03. 魚の群れ

 彼は瀬那の作品を見たかった。魚たちに触れれば、もやが晴れる気がしたから。

 記憶以前に、存在したことすら消えそうな不安が彼を包む。画像を消したのは自分なのでは、とも考えた。


 服も靴も、彼女が好きだった飴色の大皿も、いつの間にか自宅からは消えている。思い出を目の前から無くせば忘れられる――その一見もっともな理由も、捨てたことを覚えていないなら虚しさが先立つ。


 なぜ捨てようなどと思ったのか。どうしてそのことを、彼は覚えていないのか。後付けで考察したところで、納得はできそうもない。


 通りに人は少なく、帰宅を急ぐサラリーマンと数人もすれ違えば、もうギャラリーに着いた。

 裏口から入り、壁面を照らすライトのスイッチを、全部パチンと撥ね上げる。やや暖色の明かりがガラス細工を美しく輝かせ、魚たちの身体を透けた光が、壁に極彩色の影を落とした。


 せめてこの作品たちは、一匹たりとも売らずにおこうと心に誓う。全てが瀬那の欠片かけらだ。

 中央の棚に鎮座する置物、一番大きなその濃紺のクジラへ、彼は慎重に両手を伸ばす。クジラ、或いはマッコウという名は亨が心の中で呼ぶ通称であり、本当の作品名は――。


 赤子ほどもある作品を台座から持ち上げようとした瞬間、クジラは勢いよく宙へ跳ねた。

 受け止めようと差し出された彼の両の掌に、そのクジラが落ちてくることはなかった。ヘリウムを入れた風船の如く、重力など気にもせずに、ガラスの体は顔の真ん前を漂う。


 茫然と見つめる彼の鼻先で、ブルンと尻尾を振ると、クジラは壁の中へと減り込んでいった。頭が消え、尾まで見えなくなるのは、あっという間のことだ。クジラが入っていった先は、いつもと同じクリーム色の壁紙であり、傷も無ければ穴も空いていない。


 作品のタイトルは何だったろう――ついさっき頭に浮かびかけた名が、今は全く形を失ったことに気づく。記憶を探ろうにも、もう平滑なガラス板に爪を立てるようなもので、つかむ引っ掛かりは無くなってしまった。


 目の端で、キラキラと光が瞬く。棚の右に顔を向けた亨は、小魚の群れが、やはり壁の向こうへ去って行くのを見た。


「待ってくれ」


 群れを追って右壁へ近寄ろうとすると、今度はクジラの傍らにいた山吹色の一匹が、スルリとギャラリーの正面へと泳ぎ出す。魚がウインドウをすり抜けるのに合わせて、通りから見えるように飾っていた朱色のエイが、身体の縁を上下に波打たたせて後に続いた。


 水色のナマズが床に潜り、琥珀色のカジキは猛スピードで外へ飛び出す。この二匹の作品名も変わっている。由来は知らないが、『雷槌』と『快速』だ。


「行かないでくれ!」


 数十匹はいたであろう魚は皆てんでんばらばらに泳ぎ始め、次々と部屋から去る。腕を広げて振り回し、亨が情けなく懇願の悲鳴を上げるが、彼に応えてくれる者はいなかった。


 赤も緑も、ターコイズも飴色も消えたギャラリーには、空っぽの棚だけが残る。あるじがいなくなった空間を、疎らに飾られた彼の絵が物寂しく見下ろしていた。


 瀬那が散った。辛うじて頭の中に留まっていた彼女が、無味乾燥とした記録に変わる。名前は覚えていても顔はぼやけ、その視線は自分を向いていない。食べ物の好みは、何だっただろう。どんな服を着ていただろうか。


 ウインドウに顔を寄せ、彼は魚の消えた街路へ目を走らせた。

 皆はどこへ行ったのかと探せど、無駄なこと。置き去りにされたと唇を噛む。身仕舞いするように、彼女は自分を綺麗に掃除してしまったのだ。


「独りにしないでくれ……」


 ――自分も連れて行ってくれ。


 煌めきが、今度は彼の言葉に応える。西欧アンティーク風の街灯が道路に作るオレンジの円、その中で小さな光が瞬いた。

 鼻をウインドウに押し付け、彼は光の点をまじまじと見る。魚――黄色い魚が地面から顔だけを出して、じっとこちらを眺めていた。


 亨は慌てて裏口へ走り、道路へ飛び出す。魚は逃げもせず、彼の方へ首を曲げた。


「待って……くれてるのか?」


 クロームイエローに着色された魚は、身体の細い掌サイズの作品だ。髭も目も無かったはずだが、今は口をパクパクさせ、体と同じ黄色の目で亨を見つめていた。

 彼が道を横切り、黄鯉に向けて歩き出すと、身体を反転させた魚はすうっと離れて行く。


「待て、待てよ!」


 鯉の泳いだ跡が、アスファルトに光の筋となって現れる。水を切る筋は暫く行ったところで止まり、跳ねた魚はまた彼を振り返った。街路が川瀬の如く揺れて彼を誘う。踏み出した足は、飛沫の代わりに光の粉を弾かせた。


 どこに導かれるのか分からぬまま、魚を追って歩く。黄色い身体は自らが発光して明るく目立ち、泳いでは止まってくれるおかげで、見失う心配はせずに済んだ。


 通りを駅に向かう途中で左に折れ、細い路地を抜けてまた二車線の道を進む。魚は堂々と車道の中央を泳ぎ、彼も遠慮無く真っ直ぐに付いて行った。


 自動車も行き交う人も見えず、街で動く者は魚と亨しかいない。音の消えた世界で、彼の足音がコツコツと、やがてヒタヒタと響く。歩く度に巻き上がる光粉は、次第に量を増して周囲をぼやけさせた。蛍火は舞い落ちる雪の白さを得て、更には火花も斯くやと輝き出す。


 また脇道に入り左へ。もはや魚以外が見えづらくなった道を直進し、再び右へ。延々と歩かされても、左右の足は不平も言わずに彼を前へ運んでくれた。それどころか軽やかな昂揚感が湧き、歩く速度も上がる。


 直進を止めた魚が道幅いっぱいに輪を描いて泳ぎ、彼が追い付くのを待った。手が届きそうな距離まで近付いても、それまでのように先導を再開しない。


 亨は静かに膝を折り、魚が回遊するルートに手を置いた。その手の内に飛び込むかと思われた黄色い光は、直前で大きくジャンプして、飛沫を散らしつつ彼を飛び越える。


 頭上に出来た光の弧は、一際強い輝きを放って虹を作った。七色の粉が降り注ぐ。彼が虹を見たのは何年ぶりだろう。

 光が消えた後には青い空が広がる。魚の形をした白い雲が一つ、ぽつりと浮かんでいた。





 息をするのも忘れていた彼を、盛大なクラクションが叱り付ける。


「バカヤロー! 死にたいのかっ」


 タイヤが金切り声を上げ、亨を轢く寸前でトラックが停まった。道路の真ん中で両膝をついていた亨へ、さっさと退くように運転手が怒鳴る。


 状況を把握できない彼には、まあまあと手を挙げて宥めるのが精一杯だ。連打されるクラクションに急き立てられ、歩道へ小走りで退避すると、車列はまた次の信号へ向けて流れていく。


 車道と隔てる鉄柵を跨ぎ、歩道に入ったところで、放置自転車に足を引っ掛けた。打った脛の痛みに悪態をつきながら、彼は自分の居場所を知ろうと、辺りの看板を見回す。道路標識は、ここが真波市の西区であると告げる。駅から離れた国道沿いで、ギャラリーからは随分と遠い。


 消費者金融の大型看板や、安売りの靴屋のノボリが目につくが、場所を特定するにはありふれ過ぎた手掛かりだ。目の前のファミリーレストランも、そこら中にあるチェーン店で何の変哲も無く――。


 外装は無個性でも、壁の汚れには特徴がある。黒いスプレーによる落書きを、上から雑に塗り潰したようだ。塗り重ねが甘かったせいか、単に経年劣化で浮き出たのか、『消えろ』と書かれた下の字が読み取れる。

 この字を彼は知っていた。


「来たことがある……のか?」


 消えるべきは落書きだろうに――自家撞着を起こした命令に苦笑いを浮かべながら、店の自動ドアへと進む。


 客の入りは多く、どうも昼飯時らしいと見当を付けて店内を見渡した。店員が出て来る気配は無い。何者かに招かれるような気配を感じた亨は、疑問を抱くことなく窓際のテーブルへ向かった。


 ほぼ満席に近い中、その四人掛けのテーブルには誰も座っておらず、一人分のフォークと水がセッティングされている。椅子を引いて独り腰を下ろしたと同時に、まだ学生に見えるウェイトレスが皿を運んできた。明るく脱色した髪の彼女は、注文を取ることなく、彼の前へ料理を並べる。


 生ハムのサラダに、アサリのパスタ。サラダにはハムとレタスの他に、赤と黄色のパプリカが色を添えていた。皿には手を付けず、彼は窓の外を眺める。

 瀬那と来たのかのだろうか。彼にそんな覚えは無い。


 グラスを取り、冷えた水を飲んで喉と頭を冷やした。荒っぽく置いたグラスの中で、カランと氷が鳴る。

 前のテーブルで、夫婦とその娘がピザを相手に格闘中だ。通路を挟んだ隣では、若いカップルがクラブサンドを手に持ったまま談笑する。


 静かな場所が好きな亨にすれば、ざわめくレストランは少々気にそぐわない。嫌悪とまでは行かなくとも、独りで昼食を取るならまず選ばない場所だ。コンビニでパンでも買い、公園を探す方が性に合っている。


『それじゃ不審者みたい。昼くらい、落ち着いて食べたらいいのに』


 小言は瀬那の役目。そう、いつまでも学生を真似て街をうろつく彼を、貫禄も付けるべきだと諭してくれた。


 独り暮らしで生活能力は上がっても、社会性が身につくかは別の話だ。まして美術畑は、奔放な人間が多い。他人の目を気にしない彼がギャラリーを経営し、顧客と上手く折衝できるようになったのは、瀬那が力添えしてくれたからだった。


 ともすれば勝手気ままに外れそうになる彼の軌道を、彼女が根気よく微修正する。たまに鬱陶しかった小言も、今となっては只々懐かしい。


 魚はこれを思い出させようと、彼をここに連れて来たのだろうか。多少なりとも彼女の姿が蘇り、魚を追ったことが無益ではなかったと亨は喜ぶ。


 食事をすれば、もっと記憶が繋がるかもしれないと思うと、壊滅的だった食欲も少しは復活した。パスタに視線をくれ、フォークをつまみ上げた時、前に座っていた幼女が彼へ振り向く。三つ編みを垂らした娘は、まだ言葉も拙い年頃だ。


 彼女は真剣な顔で亨を見つめ、視線を外すことなく左手でレストランの奥の壁を指差した。まなじりを決するような気迫に押され、彼はその指先に従って顔を向ける。


 観葉植物が邪魔ではあるが、幼い彼女が示そうとした物は、すぐに理解できた。ソファーの並ぶ奥の席、その上の壁に緑の流線が渦巻く絵画が飾られている。『水景――螺旋』、彼の作品だ。なぜここに在るのかを忘れていても、自分が描いた作品を見間違えたりしない。


 トン、トンと、頭が痛んだ。

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