08. 漂流

 亨は海へ叩き込まれ、必死で藻掻いて顔を水面から出す。酸素を求める口へ、容赦無く塩水が侵入した。


 渦巻く波に逆らえるはずもなく、ブクブクと泡を吹きながら流される。波間に浮き沈む隙に息を吸おうとするが、入ってくるのはほとんどが海水だった。抗う力が残っていても、これでは溺れているのと同じこと。引き摺り込まれるように、彼は水中へと沈んで行く。


 どちらを向こうが黒い世界では、上下の感覚も怪しい。縋るよすがを探すため、一旦、水を掻く手足を止めた。

 光が彼へ近付いてくる。急接近した緑の光が、彼の腹を目掛けてぶち当たった。口から水を吐き散らしつつ、亨の身体は水中を脱して空へ舞い上がる。


 二つ折りになった彼は頂点で失速し、再び海面へと落下したものの、硬い何かに激突した。深く沈む前に海の上へと押し上げられて、溺死の心配からは逃れる。


 丸い地面から滑り落ちそうになり、亨は手近なをつかんでバランスを取った。呼吸を整え、多少は落ち着いて両手で握った物に注目すれば、自分が何に助けられたかを理解する。


 つかんだのは、灯台へ行く道で見た背鰭だった。深い緑の体は、彼を乗せて余るくらいに大きく、サイズは巨大化したものの、これはギャラリーから逃げた魚の一匹だ。いや、魚というのは正確ではないか。


 海中にある頭部を確かめようと、彼は首をかしげて下を見た。

 背中は透明感のあるウィンザーグリーン、目の周りと腹は不透明の乳白色のツートンカラー。ギャラリーでも人気の高かった作品を、彼もよく覚えている。生物学上は哺乳類、緑のシャチに亨は乗っていた。


 シャチは背中を外に出したまま、荒れた海をものともせず泳ぎ進む。振り落とされないよう腹ばいに寝た彼は、鰭をつかむ両手に力を入れた。冷たく硬質な体表は、ガラスそのものだ。実際のシャチを触ったことがなくても、全く似ていないことは想像がつく。


 あまりキョロキョロしていると揺れるシャチの背で顎を打つため、横を向いて頬をくっつけた。しばらくはその体勢で、シャチに身を預ける。どこに向かうのか分からない夜の遊泳は、彼が予想したよりもずっと長く、嵐が勢いを失うまで続いた。





 実際に吐くことはなくても、不愉快な嘔吐感に息が荒れる。安酒を掻っ食らって寝た翌朝がこんな感じだろう。人生で一度だけ経験した無茶を、亨はぼんやりと思い返す。


 自分しかいない家で孤独に苛まれたのは、瀬那が消えた直後だったか。不意に眠れなくなった彼は深夜のコンビニに駆け込み、パック売りの日本酒を買って痛飲する。下戸の亨がそんなことをすれば、二日酔いに悩まされるのも当たり前であった。


 彼女が亡くなってすぐは、手続きや後始末に忙殺されて悲しむ暇などなかった。葬儀は叔父夫婦が手配してくれたものの、警察から事情聴取も受けたし、焼けた教科書の再購入の手続きも必要だ。


 一週間は休めと皆に言われたが、四日ほどで登校も再開した。退屈な授業でも、気を紛らわすには――。

 ――違う、これは両親の思い出だ。両親を亡くした火事の記憶。


 一階で寝ていた二人は、煙に巻かれて直ぐに昏睡したらしく、二階にいた亨だけが窓から助けられた。後の調査で、劣化した電気配線の一部から出火したと教えられる。古い木造建築のこと、耐火性は低い。異常な熱で彼が起きた時には、階段は炎と煙が充満しており、下に降りられる状態ではなかった。


 家屋は全焼し、亨も一日入院して精密検査を受ける。両親の遺体は見られた姿ではなく、翌日呼び出された彼は並べられた所持品で身元を確認した。持ち物と言ったところで、結婚指輪と焼け残った寝間着の切れ端だけだったが。


 こんな回想は、瀬那と出会うよりずっと昔の話だ。彼女の遺品も焼けていたから、連想しただけのこと。


 病院で息を引き取ったという瀬那も、焦げた手帳とバッグを残して逝った。バッグにも大した物は入っておらず、唯一なぜか彼女が持ち歩いていた小さなガラスの魚は、今もダイニングテーブルの上にいるはずだ。


 これもおかしい。魚は、彼女のプレゼントだったはず。大体、なぜ焼けて・・・いるのか。


 ガラス細工を始めて悪戦苦闘していた瀬那が、やっと完成させた最初の一匹。それが青い小魚だった。小さいながらも美しい流線型を持って、彼女はキッチンにいた亨へ見せに来る。食事中の彼は、前に置かれた初作品を素直に賞賛した。以後、魚を眺めて食べるのが、彼の習慣となる。


 はにかんだ彼女の顔が浮かび、船酔いの気持ち悪さが少し薄れた。

 亨はちゃんと覚えている。彼女の嬉しそうな様子を。褒められた瀬那が、はにかんで答えた言葉を。

 記憶の中の彼女が、ゆっくりと口を開く。


『やっと出来た。私にも作れるもんだね』


 大切にすると、その時の彼は応じた。確か、そう約束したと思う。


『ごめんなさい』


 瀬那の悲しげな表情が唐突に現れ、亨は酷く混乱した。いくつもの像を重ねたように、記憶が濁っていく。

 これはいつの瀬那だ? 彼女はいつ、謝ったりした?


『本当に、ごめんなさい』


 思い出は、またもや泡となり、弾けて消えた。

 ごめんなさい、という謝罪の言葉だけが、耳に付いて離れない。足や腰の痛みを忘れるくらいに、頭がキリキリと痛む。乾き出していた額に、大量の汗が噴き出した。


 頭を上げる気力を失った亨は、目を閉じてシャチに全てを委ねる。波が穏やかになろうが、ガラスの身体はどこまでも泳ぎ続けた。





 シャチが上下に大きく揺れ、ずり落ちそうになった彼は慌てて背鰭を握り直す。

 どうやら寝ていたらしいと気づき、その珍妙さに皮肉な笑みを浮かべた。夢の中で寝れるとは、自分も器用になったものだと呆れる。


 頭痛は耐えられる程度に軽くなり、もう吐き気も消えていた。時間の感覚は頼りないが、かなり長い間、眠っていたようだ。


 嘘のように晴れた海は、風も弱く、月明かりでグレーに見える。相変わらず自分の周りにあるのは水だけで、三百六十度見回せる水平線は微かに湾曲しており、地球が丸いことを再確認できた。


 雨雲の無い夜空は、こんなにも明るかったのかと、首を真上に曲げて星を眺める。街中では、決して味わえない本物のプラネタリウムだ。銀河は正しく星屑を集めた川であり、流れ星が斜めに横切るのもはっきりと見えた。


 こんな景色を前にして、画家が漫然と構えていてはいけない。それまでの不可解な体験を、亨はひとまず脇へ置く。目に、脳に焼き付けるべく、人への祝福が如き星空を堪能した。


 そのうち無理な姿勢に疲れ、首を休ませるため一度海へ視線を下ろした亨は、またもや息を呑む。暗かった海にも、数多の星が映り込んでいた。


 シャチを囲んで、いくつもの光が輝く。空をコピーしたような星の群れは、だが単なる反射ではなかった。光は海面ではなく、その少し下から発したものだ。

 光は魚。魚たちが、緑のシャチと並んで泳いでいる。小魚は見る間に増え、亨の周囲は輝点で埋め尽くされていった。灰色の海とは、もう言えない。


 シャチはスピードを上げ、光の絨毯もそれに追随する。幻想的な光景に頬を緩めていた亨は、シャチの加速が止まらないことで、次第に表情を強張らせた。


「おい、待てよ! 速過ぎるぞ」


 文句に応えてくれるシャチではなく、風圧が目を開けていられないほどになった瞬間、彼は水中へ引き込まれる。急潜行したシャチは、直ぐさま海面へと上昇に転じた。


 辛うじて背鰭をつかむ亨を乗せたまま、緑のシャチが大きく空中へジャンプする。落下先は、小魚が作る光の円だ。


 着水の衝撃で手を離してしまった彼は、一気に深みへと沈降した。懸命に手で水を掻き、まばゆい上方へ首を曲げる。小魚の光で、海の上は昼間と錯覚するほど明るい。


 いきなり海中に投げ出されたせいで肺の空気は少なく、あっという間に息苦しくなった。海面までの数メートルが長い。

 無闇に手足を動かしたのは、酸素を浪費するだけの愚策だろう。一際大きな泡を吐き出した亨は、大量の海水を飲んでしまう。


 今度こそ、溺れると思った。指先は外気に触れることなく、急速に重くなった体は、遂に沈み始める。光は遠ざかり、黒い海の底が彼を呼んだ。意識を手放した亨は、両手をだらりと広げて重力に従う。


 広大な深淵が彼を飲み込もうとした時、口を開けたシャチが横から突っ込んで来た。ぐったりとした亨をくわえて、シャチは真上へと尾を振る。


 二度目となる急浮上、そして大ジャンプ。光が彼を迎え入れた。

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