05. 螺旋

 澱みを吐き出す水の渦。それまでの鬱積を晴らすかの如き力強さは、ギャラリーを始めた頃によく描いたモチーフだ。


「レストランには『螺旋』が飾ってあった。販売履歴を調べれば、何か分かるかもしれない」

「台帳と、コンピュータのデータですね」


 カップを片手に立ち上がり、事務室へ向かう彼女を、亨は不思議そうな目で追った。


「手伝ってくれるのか?」

「当たり前です」

「さっきは信じてないって……」

「だから? 矢賀崎さんは、食べてから来てください」


 話の信憑性がどうあれ、手伝うのに関係があるのか。そう返されては、彼も二の句が継げなかった。

 閉まる事務室の扉を見ながら、食事とコーヒーを片付けることに集中する。亨がしっかり彼女と向き合って話したのは久しぶりだった。


 自分がされたほどに、摩衣の人柄を評せる自信は無い。これは記憶が抜け落ちたせいではなかろう。他人を見ているようで、何も見ていない。これだから夢想家だなんて言われるんだと、亨は苦く笑う。


 食べ終わった彼は机を畳んで脇に避け、台帳を繰る摩衣の元へと事務室に入った。帳簿類を広げる摩衣の横を通って、亨は管理用のコンピュータの前へ座る。


 PCのパスワードを知らない彼女は、まず帳簿から販売履歴を調べていた。これまでに売った絵の数は、百を少し超えるくらいであり、伝票を漁っても高が知れている。


 OSの起動画面が終了する頃には、見つけた納品書の写しを彼女が見せにきた。帳簿にも該当する日に同額の売り上げ記述がある。


「F6『水景――螺旋』、六年前の三月、ギャラリーの店売りですね」

「作品番号は?」

「068です」


 描いた絵には通し番号が振られており、画像データも残っている。

 印刷に耐える高解像度のデータは自宅にしか保存していないが、モニターで確認するくらいならギャラリーでも可能だ。


 六十八番の画像を開くと、画面一杯に渦が表示された。渋い緑を基調にした幾重もの螺旋――レストランで見た絵と同じである。摩衣には初見であるらしく、納得するまで熱心に画像へ見入った。待ち切れなくなった亨に促されて、ようやく彼女が伝票の詳細を読み上げる。


「購入者は二宮にのみやさん。画廊宛てになってます」


 二宮にのみや誠治せいじ、二ヶ月に一度くらい顔を出す馴染みの画商だ。もっぱら大口の客を紹介してくれる人物で、収入の助けになっていた。彼の注文は顧客の依頼を受けてから制作するものが多く、『螺旋』もその口だと思われる。明確に覚えていないのがもどかしいものの、大判の絵は大凡おおよそが引き取り手が決まって描く作品だった。


「今日は何曜日だった?」

「木曜です。それも忘れたんですか?」


 忘れたと言うより、日にちの感覚を狂わされた、が正しい。黄色い魚と対面したのは数時間前のようでもあり、彼には丸一日前にも感じられた。ともあれ木曜は画廊の定休日で、電話をしても無駄だろう。


「明日、直接出向くか。ついでに、他の作品の販売先も聞いてみよう」

「書き写すんですね?」

「すまない、頼む。リストを読み上げるよ」


 小サイズの額は省き、二宮が扱った大型作品だけを抜き書きしていく。基本的に、絵の価格は号数で決まるため、『螺旋』クラスの作品を判別するのは簡単だった。販売データを顧客で並べ替え、二宮に売った物を調べる。


『水景』シリーズは『螺旋』、『雫』、『雨音』の三つ。他に『朝ノもや』、『夕ノ嵐』の連作が、過去、画廊へ売られた中では価格が高い。この五つのタイトルと番号、販売日をメモしてもらい、彼はコンピューターをシャットダウンしようとした。


 右上隅の×印にカーソルを移動させた時、摩衣が操作を代わってくれと言う。リストを上にスクロールして古い作品タイトルを眺める彼女へ、亨は訝しく意図を尋ねた。


「気になることでも?」

「うーん……知らない作品があるなあって」

「そりゃそうだろ。またパスワードと操作方法を教えるよ」

「ガラス作品も、リスト化してあるんですよね」

「瀬那のは別ファイルだ。一見の個人客に売った物ばかりだから、行き先を調べるのは難しいか」


 何れ摩衣が本格的に勤めだしたら、いくらでも過去作を見る機会はある。質問をしかけた彼女も途中で口をつぐみ、終了作業を亨に任せた。


 来週の半ばくらいまで摩衣の予定は空いており、明日以降も調査に協力すると彼に約束する。二人で取り組むほど、はっきりとした目的や行動指針は持ち合わせていないため、亨は最初その申し出を断った。


 しかし、独りで放っておくのは心配だと言う摩衣に結局は押し切られてしまう。そんなに憔悴して見えるのかと、彼も譲歩するしかなかった。


「今からどうするんですか?」

「家に帰って休むよ。風呂で頭をスッキリさせたい」

「晩御飯は?」

「冷蔵庫の掃除だな」


 どうせだし外食しましょうと提案する彼女へ、亨は手を横に振る。財布を持たずに出たのでこのままでは食べに行けないと説明し、一応はチノパンのポケットを探った。

 ポケットからは鍵と一緒に皺くちゃの金券も飛び出し、摩衣が目敏く指摘する。


「レストランって、ブランコ・ルッソだったんだ。五千円分もある!」

「よくよく考えれば、金券で済む話じゃないけどね」


 一枚を抜き取った彼女が、裏面に押された店舗印を確かめた。西区の国道沿いと知った途端、やや困惑した声色で疑問を口にする。


「あんな所に、ルッソなんてあったかなあ」

「チェーン店なんだし、どこにでもありそうなもんだけど」

「うーん。まあ、行ってみましょうよ。絵も見たいです」


 これが金券目当てなら、昼に続いて再訪するのを嫌がっただろう。だが『螺旋』が見たいと言われると、彼も弱い。彼の作品を気に入って、摩衣がここに勤めてくれたのは亨も知っている。ファンの要望なら応えたいところだし、悪い気もしなかった。


 二人でギャラリーを出て、通りを少し行った先の駐車場へと歩く。摩衣が徒歩で通り掛かったのだと思っていたのは、彼の勘違いだった。

 電車通学で下宿も近所な彼女ではあったが、今日は自動車で大学に制作用の荷物を運んだそうだ。つまり、わざわざ車からギャラリーの様子を窺ったということ。照明の点いたギャラリーを不審に思った彼女は、車を亨が契約している専用駐車場に停めて見に戻って来たわけだ。


 紺色の丸っこいフォルムの軽自動車へ、二人は順に乗り込む。免許を取って二年目の新米ドライバーとは言え、摩衣の運転はそつが無く、するりと車道に出て西へ走り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る