06. 海

 ギャラリーを出た直後はまだ明るかった空も、西区に入る頃には星が光り始める。暗くなれば夜の彷徨で見た街並みを思い出すかもと考え、亨は助手席から道路脇の建物をじろじろ睨め回した。サイドウインドウに齧りつく彼を気にしながらも、摩衣は何も言わず運転を続ける。


 いくつかのビルや看板には見覚えがある――ように思う。とは言え、記憶にない光景も多い。あんなに派手な電飾の看板はあっただろうか。パッションピンクのビルなど初見では。全てが夢の出来事だったようで、亨にも拠り所の無い不安が募った。

 険しい顔を崩さない彼へ、摩衣は目的地が近いことを告げる。


「そろそろ金券にあった住所だと――」

「靴屋だ! あの赤いロゴマークを見た」


 郊外型の大型靴店は、レストランとは通りを挟んだ反対側に在った。歩道にいくつも立っていたノボリは消えていたものの、昨夜も見た店に違いない。そう確信した彼の宣言を受けて、車は靴屋の横の広い駐車場へと進入した。


 車を降りると靴屋には当然入らずに、少し先にある信号へと向かう。道路標識や周辺のビルもキョロキョロと眺めながら、彼は本命のレストランを探した。歩行者用の信号が青に変わったのを見て道路を横断し、歩道を東へ戻って行く。


 靴屋はともかく他の建物には違和感が強く、肝心のレストランが見つからない。最も齟齬を感じたのは、車道との区切りに立つガードレールである。レストランの前には、チェーンのついたポールが並んでいたはずだった。


「こんなガードレールは無かった。場所を間違えたみたいだ」

「いえ、ここで合ってます。金券を貸してください」


 彼女は渡された金券裏の記載と、建物の壁に嵌め込まれた住所表示板とを見比べる。十九、十八と数字を呟きながら、摩衣はコンビニの前まで彼を引っ張って行った。


「三十二の十六、このコンビニの住所ですね」

「……どうなってる?」


 亨も自分で確かめるべく、コンビニの正面隅にある表示板と金券へ向けて首を上下に動かす。何回見直そうが、彼女の言葉が正しかった。


「ルッソはパンケーキが人気で、どこにあるかは友だちともよく喋ってたんです。この辺りには無いと思いますよ」

「いや、あったんだ! 昨日……今日か、俺は店に入ったんだよ」

「ですけど――」

「嘘じゃない。寝ぼけてたんでもない! あんなリアルな夢があってたまるか」


 金券を握り潰し、彼はコンビニを睨む。その手が緩むまで、摩衣は我慢強く黙って待った。やがて項垂うなだれた亨へ、彼女が努めて軽く声を掛ける。


「他の店に行きましょ。地中海風のカッコいいレストランが、近くにあったはずです」

「しかし……」

「今夜は私の奢りです。次に倍にして返してくださいね」


 悪戯っ子のように目をくりくりさせる摩衣へ、彼も力無く微笑み返した。これが昔話なら、狐狸につままれたと諦めるところだろう。それで済まないのが現代人であり、まだ自分の精神状態を疑う方が得心もいく。


「なあ、やっぱり俺がおかしいと思うか?」

「まさか。矢賀崎さんの話を、信じる気になりましたよ」

「ええっ? レストランなんて無かったのに?」

「でも、金券はあるじゃないですか」


 手の内に在るがさついた感触が、彼女の意見を裏付ける。そう、この紙切れは幻ではない。レストランに行ったのも、ライトが落ちたのも、亨には実際に体験したことだ。

 落ち着いて考え直した彼は、自然と摩衣に頭を下げていた。


「ありがとう」

「ちょっと! やめてくださいよ。大袈裟な」

「独りで行動していたら、それこそ妄想だったと自分を疑ってた」

「妙なとこで真面目すぎるんだから。ほら、力抜いて。ゴハン、ゴハン!」


 食べたいメニューを語る彼女と並んで歩き、彼は車へ戻る。ムール貝だ、ガーリックトーストだと候補を挙げ合いつつ、気を取り直して料理を提供してくれる場所へと向かった。


 車中、そして夕食の間、屈託の無い彼女につられ、亨も笑顔で喋り続ける。食事を美味いと感じたのは久々の経験だった。

 ジェラートの添えられたタルトを食べ終わり、二人は午後八時過ぎにレストランを出る。あまり深刻に考え過ぎないようにと、摩衣は何度も亨に念を押した。


 西区の外れにある店から彼女の車で送ってもらい、照明の点きっぱなしだった自宅へ。不思議な出来事に振り回されたとは言え、実質的な被害はガラスの魚が消えただけとも考えられる。焦らずとも記憶はそのうち復活すると自分に言い聞かせ、軽くシャワーを浴びた。


 下着のままベッドに潜り込むべく寝室に入ったところで、サイドテーブルにある電気スタンドのスイッチを入れる。明日も摩衣が車を出してくれるなら所用を済ませたい――亨はボールペンを取って、メモ帳に必要な物を書き殴る。


 家の外灯は、遂に点滅もしなくなっていた。この替えを二宮の画廊近くにある電器店で買う。画廊は真波市の中心地、JR真波駅から伸びる大通りに在り、駅の隣には百貨店もあった。百貨店の一階には、鍵が複製できる店が入っていたはずだ。そこにも寄り、摩衣が使う鍵を作る。


 彼女にはギャラリー玄関と、シャッター用の二つの合い鍵しか渡していなかった。事務室の扉に、印鑑や登記書類の収められた金庫、これらの鍵も来年からは彼女に渡そうと決める。自宅のアトリエ、これは一度メモに書いて、二重線で消した。


 スタンドを消し、部屋の照明も常夜灯だけにしてベッドの上へ身を投げ出す。天井に残る小さなオレンジの光点も、徐々に眩しく感じるくらいに瞼が重くなっていった。


 閉じた目の裏に、やや緑がかった闇が広がる。布団を掛けるのも忘れたまま、独り身には大き過ぎる寝床で、彼は眠りに落ちた。





 一度は消えた蝋燭のような光が、暗闇にシミとなって再び大きく成長した。

 オレンジジュースを床にぶち撒けたら、こんな風に染め上がる。辺り一面を包む暖色の中に、亨の意識は漂っていた。


 ライトを消し忘れた? ――否。

 もう朝なのか? ――否。

 自分は起きている? ――分からない。


 頭がフワリと持ち上がったかと思うと、次は肩に荷を乗せられ、最後は足を下に引っ張られる。これが俗に言う金縛りかという彼のぼんやりとした感想は、見当違いも甚だしかった。バランスを崩しそうになり、片足を踏み出した瞬間、亨は自分が立っていることを知る。


 静かに見開いた目へ、温い光線が射す。赤い太陽と、その光を乱反射する細かな煌めき。

 海だった。


 水平線が、視界の幅一杯に伸びる。高さのある物と言えば右奥に続く細い岬、そして突端に建つ灯台くらいだ。

 懐かしい、とも感じた。おそらく日没の半時間ほど前だろう。白いはずの灯台も、夕陽を浴びて橙色に燃えていた。

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