04. クロームイエロー

 このレストランは塗り潰されたページの一枚、過去の黒い記憶。

 フォークを置き、両手で口を覆う。


 ――痛むんじゃ。


 グラスの水を飲み干し、椅子の背もたれに身体を預けた。幼女はもう前を向き、母親にピザのお代わり切って寄越すようにせがむ。


 ――痛そうですね。消えろ。


 彼のテーブルに乗るのは、湯気の失せたパスタと、手付かずのサラダ。サラダには生ハムとレタス、赤いパプリカと黄色い――魚。


 ガラスの魚が、彼の顔を見て首を傾げた。レタスの上で寝そべる魚と、暫し無言で視線を交わす。痺れを切らした亨は、自分からガラスの生き物へ問い掛けた。


「……教えてくれ。何を思い出せばいいんだ?」


 答えが得られるはずもなく、魚は口をパクパク開閉するだけだ。

 空になったグラスへ、ウェイトレスが水を注ぎに横へ立った。半袖の制服には腕を隠すものが無い。ピッチャーを持つ左手に、火傷の痕がくっきりと残っていた。

 彼はバッと顔を上げ、黒髪の彼女へ叫ぶ。


「瀬那!」


 呼び掛けに振り向くことなく、ウェイトレスは家族連れのテーブルへと移動する。椅子を蹴って立ち上がった亨が、彼女の肘をつかんだ。


「何でしょう……?」


 怯えた目が彼を見返す。太い眉をひそめたウェイトレスの髪は、明るい茶色に変わっていた。


「あ、いや……瀬那を知らないか? 矢賀崎瀬那だ」


 我ながら馬鹿な質問だと亨は思う。取り繕うために出たその場凌ぎの言葉に、彼女は首を横に振った。

 直後、衝撃が店内を切り裂く。けたたましい音が彼の背後で打ち鳴らされ、客やウェイトレスが息を呑んだ。


 客用の各テーブルの真上には、三灯式の照明が設置されている。大きな円錐形のカバーが付いた、モダンな業務用のシーリングライトだ。彼のいたテーブルへそのライトが落下して、乳白色のカバーが料理を完全に覆い隠していた。ライトは照明用のソケットと二本のチェーンで天井から吊してあったのだが、そのどれもが外れてしまったようである。


 席についたままなら、彼も頭に直撃を受けて唯では済まなかっただろう。奥にいたフロア主任らしき男性が、テーブルに近寄る亨へ注意を促す。


「お客さま、危ないので触らないでください! すぐにスタッフが片付けます」


 彼に指示されて、他のスタッフが掃除用具を取りに走った。

 店員の喧騒も、何事かという客たちの話し声も気にせず、亨は照明カバーを持ち上げて床に放り出す。ボール型の蛍光灯も、白い料理皿も見事に粉々だ。


 ゴミとなったサラダの上に散る黄色いガラス。魚は原形を留めないほどに、細かく砕けていた。


「指を切りますから! 離れて!」


 大失態な上に怪我までされては堪らないと、飛んできた主任が亨をテーブルから引き剥がす。謝罪を繰り返した男は、詫びの金券を用意するからと彼を一旦レジまで連れて行った。


 料理を作り直すと言う申し出を亨は手を振って辞退し、何度でも頭を下げるスタッフらから逃げるように店の外へ出た。足をぶつけた自転車の前まで戻り、今一度レストランへ顔を向ける。


 魚は瀬那の分身だと思った。捕まえれば、彼女に会えるような気すらしたのだが。


「だけど、ここは……」


 クロームイエローは、パプリカの色。だから何だというのか。

 道路標識には、真波駅への矢印も表記されている。魚が砕けたならここに拘泥する理由も無く、彼は悄然として国道を歩き始めた。





 結局、一時間以上も掛けてギャラリーに戻った亨は、空の棚の前に丸椅子を置き、そこへ力無くへたり込んだ。ほんの少し魚たちが帰っていることを期待したものの、展示スペースは虚ろなままである。


 事務室に通じる扉の上に、文字盤の無いアナログ時計が掛けられており、針は午後三時半を指していた。


 次の行動を決めかねて、亨は椅子に根を下ろす。どれくらい同じ姿勢でいただろうか。コツコツとウインドウを叩く音を聞いた彼は、そこでやっと視線を上げた。


 見知ったミドルヘアが、外から亨の様子を窺う。背後を指し、裏口が空いていることをジェスチャーで伝えると、彼女は一旦視界から消えた。


 程なくしてギャラリーへのドアが開き、ジーンズ姿の大学院生が登場する。みさき摩衣まい、週三日、ギャラリー番を任せているバイトで、雇って四年目のベテランだ。卒業後も作家活動を続ける予定らしく、正式な社員として働くのを希望している。


 制作する場所が大学以外に見つからなかった彼女は、亨の自宅アトリエが借りられないかと相談した。彼はこの申し出に対し、はっきりと返事をしていない。彼女の専門もガラス工芸であり、瀬那が使った場所へ他人を入れるのには抵抗を感じた。


 それでも亨にとって有り難い人材なのは間違いなく、明るく人懐っこい摩衣はギャラリーの客にもウケが良い。瀬那に似て事あるごとに彼の不摂生を諌める癖があり、案の定、くたびれた顔をする彼へ小言が飛んだ。


「寝不足に加えて、ちゃんと食べてもいないでしょ。サンドイッチを買って来ました」

「ここにいるのが、よく分かったな」

「大学の帰り道です。下宿が近くなのは、知ってますよね」


 それにしても軽食まで携えて来るのは出来過ぎだろうと反論すると、彼女はわざとらしく溜め息をつく。先程はウインドウを三度も小突いたらしい。一回目に反応しない亨を見てまた《・・》どこかへトリップしているのかと思い、食べ物を買いに走ったそうだ。


 摩衣は折り畳み式の小さなテーブルを彼の横に運び、その上に紙袋を乗せた。普段はフライヤーや芳名帳を置かれるこの机が、簡易の食卓代わりである。飲み物も要るだろうと、彼女は事務室の奥にある給湯室へ向かう。


 五分少々経った頃、電気ポットの湯気を吹き出す音がした。インスタントのコーヒーを持って戻ってきた摩衣が、二人分のマグカップを机に置く。自分も丸椅子を出して座り、改めて消沈した彼の顔を覗き込んだ。


「どうしたんですか?」

「大したことじゃない」

「何かあったんですよね?」

「……魚がいなくなったんだ」

「魚って、ガラスの? まさか盗まれた!?」

「違う、そうじゃない」


 余りに荒唐無稽な出来事は、正直に話すのを躊躇われた。だが、摩衣が親身に案じてくれているのは、真剣な眼差しを見れば亨にも分かる。彼女は他人を嘲笑するような人間ではないし、嘘で誤魔化すのも不誠実に思えた。


 クジラが動き出したところから話を始め、黄魚を追って街を彷徨さまよい、最後はレストランでライトが落下して魚が砕けたと経験したままを語る。コーヒーを啜りつつ黙って耳を傾けていた彼女は、何とも難しい顔で亨を見つめた。


「突拍子も無い話だと思うだろうけど――」

「怪我は?」

「え?」

「どこも怪我は無いんですか?」


 ライトはかすってもいないし、長時間歩いて足が疲れた程度、理不尽な体験をして気が滅入っているだけだとの答えに摩衣はウンウンと頷いた。


「なら、いいです。さあ、サンドイッチも食べて。パスタは食べ損ねたんでしょ?」

「ああ……信じたのかい?」

「いいえ」


 きっぱりとした否定に、彼はたじろぐ。ゴソゴソ紙袋に手を突っ込みつつも、自分を正面から見つめる彼女へ、話の感想を尋ねた。


「嘘だと思った? それとも気が触れたとか」

「嘘には聞こえませんし、今は……正気に見えます」

「でも、信じてはいない」

「矢賀崎さんですからねえ。こういうこともあるかと」

「なんだよ、そりゃ」


 摩衣はからかうように笑ったあと、また真剣な面持ちに戻る。

 矢賀崎亨は矛盾の塊だと言う。リアリストを気取っていても、その実は夢想家。自立した大人に見えて、拠り所を欲しがる。心のどこかを別の世界に置き忘れて来たような人。初めて聞く彼女からの人物評に、口に入れかけたサンドイッチが宙で止まる。


「そんな風に見てたのか。四年も観察した結果が、夢想家?」

「四年も見て来たからです。たまに私がいても、どこかへ飛んで行くでしょ。ロマンチストなんですよ」


 暗く、内省的だと言われることには慣れていた。人付き合いが悪かった頃を知る人間からは、他人を信用しない冷淡さを指摘されもする。しかし、ロマンチストという多分に甘い判定は、彼が初めて受けるものだった。


「……自分では、分からないな。しかし、ずいぶん細かく分析するなあ」


 彼女は壁を見遣って、種明かしをした。


「作品ですよ。制作した物を見れば、作者の人となりも推測できます」

「ああ、なるほど」


 作品と作者は別。そうは言えど、やはり絵には書いた人間が投影されている。摩衣による亨の分析は、そのまま彼の作品評に他ならなかった。


「あれなんか、すごく矢賀崎さんらしい。もっと大きな作品は描かないんですか?」


 彼女が眺めるのは、ギャラリーにある彼の作品では最も大きな『凪』だ。細やかな波紋を描いたようでもあり、水面の具象画と思う客もいた。F6号、幅七十センチほどのサイズは、大作と呼ぶには小さい。だが、小品の多い水彩画家にしては充分な力作で、これ以上の大きさの作品となると――。


「『螺旋』だ。あれは大きかった」

「知らないタイトルですね。私が来る前の作品かな」


 ハムサンドを頬張りながら、彼は自らの作歴を頭の中で辿る。描いた記憶が失われ、売った相手も忘れていようが、自分の画業であれば制作時期くらい推して知れた。

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