埋まっている。
観音開きのガラス扉を開けて亨たちが中に入ると、一階で待っていた二宮が愛想良く歓迎した。
「おう、亨くん、君の方から来るのは珍しいな」
「いきなりで、すみません」
亨が渡したケーキを、若い女性スタッフが嬉しそうに奥へ仕舞いにいく。用件が調べ物と聞き、二宮は三階へと二人を案内した。
画廊の事務室は一階だが、三階には彼個人の部屋がある。過去の自作の販売先を知りたいなら、二宮が自分用に打ち込んだデータベースが詳しいと言う。
自分のデスクにあるコンピューターへ向かった彼へ、亨が頼みを追加する。
「もう一つ、佐路啓太郎という画家をご存じですか?」
「佐路……洋画家かね?」
「真波の作家で、第十八回の芳画展に出品しています」
「十八回とはまた古い話だね。この街の画家なら、大抵の名前は知ってるけどなあ」
心当たりは無いものの、芳画展作家ならデータにあるはずらしい。そちらの検索も頼み、亨と摩衣は来客用のソファーに座った。
しばらくカタカタとキーボードを触っていた二宮が、結果をプリントアウトして二人の前のガラステーブルへ置く。対面に腰を下ろし、眼鏡を拭きながら、彼は佐路について語り出した。
「思い出したよ。佐路啓太郎は、四枚しか描いていない寡作家だ。芳画展に出たのはその四枚目、確か――」
「『雨の天女』ですね」
「そう、それだ。連絡を取ろうとしたが、直ぐに電話が通じなくなった。以降、音沙汰無しだ」
画廊で作品を扱わせてもらえるか、一度だけ話したそうだ。佐路の答えはノー、出展が叶えば、もうそれで満足したと告げられた。
「入選できるレベルの絵を描き残したかったんだとさ。画家は廃業したんじゃないかな」
「絵はどうなったんですか?」
「『雨の天女』も買い取るつもりだったんだが、寄贈されてしまった。
三枚プリントした紙の、二枚には亨の絵を売った相手、一枚には佐路の住所と絵の寄贈先が記載されていた。
“はたたるシルバーセンター”と言う施設名は、亨も聞いたことがある。車で四、五十分は掛かる県境近くに建つ、県内最大の介護施設だ。海から離れた秦樽市、人里離れた山奥にひっそりとセンターは在った。立派な設備と充実したスタッフを自慢する広告を看板やチラシで見かけるが、場所は僻地と言っても良いだろう。
佐路啓太郎の自宅住所は、もう別人が住んでいて役に立たないそうだ。引っ越し先までは、二宮も調べていなかった。
「まあ、ちょっと古風な絵だったからなあ。そこまで入れ込む理由は無いよ」
「行方不明か……」
「何だって佐路を調べてるんだい?」
「たまたま絵を見たんです。どんな作家か知りたくて」
まさか「夢で」とは亨も言えず、写真があったと誤魔化す。
佐路が実在したと証明されたのは、収穫に違いない。彼は話を切り替え、自作の販売リストに目を通した。
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