07. 灯台

 亨がいるのは灯台に通じる一本道の上で、左右にガードレールが立ち並び、その外側は波が寄せる岩礁である。本来の役目を終えて展望台となった灯台に、彼は過去に訪れた覚えがあった。押しては引く波音に誘われて、亨は岬の道を歩き出す。


 真波市から車で一時間と少し、大平洋を臨む旧灯台は景勝地として隠れた名所になっていた。電車とバスを乗り継いで来たはずだと、五年前の記憶を探る。


 観光目的ではなく、制作のための取材として夕暮れの海を見にきた場所だった。灯台を上り、大洋を眺めて構想を練る。その結果出来たのが『夕ノ嵐』だ。


 ふと、目の端に影が動いた。かつての行動をなぞって道を行く亨の横を、地面から突き出た背鰭せびれが追い越して行く。


「あっ、待て!」


 魚の出現に足を早めた亨だったが、途中で速度を落とした。走らずとも、彼の勘が魚の目的地を告げている。


「あのヒレは……」


 岬の先までは意外に遠い道のりであり、十分以上は優に歩かされた。背鰭は彼を待たずに、先へ泳ぎ去ってしまったようだ。

 魚が先導したのは旧灯台。開け放たれた灯台の入り口に辿り着いた時には、もう太陽の下端が海に溶けようとする時刻だった。


 頂上に到達するには、長い螺旋階段を上らなくてはいけない。所々ペンキが取れて錆びた鉄が剥き出しになった手摺りをつかみ、一段ずつ上を目指す。

 中窓を通過する度に外を一瞥しつつ、陽が完全に没するまでに上り切ろうと足に力を込めた。電器照明は無く、西から差す夕陽だけが円筒の内部を満たす。


 昔は投光設備のあった展望場所に着いた亨は、満足げに太陽の方へ顔を向けた。下からここまで、二分も掛かっていない。水平線に沈む光を背にして、暗いシルエットが登頂を果たした彼を出迎える。


「……瀬那!」


 手を伸ばせばつかめそうな位置にいるのに、逆光が邪魔をして彼女の顔が見えない。見えなくとも、瀬那であると彼は疑わなかった。近づこうと踏み出した途端、影法師の彼女は滑るように後退する。


「行かないでくれ!」


 黒い影はバルコニー状の外縁に漂い出て、そのまま落下防止のフェンスをすり抜けた。亨は柵に取り付き、薄れていく影へ手を差し出す。


 彼の声にも、手にも、彼女の影は反応もせず遠ざかった。瀬那の体はもう透明に近く、今まさに沈もうとする太陽と水平線が重なって見える。

 最後の光の筋が消えるのと同時に、彼女は闇に溶け込んだ。


「なんで何も言ってくれないんだ……」


 鉄柵を握り締め、亨は虚空を見つめる。

『夕ノ嵐』はここまで。燃え混ざる赤い夕陽と水面の共演は、これで幕を下ろしたのだった。


 黒く移り行く空に、三日月が主役を交代して遠慮がちに浮かぶ。光と一緒に熱まで去ったようで、頬を撫でる海風に身震いした。


 繰り返される喪失感が冷やされていくにつれ、疑問が湧いてくる。五年前、海をモチーフにしようと決めた亨は独り・・で各地の海岸を回った。灯台は何箇所もあった取材場所の一つに過ぎない。確かにかつて見た景色ではあるが、瀬那と結び付かない。


 なぜ彼女は灯台にいたのか。それとも、魚は何を自分に見せたかったと問うべきなのか。

 冷えた風が吹き付け、その勢いに目を細めた。手を翳して空を見遣った亨は、四方から雲が張り出して来たことに気づく。見下ろせば、暗い海も高く波が立ち始めたようだ。

 彼にはもう行く当てがなく、目の覚める気配も感じない。


「夢だよな?」


 どこまでもリアルな五感は、荒れ出した展望場所から下りることを彼に勧めた。

 螺旋階段を駆け降りて灯台の入り口へ。来た道を帰ろうと、外に踏み出した時だった。ストロボを思わせる閃光が瞬き、次いで大太鼓を力一杯殴り叩いたような音が轟く。

 思わず肩を竦め、海へ振り返った亨は何本もの稲妻を見た。


「本物の嵐じゃないか……」


 ポツリポツリと、頭に冷たい滴が落ちる。

 数歩も進まないうちに降り出した雨は豪雨と化し、全てを水浸しにした。平地のはずの道路にくるぶし近くまで水が溜まっていき、叩き付けられる雨音が雷鳴すら霞ませる。


 バシャバシャと雨中を駆け出した亨は、猛烈な横風に薙ぎ払われて足を滑らせた。打った肘の痛みに呻きながら、岬の根元、テトラポッドが並ぶ海岸へ目を向ける。戻るには遠過ぎた。灯台へと逆戻りすることに決め、彼は身を翻す。


 灯台の中でやり過ごそうという考えを、嵐が嘲笑う。風に押されて左右に蛇行し、瞼も僅かにしか開けていられない。

 それでも苦行を堪え、あと少しで屋根のある灯台だと思ったのに。地面の高さに届いた波が、亨の足元をさらう。入り口を前にして横薙ぎに流された彼は、指をアスファルトに立てて抵抗した。


 灯台を囲う防護柵が、彼を転落から救う。柵を頼りにして立ち上がり、再び入り口に向くものの、頼りない右足の感覚にまたこけそうになった。


 波に持って行かれたのだろう、ウォーキングシューズは片方だけしか履けていない。実はこれが夢だとしても、舌打ちくらいはする。

 亨は苛立ち任せに水面を踏み付けつつ、やっと灯台の中へと入った。螺旋階段を少し上り、段に腰掛けて無事な方の靴も脱ぎ捨てる。


「夢じゃないとか、あとで言うなよ。気に入って履いてたのに」


 肘に加えて、最後に打ち付けた腰も現実そっくりに鈍痛を訴えた。

 夢で痛みを感じないっていうのは嘘だ。少なくとも、今の亨は身体の節々が痛い。

 痛覚があるなら温度だって感じてもおかしくないし、空腹や尿意も体調次第でありそうだ。そんな夢分析を続けながら、彼はもう少し階段を上ることにする。


 冷静に夢を夢と認識するものなのか。起きれば忘れてしまうのか。他にすることも無い中での自問自答は、答えを欲していない暇潰しだ。一段、また一段とゆっくり足を運んでいた亨の耳に、ボリュームを上げた水音が届いた。


 下を覗いた彼は、慌てて足のスピードを上げる。あろうことか、灯台の中を満たす勢いで水面が競り上がろうとしていた。

 いくら嵐が激しかろうが、灯台が水没するなど馬鹿らしい。しかし、見下ろさずとも大きくなる音を聞けば、水が上がり続けているのは明らかだ。


 展望場所まで一気に上り詰めた亨の目に、ただ荒れ立つ波濤が映る。岬は消え、灯台の半ばまで海面が上昇していた。


「おいおい……」


 世界は海となる。なるほど夢ならではのスケールだろう。

 さて、どうする? ――どうもしようがない。


 傍観すれば、やがて彼の場所まで海面は到達する。壁に手を付いて支えにし、渦まで巻く黒い海を眺めた。喩え夢でも、あそこに飲み込まれるのはぞっとしない。


 泳ぎが不得意な亨は、何か浮きの代わりになるものはないかと見回した。壁に沿って一周しても、そんな都合の良い物は無い。


 さあ覚悟を決めろ――そう言わんばかりに波の壁が立ち上がる。

 灯台を超える高さの波は、一瞬にして彼を呑み込んだ。

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